愛のうた バッハの声楽作品 / マークス・ラータイ(春秋社)バッハ崇拝を脱構築  イメージを根底から覆す試み|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」

トップページ

特集

書評

連載

コラム

ニュース

  1. 読書人トップ
  2. 書評
  3. 愛のうた バッハの声楽作品 / マークス・ラータイ(春秋社)バッハ崇拝を脱構築  イメージを根底から覆す試み・・・
読書人紙面掲載 書評
2017年8月14日

バッハ崇拝を脱構築 
イメージを根底から覆す試み

愛のうた バッハの声楽作品
著 者:マークス・ラータイ
出版社:春秋社
このエントリーをはてなブックマークに追加
邦訳タイトルを見て、感動する向きと鼻白む向きの両方に分かれるかもしれない(実を言えば、評者は後者のほうだった)。「バッハ=愛の人」のようなキャッチフレーズは、今までもうんざりするほど繰り返されてきており、クラシック音楽の作曲家を必要以上に聖人扱いしようとする凝り固まった価値観に易々と絡め取られてしまいそうな言説だから、というのがその理由。

だがそんな偏見も、ページを開いた途端に吹き飛ぶ。「今日の聴き手には、バッハやバッハの声楽作品についてより豊富な知識があるとはいえ、いまだ先入観にもとづく見方や期待に出くわすことがある」と著者自身が述べているからだ。それに続けてこんな記述が続く。「愛は、18世紀のオペラでもバッハの声楽作品でも重要なトピックだ。バッハの《マニフィカト》や受難曲、《クリスマス・オラトリオ》、《ロ短調ミサ曲》には、ラヴ・ソングや官能的な二重唱が見られる。(…)バッハは1曲もオペラを作曲しなかったが、効果的な愛の場面を音楽にとり入れる方法を知悉していたのだ。」

これぞまさに、後世から「ドイツ音楽の父」として崇拝される中で、謹厳実直なイメージを一方的に与えられてきたバッハ像を根底から覆そうとする試みに他ならない。というのも、従来バッハと愛について語られる時の「愛」とは、アガペー=人間に対する神の絶対的な自己犠牲愛といった意味合いで扱われることがほとんどだったからだ。つまりはキリスト教神学的な要素が非常に強い概念であって、敬虔なクリスチャンや熱心なバッハ信奉者ならともかく、俗世の人間にはどうも分からんしとっつきにくいね…というような「愛」だった。

ところがこの本の著者は、のっけからバッハにおける「愛」を、むしろエロス=官能的な愛と捉えて憚らない。しかも、何やら厳めしいイメージの付きまとうバッハの宗教音楽の代表作を、オペラと同列に論じようとする。日本でオペラというと、真面目なクラシック音楽の一ジャンルと捉えられてしまう傾向があるが、ヨーロッパ…特にオペラの発祥の地イタリアではけっしてそんなことはない。いわば地域に根差した一大娯楽であって、元々はやんごとなき人々のための逢引の場であったほど猥雑な要素を孕んだ存在だった。

著者は、そうした文脈にバッハの宗教音楽をいったん引き戻した上で、それらの魅力を分析してゆく。その際に重要な鍵となるのが、バッハの宗教作品…ひいてはその基本思想をなすルター派の考え方…は、アガペーとエロスを線引きしないといおうか、精神的なアガペーを持ち上げ身体的なエロスを見下す(もっと伝統的な言い方をするならば、肉体を魂の下位に置く)というよくありがちな宗教観から一線を画していたという点。もちろん宗教に関連することだから、エロスを通じてアガペーへという道のりはたしかに存在するのだが、それでもこのような考え方が当時いかに新鮮だったか…今だって新鮮だ…は言うを待たない。

いや、それもこれももしかすると、著者のバッハ作品への解釈、さらにはルター派への見方が、こうした思考を可能にしたのだろう。そうでなければ、バッハの宗教音楽作品(『マニフィカト』)の中の曲について次のようには書けまい。「(…)神の力と強さが肉体的な強さとして非常に具体的に描かれるこの曲は、展型的な男性の声であるバスに委ねられる。(…)このアリアからは、テストステロン(男性ホルモン)が出ている。」バッハの宗教作品を論じて、「ホルモン」ですよ、「ホルモン」! 図抜けてユニークな見解ではなかろうか。

このようにして、19世紀に過剰なまでのバッハ崇拝を打ち立てたドイツという地から、逆にそれを相対化し、脱構築化しようとする試みが生まれた。かたや、そのドイツ発祥の音楽観を現在に至るまで恭しく受け継いでいる日本はどうだろう? 古いものの上に積もり積もった塵を取り払う努力を怠るならば、辺り一面カビだらけになっちゃうよ!(木村佐千子訳)
以下のオンライン書店でご購入できます
2017年8月11日 新聞掲載(第3202号)
このエントリーをはてなブックマークに追加
この記事の中でご紹介した本
芸術・娯楽 > 音楽 > 音楽学と同じカテゴリの 記事