夏目漱石生誕百五十年、歿後百年記念『漱石辞典』(翰林書房)刊行を機に 二十世紀文学の流れを先取りしていた漱石 〈対 談〉奥泉 光×小森 陽一|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 特集
2017年9月7日

夏目漱石生誕百五十年、歿後百年記念『漱石辞典』(翰林書房)刊行を機に
二十世紀文学の流れを先取りしていた漱石
〈対 談〉奥泉 光×小森 陽一

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生誕百五十年、歿後百年という節目にあたり、夏目漱石関連の書籍は普段に増して数多く刊行されている。そのような中、執筆者総勢298名、全797項目からなる、漱石研究者や国文学関係者だけでなく、一般読者にも読み応え十分で興味深い『漱石辞典』が翰林書房から刊行された。
これを機に夏目漱石について、この辞典の編者の中心となった東京大学教授の小森陽一氏と、『「吾輩は猫である」殺人事件』や『漱石漫談』(いとうせいこう氏との共著)などの著作もある作家の奥泉光氏に対談をしていただいた。 (編集部)

立体的な漱石論で小説でもある辞典

小森
 まず『漱石辞典』の御感想を伺いますが、どこを最初に読みましたか。
奥泉
 いちおう最初から読み出して、しかし途中からはパラパラとめくって目についたところを読む感じですね。僕は漱石の作品では『猫』が一番好きなんですが、『夏目漱石、読んじゃえば?』(河出書房新社)では、『猫』のような小説は頭から最後まで通読しようなんて考えなくていい、たまたま開いたところを読んで面白くない小説はつまらないのだと強調した。一冊の本を頭から最後まで通読するのが読むという行為なのではなくて、眼に付いたところをときどき読むといった形を含め、長く付き合っていくというイメージですね。この辞典もそう読むべきものだと思います。
小森
 それは漱石の読書論の要で『草枕』で那美さんと画工が論争していますね。
奥泉
 そう。〈「ただ机の上へ、こう開けて、開いた所をいい加減に読んでるんです」「それで面白いんですか」「それが面白いんです」「なぜ?」「なぜって、小説なんか、そうして読む方が面白いです」〉とちゃんと書いている。そうやって作品に付き合っていくのがいい。その意味で言うと、この辞典は圧倒的に小説的ですね。
小森
 そう言っていただけると、本当に嬉しいです。
奥泉
 小説的と言うより、端的に小説と呼んでいいかもしれない。僕の定義では、小説とはむしろこういうものなんですね。しかも面白いのは、この本の生み出す世界が一方にあって、他方に漱石の作品世界がある。漱石の作品とこの本とが互いに響き合うことで、非常に立体的なテクスト世界が浮かび上がってくる。
小森
 そこも編集方針です。
奥泉
 だからとても立体的な漱石論であるし、小説でもある。小説に限らずどんなテクストも他のテクストと響き合うことによって立体性が生じるわけですが、とくに本書は、漱石のテクストという一つの宇宙と共鳴するかたちで、まったく新たな世界がひらけていくところが大変面白い。
小森
 それは嬉しいです。まず執筆者一覧からご覧になったということでしたが、「人」のコーナーの中の項目が人名なのは当然として、実は「よむ・みる」というコーナーも人名づくしなんです。「人」は岩波茂雄や夏目鏡子のような実際に漱石を取り囲んでいた人物なのだけれど、「よむ・みる」では池大雅やシェイクスピアなど、漱石を取り囲んでいたテクストの作者ですね。しかもそれは文学テクストだったり、絵画テクストだったりします。今の奥泉さんのお話を聞いて編者としては方針が伝わっていたので嬉しいです。私たちもこの辞典を作るにあたって、漱石をとり巻く人々と漱石をとり巻くテクストの中に漱石自身のテクストを置くと、これまでにない新しい発見がありました。
奥泉
 小説というのは基本的に直線的なものですよね。しかしパソコンの中でだったら、たとえばある人名なり言葉をクリックすると、そこから別の小説空間が開いて、そこへ入って行け、また何かをクリックするとさらに奥の世界が開けていく、というようなことができる。つまり電脳空間の中にリニアな平面ではなく、立体的な小説世界を作ることができると思う。しかし、この辞典は紙媒体でそれに近いことをやっている感じがしました。漱石のテクスト中の人名とかアイテム、言葉から奥へ進んでいって、するとそこで何か別なものが現れ、世界が入り組んで迷宮のように広がる。
小森
 それは巻末の索引を使っていただけると、クロスオーバーに出来るように道筋は付けてあるんです。
奥泉
 漱石という作家を一種の立体空間の中に浮かび上がらせる仕掛けだとも思いました。だから、繰り返しになりますが、リニアに通読せず、開いたところを読めばいい。たとえば「思想・思潮」のコーナーを見ると、「禅」の項目の隣に「青年」がある。さらにその隣が「戦争」。こういう意表をつく並び具合がとても小説的だし、テクストを立体的にする。なにしろ「青年」「禅」「戦争」ですからね。そういう並びが面白い。
小森
 それは「思想・思潮」などのようにカテゴリーを立てたからですし、「青年」という言葉を一般的な言葉ではなくて「思想・思潮」の方に置いたからなんですね。つまり「青年」という概念が成立してきたそのことが社会的に話題になり、藤村操の自殺で「青年」の「煩悶」が取り沙汰され、それで漱石も苦労したみたいなことがあったから、項目を立てる議論の時にこれは「思想」だねということになったわけです。そういう漱石的ワープみたいなものがあって、その結果が「青年」と「禅」と「戦争」がくっつくという誰も考えないシュールな世界になった。
奥泉
 でも「青年」「禅」「戦争」と並ぶのは、まさしく漱石らしいとも言えますね。
小森
 漱石そのものですよ。つまり漱石はまさに青年の時に正岡子規と文学に目覚め、そして教師になって青年を相手にし、教師をやめて小説を書こうかとなる。そして彼には青年時代の禅体験があって、小説の中には禅をベースにした能の世界が実はあり、それが五つの戦争で縁取られた漱石の全人生だったという妙に納得の行く話がこの三項目で出来てしまったりする。読者は「禅」の項目を読みながら「戦争」の項目も目に入ってしまうわけです。そういう関係ない誘惑が妙なことを人に考えさせてしまう。
奥泉
 すごく嬉しそうに語ってるけど(笑)、しかしそれは小説を読む喜びそのものじゃないですか。小説を読むことは、そうした言葉の連鎖が生み出すイメージや想像力の動きが面白いわけで。
小森
 それが辞典に表れてしまったのですね。
奥泉
 それが成り立つのは漱石だから、ということもあるのかな。
小森
 そうだと思います。
時代への鋭い批評性が浮かび上がる

奥泉
 一つには漱石はそんなに作品数が多くないということはあるかもしれませんね。漱石は作家としての活動期間が短いですから。
小森
 十年ですからね。しかも中年になって自分の言語を鍛えてから集中的に小説を書いたということがやはり大事だと思う。日本の作家では珍しいわけですよね。みんなだいたい学生時代からとか若い頃から始めていますから。
奥泉
 最初から完成された作家としてスタートして、だから「初期」とか「後期」とか言うことに意味がない作家である。最初から完成されていて、かつ作品数が多くないことが、全体を見通しやすくしていて、漱石の小説作品全体が一個のテクスト世界として見えてくる感じが僕にはある。一つひとつの作品を読んだり、それについて考える時にも、他の作品のことが必ず意識に上ってくることになる。
小森
 常にそれぞれの小説が相互参照し合うような関係で人の頭の中に入りうるわけです。
奥泉
 ですね。そうした前提があるから、なおさら本書が漱石の小説世界と共鳴しやすくなっている。時に不協和音を含みつつ、豊かに響き合う環境を作り出しているんじゃないかと思いましたね。
小森
 でもそこにはやはり漱石が小説を書いた時代の問題もあると思います。
奥泉
 漱石は慶応三年生まれだから、ちょうど明治とともに生きてきて、作家になってしばらくした頃に明治というひとつの時代が終わり、それは世界史的には帝国主義時代の真っ只中であり、いまに連続するような大衆社会がスタートする時代でもある。近代の典型的な場所に彼はいますね。
小森
 しかも小説を書き始めた時に戒厳令が発せられているから、検閲と言論弾圧に抗してどうやって言いたいことを言うのかという、読者共同体とのある種の共犯関係を作っていかなければいけない。
奥泉
 漱石自身が生まれた時代を選んだわけではないけれども、今となっては特権的な場所にいるようにも見える。
小森
 まあ私はいつも深読みに過ぎると言われているけど、彼もそれを意識していた感じがしてくるわけです。漱石は彼の生きた、そして小説を書いていた時代状況とも関わってくるのですね。
奥泉
 直接にはあまり書いていないように見えて、時代への鋭い批評性があるということですね。実際、漱石の個々の小説を読んでいて、社会批評のようなものはそれほど出てくる印象はないんだけど、トータルに漱石を考えると、小森さんがいつも強調するように、帝国主義の荒波に揉まれる日本のなかで人はどうすればいいのかという課題が浮かび上がる印象があります。
小森
 だから書いてあるわけです。
奥泉
 なかなかそう読む人はいないと思うけど(笑)。でも、それはテクスト自体が持つ力だし、そういうコードで読みたくさせるものがあるのは間違いない。そもそも小説を書くことと読むことにはそんなに違いはないと思います。小森さんと石原千秋さんの『漱石激読』(河出書房新社)でも指摘されていましたけれど、それはじつは漱石が『文学論』の中で言っていることなんですね。『文学論』は読者論であるとお二人は指摘していましたが、読者論であるとはつまり、小説がどう書かれるかよりも、どう読まれるかを問題にするということだろうと思います。読者がテクストからいかに小説世界を創造していくのか。そういう意味で読むことと書くことは同じことなんだという視点が『文学論』にはある。
小森
 私はこの十年間『文学論』で漱石小説を読み直すという実践をやってます。
奥泉
 小森さんは深読みとおっしゃるけど、漱石はどんどん新たなコードを導入して小説の世界を膨らませていって良いんだと考えていたんだと思います。漱石のテクストの捉え方は二十世紀文学の流れを完全に先取りしている。テクスト自体が読者の読みのなかで膨らんでいったり広がっていったりするのが小説なんだと。だからこそ部分的に読んでかまわない。最初から最後まで読み通して、作家が伝えたいメッセージを的確に受け止めるのが読書だとは全然言っていない。それが『文学論』に忠実な読みで、その実践から生まれたのがこの『漱石辞典』だということになるんじゃないでしょうか。
二十世紀文学としての『草枕』そして『坑夫』

小森
 今二十世紀文学と言われましたね。
奥泉
 自然主義リアリズムに代表されるような、小説とはこういうものだという通念を批評して異議を唱えたのが『草枕』ではないですか。
小森
 では『草枕』から二十世紀文学だと。
奥泉
 僕はそういうイメージですね。だから漱石の作品の中では『草枕』が一番気合が入っているように思うんです。小説とはどういうものであるかを、若い時から理論的に考えてきて、さらに実作もしてみたところで、これが私が考える小説だと打ち出したのが『草枕』だと思う。
小森
 理論と実践がしっかり応答しているわけですよね。
奥泉
 作家が実作することで小説とは何かを確かめていく面はあると思うんです。だから漱石の『猫』の連載を追っていくと、どんどん漱石が小説家になっている感じがするんですが、その流れの集大成が『草枕』ではないかと。
小森
 『吾輩は猫である』の集大成が『草枕』というのはすごい認識ですね。『草枕』はこの『漱石辞典』の中でもいろいろなところに登場していて、その旅がなかなか面白いのだけど、その中で私の同僚の松岡心平さんという能の専門家が『草枕』は能そのものだと書かれているのです。確かに実際に能仕立てになっていて、能舞台で演じるように那美さんは行ったり来たりしている。それで能の世界だと考えてみると、能では旅の僧であるワキが画工で、この場所にはこういう言い伝えがあると説明する茶屋の婆さんが前ジテ。そして後ジテとして那美さんが出てくる。
奥泉
 であるならば、本当は那美さんは死者の霊を担って出てこなくちゃいけない。
小森
 そこで大転換があって、彼女はこれから死にに行く久一さんを送っていく。しかも那美さんはシェイクスピアのオフィーリアとも重なる。
奥泉
 長良の乙女=オフィーリアという死者たちを担って、つまりシテとして彼女が登場するのが本来の能の構造なんだけど、しかしそれはやらない。
小森
 岩から飛び降りるのかなと思うと向こう側に飛び移るだけ。長良の乙女は二人の男に惚れられたから自ら身を投げて自殺するのだけど那美さんは、二人とも「男妾にするばかりですわ」と。
奥泉
 漱石は物語の構造をわざと脱臼させているんですね。
小森
 パロディとパスティーシュという奥泉さんが大好きな世界をふんだんにやっていますよね。
奥泉
 一方で漱石の作品全体で言うと、何でこういう小説を突出して書いたんだろうとびっくりするものがいくつかある。まずは『吾輩は猫である』。これはまあ最初の作品だから、突出するのは当然として、驚くのは『坊っちゃん』ですね。何でこういうものが急に出てきたのかすごく不思議なんです。
小森
 『坊っちゃん』の過激さは試験の採点のあとの一気書きだからだと思います。いわば自己開放。
奥泉
 なるほど。しかし、あのスタイル、あの登場人物たちは、漱石の文業を見渡したとき、突発的に出現した印象がすごくある。『草枕』は意外にそうじゃない。
小森
 『草枕』は狙って意図的にやっているのに、ほぼ同時期に書いた『坊っちゃん』はなぜなのだということですが、やっぱりあの「親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。」という出だしが全てです。あれはもう「神ってる」というか降りてきたのではないか。
奥泉
 ですね。「吾輩は猫である。名前はまだ無い。」と同じで、あの二つは降りてきた感がある。それともう一つは『坑夫』です。あれもやっぱり突発的に出てきた感じがする。漱石の小説の創作に理解できる流れはいちおうあるんですよ。『草枕』を書いて、それから新聞社に入って『虞美人草』を書いた。『虞美人草』は『草枕』の流れをくんでいるんだけれど、あまり評判が良くなかった。
小森
 というか自分でもあれは失敗したと判断したのだと思います。
奥泉
 それでもうちょっと都会風俗など入れ込んだ『三四郎』を書く。『三四郎』にも『草枕』っぽいところがいっぱいあるんだけれど、しだいにリアリズムに近づくような形で『それから』や『門』が書かれていく。しかし『坑夫』だけは全然違うじゃないですか。あのスタイルは相当変ですよ。
小森
 ごく僅かな時間差の中で、「私」がここまで理解したことを語るという、非常に限定された世界の作り方ですね。微妙な語りの位置と現在進行系の物語の位置をずらすという、この技はやはり『坊っちゃん』で獲得しているわけですが、その意味では漱石の小説の中では『坑夫』が一番新しいですよね。ほとんど意識の流れ小説で、もっとも二十世紀的な小説だ思います。
奥泉
 意識の流れの技法を漱石は学んで書いたということでいいのかな。
小森
 それは意識していたと思いますよ。文学理論ベースの一つがウィリアム・ジェイムズだから、弟のヘンリー・ジェイムズが意識の流れ小説家。まあどこまで実証できるか課題ですけれど、そのあたりもこの辞典を交錯読みすると見えてくると思います。
奥泉
 でも意識の流れの技法をその後は漱石はそんなに使わないですよね。
小森
 それは新聞小説でどこまでやれるかということがあったのではないですか。それと『虞美人草』で作者というのを前面に出したけど、世界を構築出来ず、ある種敗北するわけです。小説は作家の思い通りにならないものなのだという経験が大きかったんのではないか。だからむしろ設定だけ作っておいて、中の言葉の自然体に任せてどこまで行けるかというのが『坑夫』で、その両方がやれたので、『三四郎』で急にうまくなった感じがするわけです。でもそのベースはやはり『坊っちゃん』の一気書きにあるというか、あれは漱石の無意識が吹き出していると思います。
奥泉
 なるほど。
漱石をどう読むかというコード集として

小森
 ところで奥泉さんは『猫』ではどこが好きですか。
奥泉
 好きなシーンはいっぱいありますけど、一番好きなのは二章の吾輩と三毛子が会話を交わすシーンですね。有名な「天璋院様の御祐筆の妹の……」の出てくるところ。『猫』を書き出したとき、漱石は小説を書くつもりはなかったと思うんです。第一章は当時で言う「文」ですよね。
小森
 落語風に言うと「落し噺」ですね。だから「吾輩は猫である。名前はまだない。」で始まって、「生涯この教師の家で無名の猫で終るつもりだ。」で終る。
奥泉
 だから一章ではまだ苦沙弥先生の名前は出てこない。それで評判が良かったので、続きを書けと言われて書いた二章で、はじめて小説にしようとしていると思う。だから二章では迷亭が出てきて寒月も出てきてと、人物が固有名とともに名前が出てくる。加えて二章で重要なのは、もちろん小森さんも書かれているけど、他の猫が出てくるということですよね。
小森
 猫世界が自立するのです。でも二章で猫世界はやめてしまう。
奥泉
 そう、やめちゃうんですよ。三章の冒頭が「三毛子は死ぬ。黒は相手にならず、いささか寂寞の感はあるが、幸い人間に知己が出来たのでさほど退屈とも思わぬ。」ですからね。
小森
 あそこで「吾輩」が人間世界を相対化する語り手となって、猫世界は終わる。
奥泉
 そう。人間観察はするけど、猫社会も同時に描かれるところに小説としての立体性があったんですよ。でも、それは三章以降捨ててしまった。それはちょっと不思議。でもね、『猫』は十一章までありますけど、全体にとってあの第二章が決定的なんです。
小森
 長篇小説として考えた時に、二章がないと駄目だというのはよく分かります。
奥泉
 二章は絶対に必要です。つまりあそこで主人公の猫の性格がていねいに描かれている。車屋の黒と対話するシーンでは、乱暴者からうまく距離を取る上品ぶった猫、そして三毛子との会話の中では、「あら、先生」なんて呼ばれたりして、ちょっと気取って見栄を張る猫が描かれる。それがあるから全体として名前のない猫のイメージが読者のなかに定着して、彼のかたりを愉しく読んでいけるようになっているんですね。吾輩が外側から見られるのは黒や三毛子と対話するシーンだけで、あそこでだけ猫が相対化されて描かれているんです。
小森
 それってまさに小説の基本原理ですよね。そこで漱石は実践できちっと学んでやり方が分かった。
奥泉
 学んでいると思います。でも普通は作家ってだんだん成熟していくんだけど、漱石は全然そうじゃないんですよね。『彼岸過迄』『行人』『こころ』の三部作で、もう一度、チャレンジというか、新たな実験している感じがします。
小森
 実験はしていますね。
奥泉
 『門』が完成しているかどうかはともかく、あそこでまた新しいことをやろうとしているのがすごい。その試みが必ずしも成功しているとはいい難いんじゃないかなとは思うけど。
小森
 短篇小説を合わせて長篇小説を作ることを実験した三部作ですけど、小説としては破綻してますよね。『こころ』も単行本にする時に上中下に無理やり分けて短篇を合わせたかたちにするほどにこだわっていたのでしょうが。『こころ』は面白く読みすぎて、小森は深読みに過ぎると怒られて論争になって、漱石研究者にまでなってしまったという因縁の小説ですが(笑)。
奥泉
 それはもう僕の立場からすれば小森さんが正しいと思います。だいたい正しい読み誤った読みなどという評価軸は小説にはないのであって、小説はとにかく面白く読んだ者勝ち。漱石がどう考えていたかなどはどうだっていいわけで。読者にとってはテクストがそこにあるということでしかないのだから。漱石が何を考えていたかを想像するのは楽しいけれど、でもそのことと小説を読むことはやっぱり別で、それは漱石自身も同じように考えていたと思います。漱石はこう書いたのだから、そう読まなければいけないということはいささかもない。もしそうなら小説なんて読む意味がないくらいに言ってもいいと思う。小説は読者が世界を作っていくべきものなんです。
小森
 まあ、だから小森は深読みに過ぎると言われるのですが(笑)。
奥泉
 そういうふうに読んでいいわけで、この本もそういう編集方針で貫かれているわけでしょう? つまり本書は漱石をどう読むかという一種のコード集になっている。コードを駆使し、深読みをすることでテクストの世界が広がり立体化する。これも最初に言いましたが、それは小説を読む悦びそのものと言っていい。
小森
 それぞれの執筆者がどこを引用するかとかどう読むかがこの辞典の読みどころでもあるのですけど、そうすると読者も自分なりに書きたくなってくるわけですね。それも大事なことで、項目執筆担当者に喧嘩を売りながら読むというのも一つの読み方です。俺だったらあそこを引用するよなんてね。それが出てくるとまたすごい脳内インターテクスチュアリティが生まれてくるはずです。
奥泉
 面白いですね。

(了)

この記事の中でご紹介した本
漱石辞典/翰林書房
漱石辞典
編集者:小森 陽一、飯田 祐子、佐藤 泉
出版社:翰林書房
以下のオンライン書店でご購入できます
2017年9月1日 新聞掲載(第3205号)
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