60年代のゴダールの 21世紀初頭における正統な後継者  黒川幸則「VILLAGE ON THE VILLAGE」|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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映画時評
2016年8月12日

60年代のゴダールの 21世紀初頭における正統な後継者  黒川幸則「VILLAGE ON THE VILLAGE」

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面白いことをしてそれを面白く撮り、面白く繋げる。そんな単純なことを徹底してやり通した映画、黒川幸則の『ヴィレッジ・オン・ザ・ヴィレッジ』が圧倒的に素晴らしい。あらゆるショット、あらゆる編集に映画の喜びが溢れる珠玉の作品である。

しかも、それだけでは終わらない。奇跡のような場面がある。夜の小さなレストラン。奇妙な村に迷い込んだバンドマンの中西がギターを取り出し、幽霊の女が歌う。まさにこの場面の存在によって、この映画は真に偉大な作品となったのだ。まるでヌーヴェル・ヴァーグの映画に繰り返し出て来た歌の場面のようだ。特に、六〇年代のゴダールの映画におけるアンナ・カリーナの歌を思い出させる。単に曲がいい、歌が上手いといったことではない。ここで観客が目にし、耳にするのはまさに映画における歌なのだ。映画はずっと音楽に憧れ嫉妬してきた。そんな両者の関係が極めて純粋な形で表出された歌の場面である。

六〇年代のゴダールと書いたが、この映画そのものがこの時期の彼の作品にどこか似ている。直接的な影響ならばジェリー・ルイスや鎮西尚一を挙げるべきだが、それでも六〇年代のゴダールの作品とこの映画は根源的なところで繋がっているのだ。徹夜をした変な幽霊が去っていく時や、中西とダーツバーで働く絢がプラットホームに降り立つ時の、構図をほぼ変えない小刻みなジャンプ・カットはまさにゴダールの編集だ。しかし、直ちにゴダール的とは言えない繋ぎも多い。中西と絢が川辺で話をする場面では、独特なリズムでカメラが何度もどんでんを返す。中西が村で知り合った仲間と昼間から部屋で酒を飲み出すと、カメラは九〇度回り込んで彼らを何度も捉え直す。ゴダールならこのようなカット割りはしないだろう。とはいえ、自然さによって繋ぎ目を目立たなくしようとするのではなく、繋ぎ目を目立たせて、そこに画面の快楽を見出そうとする編集という点では同じである。形式上の類似ではない。画面に対する姿勢が共通しているのだ。ゴダールは映画史に精通しながらも、ショットや編集と意識的に戯れつつ映画を全く新しい形で再発見した。黒川幸則も同じことをした。彼は六〇年代のゴダールの模倣者では決してない。二一世紀初頭におけるその正統な後継者である。

歌の場面に戻ろう。ファーストショットと同じ窓越しのカメラが、緩やかに動きつつ長回しで歌う女を捉える。ゴダールの歌の場面とは異なる撮り方だ。この窓は、『男性・女性』の録音スタジオの窓ガラスとは異質である。六〇年代のゴダールを見事に受け継ぎながらも、ここでこうしたショットを撮れたことに、黒川幸則のただならぬ個性と才能がある。

歌う女が川から現れた幽霊であることにも注意しよう。この歌はセイレーンの死の誘惑なのだ。全篇で大量のアルコールが消費され、その酩酊は生と死の狭間で揺らぐ。夜の川辺で別の女の幽霊が手にする缶ビールはまさに死の酒だ。絢と飲む酒は境界を曖昧に漂い、最後の闇夜の乾杯によって中西は生のほうへ帰っていく。ただし、この映画では生と死はそれほど対立していない。死者には死者の生命があり、石には石の生命がある。生きた人間に限定されない、万物流転における根源的で豊かな生命を、この映画は描いているのだ。

今月は他に、『死霊館 エンフィールド事件』『ロスト・バケーション』『ヤング・アダルト・ニューヨーク』などが面白かった。また未公開だが、アラン・カヴァリエの『天国』も良かった。
2016年8月12日 新聞掲載(第3152号)
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