夏目漱石 『猫』から『明暗』まで / 平岡 敏夫(鳥影社)著者の関心の軌跡を示す重量感ある一冊|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」

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読書人紙面掲載 書評
2017年8月14日

著者の関心の軌跡を示す重量感ある一冊

夏目漱石 『猫』から『明暗』まで
著 者:平岡 敏夫
出版社:鳥影社
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平岡氏の漱石論の新著を手にし、書架からこれまでの四冊、『漱石序説』(一九七六)、『漱石研究ESSAY ON SOSEKI』(一九八七)、『「坊つちゃん」の世界』(一九九二)、『漱石 ある佐幕派子女の物語』(二〇〇〇)を取り出して、著者の半世紀にわたる漱石探求の軌跡を振り返っている。記念碑的な「「坊っちゃん」試論―小日向の養源寺―」(一九七一)は、まさに作品論全盛の時期に発表されており、手つきは様々だが、この論文を収録する最初の著書には、作品世界に丹念に向き合おう、その全体像を解明しようという姿勢が顕著である。論じにくかった「虞美人草」を鮮やかに論述するエネルギーなど、わたくしたち後進にはまばゆかった。ほぼ十数年ごとに刊行された論集では、ある時は漱石伝の問題を追いかけ、ある時は「明治」という時代を視野に入れたり、折々の精力的な著者の表現が印象的だった。「佐幕派」「夕暮れ」など、著者ならではの視点も、その後の論集では導入された。

本書は、すでに刊行された本から幾つかの論文を再録はするが、多くの本や雑誌に発表された比較的最近のエッセイ調の文章をも漏らさず集成し、いわば著者の漱石万華鏡としての体裁を持った、「平岡漱石」の達成を明らかに示す一冊となっている。まず印象的なのは、論ずる文章の調子が、年代を問わずいつでも張り詰めていることである。著者にはすでに新書判の単著の「坊っちゃん」論があるが、今回の著書には、長短合わせて八編もの「坊っちゃん」を論じた、全部で一二〇ページもの文章が集められている。一九八九年の岩波文庫の「解説」から書き下ろしのエッセイまで、テーマや切り口は様々であるが、流れているのはこの小説に対する飽くなき愛着をベースにした、長年の繙読からの発見である。漱石没後の「坊っちゃん」評価の歴史を、赤木桁平から最近の諸家の発言、さらにはそうした解説類を鮮やかに論断する斎藤美奈子の指摘まで大きく視野に入れて振り返った、「漱石没後百年の『坊っちゃん』」と題された一章など、著者の明晰な評価軸を感じさせて印象深い。時には佐幕派の運命を読み取り、角川文庫の中勘助「銀の匙」の解説では、さり気なく「坊っちゃん」との情感での交感を指摘する、そうした文章は、学術的な論文とは違った「芸」「味わい」を感じせる学芸エッセイとなっていないか。その意味で、「銀の匙」の「解説」に付けられていた「比類なく美しい幼少期の物語」という初出の表題が、本書のどこにも記録されていないのは寂しい。

比較的最近の論考や、本書に書き下ろしで収録された論考のいくつかに触れておこう。書き下ろしでは、「彼岸過迄」にわずかに登場する須永の生母「御弓」を論じた一章が興味深い。作中の「憐れ深いといった語」の用例に注意しつつ、「御弓」の形象をたどり、「憐れ」の情感を分析する著者の、この作品への思い入れがしみじみとした読後感をもたらしている。また、「明暗」に言及した二つの文章は短文だが、著者の人間に対する見方をさりげなく示している。「明暗」の中に少年真事が登場する部分に関連して、津田の感じた「微かな哀傷」という表現に注目し、「津田の胸を通り過ぎた微かな「哀傷」を読みとるか否かは、津田への評価にかかわり、さらには『明暗』全体の評価にも響いてくるだろう」と明確に主張するところなど、著者の研究の原点、作品の何を見据えて論述するかという姿を感じさせてくれる。「明治」の現実のメカニズムを見据えてきた著者の背後には、「思想」「イデオロギー」とは違った「憐れ」「哀傷」といった人間性に寄り添う感覚が隠されていたのではないか。そうしたものの存在に注意することで、本書と、近刊の詩集『塩飽から遠く離れて』の世界をつなぐものが見えてくるように思う。

著者の五冊目の漱石論は、必ずしも体系的な論集を目指していない。折に触れ本書をひもときながら、著者の静かな、しかし熱い語り口に出会う体験を、これからも続けたいと念じている。
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2017年8月11日 新聞掲載(第3202号)
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