いかにして民主主義は失われていくのか  新自由主義の見えざる攻撃 / ウェンディ・ブラウン(みすず書房)「政治の経済化」というファシズム  「文明の絶望」に抗うこと|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」

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読書人紙面掲載 書評
2017年8月14日

「政治の経済化」というファシズム 
「文明の絶望」に抗うこと

いかにして民主主義は失われていくのか  新自由主義の見えざる攻撃
著 者:ウェンディ・ブラウン
出版社:みすず書房
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思いつくままに挙げるだけでも、小説の笙野頼子、自由論の酒井隆史、文学の白石嘉治、労働問題の入江公康、精神分析の樫村愛子、経済学の中山智香子、歴史社会学の石原俊、教育学の大内裕和、政治学の木下ちがや、若者学の雨宮処凜、少女映画研究の河野真太郎といった具合に、日本語で簡便に読める書物の中でも、新自由主義に対する近年の批判言説には相当な蓄積がある。それだけ新自由主義は人間生活のあらゆる分野を侵食しているとも言える訳だが、これだけ詳細かつ広汎に批判されながらも、そこからの脱出の道筋がなかなか見出せないというのが現今の状況だろう。グローバリズムとローカリズムとの関係をめぐって、ひところ「グローカリズム」という用語がはやったことがあった。グローバルに思考しながらローカルに行動しようといったことだったと思うが、しかしすでに半世紀になろうとする新自由主義グローバリゼーションによって、そのような楽観主義は影を潜めてしまった。新自由主義とは、世界の隅々にまで浸透した「経済化」のことであって、それによってローカルな政治、すなわち個々人の自律にもとづく民主主義がかぎりなく侵食されているのが、現在私たちすべてがおかれている状態なのだ。

カリフォルニア大学バークレー校で政治哲学・政治思想史を講じるウェンディ・ブラウンによる本書は、そのような「政治的なものの新自由主義的経済化」を思想、歴史、社会の諸相から探求する。新自由主義体制の下で、市民は「犠牲の共有」を強いられ、むしろ進んで受け入れようとする。すなわち、「競争地位の獲得、信用格付け、そして成長がナショナルな目的となり、市民シティズンシップ性はこうした目的との和解を必要とするようになる。善き市民性は、こうした和解を引き受ける。悪い市民性(貪欲な公務員、福祉を食い物にする怠け者、妥協しない労働組合)は引き受けない。こうして、新自由主義は形式的に市民を国家から、政治から、そして社会的なものへの関心からでさえも解放することを約束する一方で、実践的には国家と市民性を統合して経済に奉仕させ、道徳的には誇張された自恃論と犠牲の甘受とを融合させるのである」(二四五―六頁)。日本語では「自己責任」という語彙で人口に膾炙したこの論理が、結局のところ、ファシズムへの対抗策として生み出された新自由主義をナショナルな全体主義に近づかせるという逆説的な真理は、多くの国で右派政権があからさまな排外主義と隠された新自由主義との併合によって、「善き市民」にも「悪い市民」にも犠牲を甘受させながら、国民の支持を受けている現状を見れば明らかだろう。

本書の主張をひとことで言うと、すべてのものの「経済化」という自由民主主義から市場民主主義への転換、すなわち経済的存在の支配が、私たちが持っている政治的存在としての潜勢力を破壊してしまう、ということになろう。そのときの鍵が日本語でも昨今さまざまな場面で幅を利かせるようになった「ガバナンス=統治性」だ。引用すれば、「ガバナンスの技術は階層的形態あるいは国家集権的形態に結びつけられた技術よりも民主的であると、それを支持する者はつねに主張するが、ガバナンスの技術の内部、あるいはより一般的には新自由主義の価値目録の内部には、デモスやデモスの政治活動(中略)のための場所は、単純に存在しないのである。さらには、政治的なものが経済化され、公的言説がガバナンスで充満されることによって、デモスと主権のカテゴリーがともに抹消されるかぎり、人民主権の価値は(中略)消されてしまう」(二四〇頁)。このように統治理性として新自由主義を再定義するために、ブラウンはフーコーの『生政治の誕生』を批判的に再読し、その具体的な事象として、軍事と農業の結託(イラク戦争後の種子の再利用禁止)、司法(大企業による選挙介入)、教育(公立大学における教養教育の破壊)といった「絶望」的な現象を取り上げていく。

あらゆる人間生活の新自由主義化によって、荒々しく「剥き出しの民主主義が失われ、自由が犠牲へと反転する」と述べるブラウンは、あくまでも自らを「左翼」と称しながら、この「文明の絶望」に抗うことだけが「最小限の希望をもつことを可能にする」と結論する。グローバルな政治が存在せず全てが経済化されたなかで、ホモ・ポリティクスとしての自分たちの「いまここ」を、「いまここではない」場所との関係において、どう政治として取り返していくのか? おそらくその答えは、辺野古や高江で基地建設に対して闘う人々が絶望でも希望でもなく闘い続けている姿勢にある。新自由主義に対する闘いも、グローバルでもインターナショナルでもない、「ここ」と「ここではない」場所との連帯から始まるのだ。(中井亜佐子訳)
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2017年8月11日 新聞掲載(第3202号)
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