タナトスにとりつかれた崇高の映画 北野武「アウトレイジ 最終章」|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
読書人よ、集まれ!

トップページ

特集

書評

連載

コラム

ニュース

読書人とは

  1. 読書人トップ
  2. コラム
  3. 映画時評
  4. タナトスにとりつかれた崇高の映画 北野武「アウトレイジ 最終章」・・・
映画時評
2017年9月12日

タナトスにとりつかれた崇高の映画 北野武「アウトレイジ 最終章」

このエントリーをはてなブックマークに追加
北野武の映画はいつも死の匂いに満ちている。しかも第一作『その男、凶暴につき』以来、彼はビートたけしとして、最後に死に至る男を自分の作品でしばしば演じてきた。そして、新作『アウトレイジ 最終章』によって、『アウトレイジ』三部作もまさに典型的な北野武の映画として締め括られることになった。趣こそ少し変わったとはいえ、この三部作は『ソナチネ』の壮大な変奏だと言える。

北野武の映画を観て、死の欲動というフロイトの概念を思い浮かべることは易しい。フロイトは生の欲動と死の欲動の二元論に拘った。だが、彼が「快感原則の彼岸」において、「以前の状態を回復すること」が「欲動の一般的な性格」ではないかと考え、「快感原則は実際には、死の欲動に奉仕する」と述べる時、欲動一元論への扉はすでに開かれていたのだ。つまり、長期的に見れば、有機体が無機物に帰ろうとする死の欲動が表れ、短期的に見れば、生命を維持しようとする生の欲動が表れる。前者は主体を超越した地平に、後者は主体の経験の地平に関わる。だが結局は、安定を目指す同じ一つの欲動が示す二面性である。

『アウトレイジ 最終章』が語るのは、やくざの組同士のいざこざにみせかけた個人対個人の激しい権力闘争だ。そこでは誰もがなりふり構わず自分の権力と利益を追い求めつつ、まさにそのことにより死に向かっていく。ここに二面性が表れている。襲撃を受け死の恐怖に怯える男がいれば、襲撃にまるで動じない男もいる。そんななかに、自己の利益の追求とは異なる原理で動き、「古臭い極道」と称される男がいる。主体の経験を超える死の宿命を悟ったように、彼は死への直進を加速させていく。人生とは死の前の寄り道なのか。

北野武の突出した才能は動と静への鋭い感性にある。これほど動かない暴力映画が他にあるだろうか。花菱会若頭の西野を演じた西田敏行のまるで動かない演技も素晴らしい。定例会での会長との会話や、直参幹部が起こした問題を話し合う時の若頭補佐とのやり取り。座ったままの西野の表情と視線が強烈だ。

北野武の映画はどれも動かない映画である。『アウトレイジ 最終章』が座る映画であるように、『HANA―BI』もまた、堀部の車椅子が示すように、全篇で座る姿勢を繰り返す映画だった。『3―4x10月』には静止したような人物のショットが非常に多く、それらが音楽に一切頼らずに編集で繋げられていた。

こうした静の表現があるからこそ、切り詰められた動の表現が最大限の効果を生んでいる。監督自身が演じる大友が初めて拳銃で人を殺す場面での、店のソファー上の標的に向かって進む彼の歩み。自動車に乗った花菱会会長の野村をバイクの男が襲う時の、自動車とバイクの走行。こうした何気ない動きに緊張感を与え映画的なアクションに仕立て上げる北野武の演出力には感服するしかない。

静と鋭く対立する動や、静のなかにも必ず息づく動に、映画ならではの生命感の表出を見ることができる。しかし静の死への傾斜と同様、こうした生命感も全て驚くほど真っ直ぐに死へ向かって進んでいる。映画はエロス(生の欲動)だと多くの人が言う。だが見方を変えれば、映画はタナトス(死の欲動)である。『アウトレイジ 最終章』ほど、タナトスにとりつかれた崇高の映画は滅多にない。

今月は他に、『トランスフォーマー/最後の騎士王』『ザ・ウォール』『海底47m』などが面白かった。また未公開だが、ジョニー・トーの『単身男女2』も良かった。

2017年9月8日 新聞掲載(第3206号)
このエントリーをはてなブックマークに追加
伊藤 洋司 氏の関連記事
映画時評のその他の記事
映画時評をもっと見る >
芸術・娯楽 > 映画関連記事
映画の関連記事をもっと見る >