映画「三里塚のイカロス」代島治彦監督に聞く 「三里塚のイカロス」公開を機に 代島治彦監督インタビュー|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 特集
2017年9月8日

映画「三里塚のイカロス」代島治彦監督に聞く
「三里塚のイカロス」公開を機に
代島治彦監督インタビュー

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成田市三里塚の農村地帯に成田空港建設が決まったのは一九六六年。それ以来続く、日本で最大、最後の国家権力に対する抵抗運動を「三里塚闘争」という。小川紳介監督によるドキュメンタリー映画『日本解放戦線・三里塚の夏』(一九六八年)から約五〇年の時を経て、大津幸四郎、代島治彦共同監督の『三里塚に生きる』(二〇一四年)が公開。その姉妹編として、代島氏が再び三里塚を掘り起こす。『三里塚のイカロス』には、義勇兵として闘争に参加した新左翼の若者たち、農民支援として三里塚に入り農家に嫁いだ女性たち、二五年にわたって三里塚闘争の責任者を務めた男、農民運動家、元空港公団職員など、さまざまな立場の人々が登場する。忘れられかけている“あの時代”と、「その後の五〇年」が、今初めて語られる。公開を前に監督にお話を伺った。 (編集部)

9月9日、シアター・イメージフォーラム他にて全国順次ロードショー (c)2017 三里塚のイカロス製作委員会
■“あの時代”を掘り起こす

「前作は、三里塚闘争の当事者だった農民を中心に撮りましたが、今回は、義勇兵として外部から三里塚に入った若者たちの、その後を追いたいと思いました。もっといい社会を作ろうと立ち上り、果たせなかった。それぞれの葛藤の中で生きぬいた、彼らの現在に出会いたかった。

もう一つは、一九六〇年代から七〇年代にわたる“政治運動の季節”とは何だったのかを、僕自身の問題として考えたかった。空港があることが当たり前の時代となり、今では闘争の記憶も忘れられています。 でも二〇一二年から大津さんと一緒に三里塚に入り、いろいろな人に話を聞く中で、この土地には“あの時代”が埋まっている、三里塚を掘り起こすことで“あの時代”が発掘される、と。前作を撮っているときから、これは、僕にとって撮らねばならないもう一本の映画だったんです」
■それぞれの闘争

「当時、運動に参加した“支援”と呼ばれる女子学生の中で、農家の嫁になった人が二〇数名います。そんなに多くの人が、なぜ農家に嫁ぎ、長い間家族とともに反対運動を続けたのか。家の方針として移転が決まり闘争から離れるとき、どんな思いを抱えていたのか。実は、辺田部落の農家へ嫁いだ元支援の女性が、二〇一三年に自殺しています。辺田部落で最後の二軒になるまで、運動を続けてきた家でした。きっと彼女は、そうすることでしか自分の闘争に終止符を打つことができなかった。 

管制塔占拠事件のアタッカーたちは、三里塚闘争の中で一矢を報いたヒーローです。がその内の一人は、拘禁ノイローゼで、刑務所から出た後自殺しています。彼らが短くない刑期を終えて出所したときには、反対運動は変質してしまっていた。革共同中核派が介入したことで、三里塚は思想運動の道具にされ、反対同盟は分裂し、内ゲバ的に闘争が激化していく。自分たちの描いていた、大きな権力との闘い、国をよくするための純粋な闘争は失われ、闘争の大義が散るのです。

闘争を維持し継続するために、反対同盟を攻撃することも辞さなかった、中核派のリーダーが岸宏一さん。二十五年間、三里塚現地責任者を務めた後、著書に「三里塚は新左翼が農民を利用した闘争だった」と書く。そのあやまちの念を、他人事でなく話してもらいたかった。

反対運動を継続したい中核派にとって、最も許せない存在だったのは、空港公団職員で、用地買収を担当した前田伸夫さん。前田さんは会社員として、誠実に仕事をしていただけですが、日常茶飯の嫌がらせから始まり、自宅を爆破されるような危険な目にもあっている。空港建設の立役者の、抱えた思いはいかなるものなのか。

カメラの前では話せないという人もたくさんいました。今も闘争の記憶を抱えて生きている人々がいる、ということです」 
■絶望からの浮力

「加瀬勉さんは、三里塚で反対運動が起こったときから、今までずっと闘争に関わっている農民運動家です。それも当事者ではなく、隣町の多古町から支援で入っている。加瀬さんは反対同盟の農民たちとのつなぎ役として、新左翼の若者たちにも絶大な信頼を得ていました。

八〇歳を過ぎる加瀬さんは、今回登場する方々の中で、最年長者です。戦前は軍国少年で、敗戦後に国が変わってから共産主義に目覚め、三里塚闘争で運動にのめり込み、定職につかず、結婚もせず、国家権力と闘い続けた。僕は加瀬さんを通じて、昭和を生きた一人の男の生き様を描きたかった。

元中核派の加藤秀子さんは、反対派農家を運動に繋ぎ止める役割で天神峰にきて、農家の嫁となりました。周囲からは、中核派が送りこんだ嫁、と見られていた。嫁いで十数年後、家は移転を決めます。そのとき秀子さんは家族を選ぶのです。移転の決断のあと、全国から、中核派などの党派の人々が押しかけ、吐かれた脅しや暴言は、今でも耳にこびりついて離れないといいます。苦しかったでしょう。 でも今、秀子さんは自分の生き方を肯定している。三里塚に来て初めて農業に触れた秀子さんの、畑仕事をするその背中には、力強さがありました」
■三里塚は敗北の記憶なのか

「農民を助けて闘った“あの時代”の若者たちは負けたのだろうか。そもそもこれは勝ち負けなんだろうか。そんな問いが、僕の中にありました。

自分の志や夢を実現できた人は、この映画に誰一人出てきません。最近『人生フルーツ』という映画があったでしょう。ある人が言いました。彼らはフルーツじゃない人生を送った人たちだと。でも、自分で選んで突き進んだ道だから、僕は、私はこう生きた、という自負がそれぞれにある。

戦後は、前の時代を否定することで未来を開いていった時代だった。「否定」に次の時代を生む力があった。でもある時期から、学生運動も三里塚闘争も、否定だけが吹き溜まっていくようになる。

比べて現在は、肯定の時代だと思います。肯定が燻って停滞を生んでいる。特に若い人にこの映画を観て感じてほしいのは、上手くいくことばかりではないけれど、社会に対しても、周囲の人に対しても、臆病にならず自分の考えを語ったり、権威に阿らず自分の生き方を選び取っていってほしい、ということ。 

映画に登場する人たちは、清々しい、いい顔をしています。思い描いていた夢や志や思想に裏切られ、沈み込んだ時期があった。でも、そこからもう一度歩き出した。深く深く沈んだ後に、水面に向って再び浮上していく、その推進力を見せてくれています。自分の人生を生き切った、というのかな。その姿は僕らに力をくれます。

ギリシャ神話のイカロスは、海に叩きつけられて死んでしまう。でもこの映画では、翼はもがれるけれど、そこからまた歩きはじめる。翼が生えたこと自体、幻想だったのかもしれない。ある意味では、時代に翼が生えていたんです」 
■僕にとっての三里塚

「僕は一九五八年生れで、小・中学生の頃が、学生運動の最も華やかなときでした。既成の社会のルールや大人たちの物言いに疑問を持つことがあって、全共闘に憧れてね。フォークギターを買って、プロテストソングめいたものを作ったりしていました(笑)。僕は全共闘少年だったんです。でも、連合赤軍事件や内ゲバが起きて、何かおかしい、と気持ちが離れていきます。大学の頃には、ずっと憧れていた全共闘世代に裏切られたような気持ちになっていた。その経験が“あの時代”に拘る理由です。なぜ僕は軍国少年ならぬ全共闘少年になってしまったんだろう、と。感受性豊かな時期にどういう時代にぶち当たるかで、人生は変わります。三里塚と関わった若者たちも、否応なく“あの時代”に巻き込まれていったのだと思います。

もう一つ、実は僕の実家は農家なんです。父は会社員で、おじいちゃん、おばあちゃん、おかあちゃんがやる「三ちゃん農家」でした。でも学校で自宅の職業調査があると、僕は会社員の方に手を上げるんですよ。農業を否定的に見ていましたね。高度経済成長の洗脳も受けているんです。 これまで農業を振り向かず、故郷を振り向かず生きて来ましたが、三里塚に通い農民とつき合うことで、農業の面白さを教わった。それで今、老親と一緒に農業を始めています。二本の映画をつくることで、僕の中にも変化がありました」 
■なぜ今、三里塚なのか

「これほどの情報化社会なのに、言い伝えていくべき大切なことが、すっぽり抜け落ちてしまっている。たった五〇年前の記憶が忘れられていくということが悲しかったですね。

この二本の映画は、小川プロの「三里塚シリーズ」があったからこそ、作ることができました。闘争当時の映像は迫力があり、残されるべきものだと思います。でも闘争が半世紀も続き、それだけではなくて、簡単に語ることができない、心の奥底に深く記憶されていること、今では深い闇に包まれて見えなくなっているもの、そうした普段表に出てこないものを掬いとれるなら、と。

管制塔アタッカーだった中川憲一さんは、闘争を青春時代の自慢話のように誇らしげに語るのです――「健さんが好きだったから、網走刑務所を希望した」とかね(笑)。でもその心の奥に、妻に対する悔恨の思いを、ずっと抱えて生きている。

平田誠剛さんは、今でも夢を見ると。夢の中では管制塔占拠が成功し捕まらないで帰ってきている、と笑って話す。でも刑務所にいた間に中核派がしたことに対する怒りを、未だに抱えています。

岸宏一さんは最後に「三里塚は自分の失敗だった」と。やっと自分の過ちを認めた。でもその言葉もたぶん、岸さんを組織の呪縛から解放することはなかったでしょう――岸さんは、今春雪山で遭難し、還らぬ人となりました。

個人個人の澱のように溜まった思い、言葉になったものも、ならなかったものも、映像として繋ぐことで、“あの時代”の一つのパンセとして昇華できれば。そう願っています」(おわり)

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2017年9月8日 新聞掲載(第3206号)
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