対談=赤坂憲雄×相馬千秋 人間と世界の秘密に触れる方法 『性食考』(岩波書店)刊行を機に|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 特集
2017年9月14日

対談=赤坂憲雄×相馬千秋
人間と世界の秘密に触れる方法
『性食考』(岩波書店)刊行を機に

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性食考(赤坂 憲雄)岩波書店
性食考
赤坂 憲雄
岩波書店
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民俗学者で学習院大学教授の赤坂憲雄氏が『性食考』(岩波書店)を上梓した。

食べる/交わる/殺す、をテーマに、神話、絵本、文学作品、九相図、生物学、民俗学、生命誌、哲学思想書……とさまざまに逍遥し、縫いぐるみから異類婚姻譚、肛門起源、タブー、摂食障害、カニバリズム、生け贄……へと伸縮自在に、文献とフィールドワークを織り合わせて記した、世界の根源を説き明かそうとする新鮮な書である。

刊行を機に、アートプロデューサーで立教大学特任准教授の相馬千秋氏と対談をお願いした。本書について、また東北や文学、芸術についてなど、幅広く語っていただいた。   
(編集部)

内なる野生と出会う時

赤坂 憲雄氏
赤坂
 僕の記憶の中の相馬さんは、大きいおなかをしているんです。
相馬
 二〇一二年から文化審議会でご一緒するようになり、二〇一三年には妊娠していましたからね。
赤坂
 『性食考』について、相馬さんがツイッターで「子育て世代の女性たちにこそ読んでほしい」とつぶやいてくれたでしょう。僕にとって大切なメッセージになりました。

娘も相馬さんとほとんど同時期に、妊娠、出産、子育てをしていました。それを身近で見ていたことが、この本を書く背景として大きかったんです。
相馬
 この本を読みながら、赤坂さんが何十年振りかで赤ちゃんを抱っこしたり、読み聞かせなさったりしていることを感じていました。そのリアリティから紡がれている文章なのだろうと。
赤坂
 生まれて一週間ぐらいの赤ちゃんって、ふわ~っと肌が透明で、中身が透けて見えるような、まだこの世のものではないような、そういう時間があるでしょう。それを眺めているのが楽しかったですね。
相馬
 私は妊娠から出産までの経験で、抽象化できず他者に伝えられていない感覚を、この本に刺激されました。赤坂さんの言葉を借りればそれは、自分の中の「野生」と、初めて向き合った経験だったのだと思います。

近代的な教育を受け、近代的な価値観で育ち、女性でも、大学も仕事も配偶者も、自分で選ぶことができる、そういう生き方ができる日本社会に私は生きています。でも、こと妊娠・出産となると、自分が操作できる範疇を超えてしまうんです。一番驚いたのは、子どもを産んだほんの数時間後に母乳が出たこと!
赤坂
 そうか、お母さんの体は、赤ちゃんにすぐに飲ませようとするんだね。いろいろな栄養が入ったものを。
相馬
 産んだ瞬間、産む前とは違う体になって、おっぱいが出て……こんなことがあるのか、と。自分は自分をプログラムしていると思い込んでいたけれど、そうではなかった。それは感動的な経験でしたね。

そして人間というものが、自分の意識できる範囲を超えてこの世にあることを、言葉にし、受け入れる、そのために、神話やお伽噺があるということ。それが『性食考』にはたくさんの文献の引用とともに、わかりやすい言葉で思考されていました。私が体験してきた全てがここに書かれているような気がしたのです。
赤坂
 男の体には、妊娠・出産がないわけです、とりあえずは。そうすると、今言われた「劇的に内なる野生と出会う」、そういう瞬間がないんです。つまり男は、自分をコントロールできる範囲でしか命を活用できていないのではないか。

この本は、食べる/交わる/殺すということを巡って、思索を巡らしたものですが、僕が東日本大震災以前に関心を持っていた、カニバリズムや「食」について考えていたことは、見当違いなものだったと感じています。食べる/食べられるという関係は、こんなにも身近に、リアルに存在している、と気づいたんです。

母乳を上げている時期、すごく食べるでしょう。普段はおかわりなんてしない娘が、何杯も食べている姿を見て、女性は自分の体を子どもに食べさせているのではないかって。お乳しか受け取れない赤ちゃんに、おっぱいおっぱいとせがまれて、母親は自分がたくさん食べて、母乳に変えて、赤ちゃんに食べさせている、と。

男の体は食べられるというかたちで子どもと向き合うことはないですよね。娘の出産と子育てを側で見ていなければ、この本は書けなかった。振り返ってみると、家庭内でフィールドワークをしていたような気分です(笑)。
相馬
 今でこそ粉ミルクもありますが、根源的には母親が自分の体を尽して、赤ん坊の生命を成り立たせてきた。食べる/食べられるの関係に、生かす、殺すが密接ですよね。

そして「食べちゃいたいほど、可愛い」が今作のキーワードですが、不謹慎な話、赤ちゃんは、ものすごくおいしそうですよね(笑)。むちむちつやつやした、新しい細胞のかたまり。
赤坂
 不謹慎だけど、おいしそうです(笑)。可愛くて、ぺろぺろ舐めたり、甘噛みしたくなりますね。
相馬
 子どもには「食べられる」ことが潜在的な恐怖としてあるようです。悪いことをしたら「おばけがくるよ」などと言うことがありますが、「嫌だ~食べられる~」とか、本気で言うんです。実際に子どもが食べられる状況など今の日本にはないし、そういう何かを見せたことがあるわけでもないのに。
赤坂
 あると思いますね。命が生まれ育っていくほんの五~六年の時間は、神話的な時間だと感じます。
子どもと神話的時間

相馬 千秋氏
相馬
 子どもは人間の原初の姿というか、むき出しの本能そのものというか……。日々、神話的時間を生きている息子から、「かたつむりさん葉っぱ食べたよ」とか「カブトムシさんうんちした」という言葉を聞いています。私は「かたつむりに口なんてあるんだ」と驚いたりするのですが(笑)。息子には自分と動物の区別はないですね。
赤坂
 食べる/食べられる、それから口と肛門のテーマに、子どもは自然に惹きつけられるんですね。

レヴィ=ストロースは「消化の起源」の中で、肛門がないとはどういう状態なのか、という思考実験を行います。普段、僕らは肛門とは何かなんて、問いそのものを立てませんよね。その想像力、思考力には驚かされます。一方、レヴィ=ストロースが紹介しているのですが、知識として消化の起源を知らなかっただろうギアナのタウリパン族に、肛門の起源神話があることの不思議にも打たれます。そしてもっと身近に子どもは、自分の体からうんちが出てくるのを不思議だな、変った匂いがするな、と触って遊ぶでしょう。極めて神話的に世界と五感で触れ合って、大事なことを確認している。人間の内に潜在するもののすごさを、子どもを見ていて感じるんです。

それにしても、どうして僕たちは、子どもに動物の縫いぐるみを与えたり、怪獣と人間が対話するような絵本を読みきかせるのでしょうね。
相馬
 確かに不思議ですよね。子どもにとっては、植物も含めた生物全てが対話の相手であり、同じ目線でやりとりできる存在です。私たちはそんな時代があったことを忘れているけれど、子どもの姿を見て、自分の子供時代を生き直す、そういうことがあるのではないかと最近思うんです。子育てをしながら、子どもの中に人間の原初の姿を見て驚く。一方で自分の子供時代を再演する。人生が一回きりだというテーゼが、少し揺らぐんです。
赤坂
 それは孫を見る僕も一緒です。僕は自分の子どもが生まれたときに、全く何もわかっていなかった。男である自分の、その後ろ姿を見ている気がします。学びの時間でしたね。

動物の縫いぐるみに囲まれ、人間以外のものと会話している、幼い時期の記憶は残らないでしょう。民俗学では「七歳までは神のうち」と言いますが、まだ人間でない時期に感じていたことは、大人になった我々からはすっぽり抜け落ちている。だからこそ、生まれてきた子どもを仲立ちにして、失われた時代の感受性をもう一度体験する、そういうことがあるのかもしれません。
相馬
 その時期に、絵本や昔話を通じて、子どもに世界を伝えますよね。以前はそれを、教育的な配慮なのかと思っていたんです。たくさん言葉を覚えてほしいとか、こういう世界観を知ってほしいとか、文化的な感受性を養ってほしいとか、そう思って読みきかせをするものかと。ところが違いました。子どもから毎晩、読んでくれとせがまれるんです。物語をこれほど切実に必要としている人がいる、ことが衝撃でした。大人にとっても物語は必要なものですが、読まなければ眠れない、ということはないですよね。うちの子が特にそうなのかもしれないけれど、切実に、ある種儀式のように、物語られることを必要としています。
赤坂
 へぇ……物語を食べているのかな。
相馬
 そうかもしれません。神話的世界を生きている子どもが、世界の構築のために物語を体に入れていく感じ。

人間と動物の区別がなく、語らったり遊んだりする中に、ふいに食べる/食べられるの関係性が浮かびあがってくるような絵本。赤坂さんが引用されていた『おなかのすくさんぽ』では、くまが「なんだか きみは おいしそうだねえ」「ちょっとだけ かんで いーい?」という。絵本だからと油断していると、ドキドキしますね。こういう絵本が子どもは大好きです。人間が食べられる側だった原初の記憶が盛り込まれている絵本。そういうものにこそ子どもは惹かれる。社会的な正しい童話には興味がない。

好きなのは動物が出てくるもの。あとは、食べるシーンと、うんち、おしっこ、おちんちん(笑)。
赤坂
 大人の世界では特に、食べる/排泄する/交わるに関する、むきだしな動物性はタブーとして忌避されますが、逆に言うとそれが、根源的なテーマだということですよね。

食べる/食べられるが 反転し融合する世界

相馬
 「アンパンマン」はほとんどの子どもが大好きですが、一説にはおっぱいの代わりではないかと。まるくて、肌色で、赤いポチがついていて(笑)。 
赤坂
 「アンパンマン」は子どもに絶大な人気ですね。でも作者のやなせたかしさん自身、どうしてうけているのかわからない、と。大人からしたら、結構グロテスクですからね。ヒーローの顔が食べられてしまうんだもの。でもつい先日も、一歳半の孫娘が「あんぱんまんいい、あんぱんまんいい(アンパンマンが見たい)」と、新幹線の中で叫び続けたんです(笑)。言葉を獲得していくと、そのときの感性は失われてしまうから、どういう気持ちだったかは聞けないだろうけれど。神話的な真実がごろっとある気がします。
相馬
 とんでもない世界観ですよね。キリスト教世界では受け入れられないのではないかな。ヒーローの顔を食べるなんて、カニバリズムと見なされて。
赤坂
 そうかもしれない。でも世界を救うとか、他者を救うという根底にはきっと、自分の体をちぎって食べさせる、というようなところがあるのではないかな。やなせさんも「アンパンマン」の造形の根底には、「傷つくことなしに正義は行なえない」という思想があったと言っています。
相馬
 宮沢賢治も、そういう考え方を持った人だったのでしょうか。自己犠牲というのか。
赤坂
 そうね、自己犠牲という言葉は危ういけれど、あると思います。僕はこの本を書きながら、賢治の作品をずっと読み返していて、この人は何者なのだろう、と思っていたんです。彼は菜食主義者なのですが、例えば人と食事をしていて、向かいの人が箸で魚をほぐしているとき、自分が魚だったら、と魚の身になって、食べられる自分を感じている。賢治は、そういう極まった感受力を持つ人です。

『注文の多い料理店』では、山猫に食べられそうになった紳士たちが、くしゃくしゃの紙屑みたいな顔になって、もとに戻らなかった、と書くのです。
相馬
 不思議ですよね。
赤坂
 食べられる恐怖をリアルに突きつけられたらきっと、くしゃくしゃになっちゃうんだね。

絵本の中で、例えばモーリス・センダックの『かいじゅうたちのいるところ』では、かいじゅうが「たべちゃいたいほど おまえが すきなんだ」、ウォーと叫ぶでしょう。その場面で子どもがどう感じているのか、僕は読みきかせのときに、顔を盗み見たりするんですけれどね(笑)。人間はかつては動物たちに狩られ、食べられていたでしょう。やはりその恐怖を知っていますね、子どもは。そして賢治も、食べられることのリアリティを、切実に知っていたと思います。

東北は自然が人の近くにあって、鳥獣虫魚を獲って食べる、食べるために殺す、ということが残っている世界です。マタギは熊を狩って、その毛皮と熊の胆を売ります。売り物にならない肉も全て食べるし、血は弁当箱の残ったご飯にひたして持って帰り、病人に食べさせます。熊という野性の獣の体を、余すところなく利用し尽くすんです。
相馬
 でも賢治は「なめとこ山の熊」の中で、肉を食べることに触れないんですね。
赤坂
 東北の「“殺す”ことと“殺される”こと、“食べる”ことと“食べられる”こととが互いに入りまじり、反転し融合する世界」を寸止めして、殺す/食べるを切断し、隠蔽するんですよね。そして「よだかの星」では、食べることが殺すことであるという痛切な自覚がありながら、喰われる自分に対する我執が自覚されている。
相馬
 「蜘蛛となめくぢと狸」では、傷を舐め、癒して、殺す=食べる、そのプロセスの内に、暴力と性的エクスタシーが沈められてあると。
赤坂
 あなどれないですよね。一見ほのぼのした生き物たちの戯れの奥に、食べる/殺す/交わるが、時に隠蔽され、哄笑に包まれながら、グロテスクに横たわっている。菜食主義者で童貞で兵役義務を負わない賢治、だからこそなのか。そこはわからないけれど。
相馬
 「赤ずきん」や「蛙の王さま」といった子ども向けの童話にも、実は、性と暴力のテーマが沈められているんですよね。
赤坂
 一皮むけば食べる/殺す/交わるが露わになるのは、自然と密接に生きる人々の、喰うか喰われるか、弱肉強食や飢餓との切実な闘いの爪痕でもあるんでしょうね。いつしか人間は食べられる側に回ることを忘却してしまったけれど、震災後の東北の海には、それが残酷なまでに転がっていました。

マタギたちは、「最後は俺の方が喰われるんだ」と当たり前のように口にします。それも一人や二人ではありません。その言葉を、どこまでリアルに感じているのかはわからないけれど。生き物のいのちを奪って生きている自分は、最後はその肉や血を動物たちに贈与する、どこかでそうしたモラルを持ち続けているのではないか。
相馬
 それが生態系というものであるし、本来人間も自然の一部だということですよね。そして、赤坂さんの説だと、これから野性は里へどんどん下りてきて……。
赤坂
 ツキノワグマは喰い始めているよ。我々は獲物なんです。原発周辺では、食べられず、狩られることのない野性動物の王国が広がっていますし、他所でも猪や鹿などの獣害が社会問題になっている。
生きとし生けるものすべての命のために

赤坂 憲雄氏
相馬
 そのように生態系の転換が起こる中で、私は子どもを産んだことが影響しているのか、「死」というものを、今までと違った感覚で捉えるようになりました。もちろん死にたいわけではありませんが、一方では、生物として役割を果たした、という感覚もあるんです。

『生命誌とは何か』から、「性と死は同時に登場した」というテーゼが引かれていましたね。無性生殖を続けていた一倍体細胞に死はなかった。二倍体細胞として有性生殖により、唯一無二の個体を生み出すことを選んだ。そこから個体の死が生まれたと。それを読んで、私の中の死の感覚の変化は、「再生産した」という生物の実感からくるものなのかもしれないと思いました。
赤坂
 それは男にはない感覚なんだよね。子守唄協会の西舘好子さんに「女は三代にわたって生きる、でも男は一代限りなのよ」と、哀れむように言われたことがあります(笑)。そうだよね。動物の時代から、雄はさまざまな雌を渡り歩いて、種をまいてきたわけだから。
相馬
 一方で、先日、友人が突然亡くなって……遺体を見たとき、金槌で打たれるような衝撃を受けました。死はかつてはいくらでも転がっていたし、今も本当はすぐ隣にある現実だったと。クリーンになった都市空間では死が遠ざけられていて、私たちはほとんど触れることがなく生活していますよね。葬儀は葬儀場でするし、ビル型の納骨堂で、ボタン一つで位牌を呼び出す、それが当たり前になりつつあります。現代は、死者を慰霊したり、死と向き合うことが、難しい時代になっているのではないかと。
赤坂
 生きるとは、避けがたく死者を送ることの積み重ねですよね。

東日本大震災で深刻なテーマだったのが、遺体が上がらない二五〇〇人を超える行方不明者たちを、どう慰霊鎮魂できるのか、ということでした。

震災のあと、三陸の辺りでは、魚や蛸を食べたくないという人たちがいました。震災後の海では、魚の腹を割くと人の爪や歯がみつかり、蛸の頭の中には髪の毛がからまっていると。でもある漁師が、「だから、俺は喰うんだよ」と言ったそうです。それを聞いて僕も殴られたような気がしましたね。ある種の世界観、死生観のようなものとして、人間も大きな命の循環の中に巻き込まれていることを知っている、受け入れている。その上で漁師の仕事をしている。マタギもそうだと思います。そういう人たちの言葉があり、思想や哲学があるのだと。東日本大震災のあとに、東北の人々が向かい合っていたのは、きっとそういうテーマだったんです。

南三陸町の水戸部みとべという場所にある鹿踊ししおどりの供養塔には「生きとし生けるものすべての命のために、この踊りを奉納する」という言葉が刻まれています。人間も命の大きな循環の中で生かされていること、人間の命だけを尊び鎮魂するのではなく、獣も鳥も魚も虫も植物も、生きとし生けるものすべての命のためにと。

そういう感覚をどこかで持っていなかったら、耐えられるのだろうか、心は荒廃してしまうのではないだろうか。死者の記憶を大事にする文化が確実に東北にはあって、そのことはある意味では救いになりうるのではないか。そういうことを感じたんです。
相馬
 二〇一五年から赤坂さんと始めた「みちのくアート巡礼キャンプ」のプログラムの中で、先日遠野を案内していただきましたが、五百羅漢、素晴しかった!
赤坂
 よかったでしょう。
相馬
 参加者はアーティストの卵たちですが、ああいうものを見ることが、どれだけ表現者にとってインスパイアリングか。誰が発注したわけでもなく、江戸時代に飢饉で何万人という人が亡くなったときに、ある僧侶が一人の生き残りとして、霊を鎮魂するために、天然石に五百体の顔かたちを刻んだという。それがたとえ、半ば苔に覆われて見えなくなってしまっていても、人が表現するということの根源が、そこにあると感じました。

あるいは西馬音内にしもないの盆踊りでは、黒い面をつけ死者に扮して踊りますが、いわゆる宗教ではない、原初の宗教的な世界観に支えられつつ死者と向き合う行為が、何百年と継続されているわけですよね。こうしたものの中に、これからのアートのヒントがあるのではないかと。
赤坂
 百年ぐらい前に、モラエスというポルトガル人の作家が「徳島の盆踊り」という、とてもいい本を書いています。彼は神戸の芸者さんと一緒になり、その妻が亡くなったあと、妻の故郷・徳島に一人で渡って、その後の人生を、愛する女性の鎮魂のために生きるんですよ。モラエスは、お盆になるとご先祖様が帰ってくる、という日本の風習を羨ましがるんだよね。この人たちは、死んでも死んでいない。死んでも一年に一度は懐かしく迎えて貰え、交流をして帰っていくのだと。お盆には、位牌や写真を並べて「この人は十七歳のときに亡くなった、おじいちゃんの妹なんだよ」というような、年長者から語られる家族の物語がありますよね。魂の実在論というようなことではなく、物語ることで、遠い死者の記憶が語り継がれていく。それがモラエスの目には、生者と死者が共生している姿に見えて、キリスト教的な生命観や霊魂観は、自分を救ってくれないと思ったのです。
世界は見えないものばかり、芸術の可能性

相馬 千秋氏
赤坂
 こういう話は、モノが全てだと思う人は笑うと思いますが、僕は震災以後、世界は見えないものばかりだ。見えているものなんて些細な部分で、こんなにも見えないものが、世界には満ちているんだ、と感じていました。だからとりわけ震災のあとで、アートや文学の可能性を信じてみたいと思いました。見えないものを語れるのが文学であり、それをありありと見せるのがアートだと思う。

今回『性食考』という本を書きましたが、こういうテーマについて、学術的に解明した本は、僕の知る限りないんです。アートや文学は世の中の役に立たない、と邪険にされるような時代だけど、僕が今、昔話や神話、文学作品を素材にして語ったことにはきっと必然があって、そこにしか人間や世界の秘密に触れる方法はなかったのです。
相馬
 私も誤解を恐れずに言えば、宗教が担ってきた役割を今、芸術が担いうると。異なる者同士を媒介することが、今ほど必要なときはない。動物と人間、あるいはこの世とあの世。宗教や神話を、アートの想像力は、よりメタ的な視点でダイナミックに飛び越えていけると思うんです。飛び越えて、もう一度語り直し、つなぎ直すことができると思っています。
赤坂
 アートや文学にしかできない仕事が、むしろくっきり見えてきたかもしれないですね。
苦海浄土(石牟礼 道子)講談社文庫
苦海浄土
石牟礼 道子
講談社文庫
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石牟礼道子さんは『苦海浄土』の中で、胎児性水俣病患者の、生涯一度も言葉を発したことのない女性の言葉が聴こえるといって、彼女の語りを書く。そういうものなのかもしれない。そういうことができる文学や芸術は、これから本当の意味で、我々が必要とするものになりうるかもしれない。そういうことを一つ一つ掘り起こして、表現のステージに載せていくことに、これまでの文学や芸術は、たぶん力を入れてこなかった。これまでは現実を活写するとか、リアリズムの細部を描くとか、そちらに力が込められていたと思うんです。でもこれからは、宗教が担っていた役割を芸術が引き受けざるを得ないのではないか。そう感じる瞬間がたくさんありました。
相馬
 震災から半年ぐらい経った時、赤坂さんが「みちのく」「アート」「巡礼」ということをキーワードに話されました。東北を再生の場にするために、芸術が必要だと。芸術に、巡礼という宗教的な身振りを合わせて、東北の町や村や海岸や山や色々な場所に、アートを媒介にして、死者や未来と向き合うような場を作ったらどうかと。その話に共鳴して、一緒に立ち上げたのが「みちのくアート巡礼キャンプ」です。

宗教というと、儀式的なものとして、ある種の価値体系の現われを求められますが、今必要なのは、人間が通常の生活や言語では媒介できないものを、いかに伝えるかということですよね。

先日、古川日出男さんが「アートは事実を描くのではなく、真実を翻訳するものだ」と言った言葉に、勇気をもらいました。広い意味で絵本も芸術たりえるし、盆踊りも三~四百年続いてきたコミュニティアートですよね。人間がこれまで培ってきたさまざまな表現の形態を学び直しながら、特権的なものとしてでなく、むしろ個人に寄り添って、誰もが活用できるように、アートを方向付けることができればと思います。
赤坂
 僕は、世界を「グラデーション」として見ることが、決定的に重要だと感じています。例えば男と女、人間と動物、野性と文化……それらは両極として分化しているのではなく、一人の僕の中に女性がいたり、動物がいたり、野性的なものが蠢いていたり、そういうグラデーションの世界の中で、生かされているのだということです。

西洋的な考え方では、「男」と「女」という全く違う性があり、それが接近、遭遇して、誤って重なった部分がホモセクシュアルや性的逸脱性である、と考えます。でも本当にそうなのかな。詳しくはわからないけれど、遺伝子レベルでは、男と女の違いなど、些細な条件なのではないか。

人間と動物の境界も、現代人はくっきり区別しているけれど、かつては人間と動物は入れ替え可能だと考えられていた。動物は人間になれるし、人間は動物になれると。そして重なった部分から、例えば異類婚姻譚が世界各地で語り継がれている。

エドマンド・リーチという人のとても有力なタブー理論があります。二元論的に世界を分けて考えたとき、重なった部分が、両義的で例外的なカテゴリーとして発生する。つまり重なったところが、タブーあるいは聖性とみなされる。タブーと聖性をいかに教育し、自覚させるかによって、社会や集団を支える世界観が織りなされる。そうした二元論的な観点で、重なり合うところにタブーを求める思考から、抜けだすべきときではないか、と思います。

僕は全くマッチョじゃないでしょう(笑)。人に命令するとか、権威的に何かを方向付けるということが極端に苦手なのですが、マッチョじゃないということは、男社会の中では指弾されることになるんですよ。
相馬
 日本社会はホモソーシャルなコミュニティだということが、一つの現実としてありますよね。ホモソーシャルな価値観の中では、命令しないことが、家父長的な責任を回避した異端の象徴、という扱いになる。家父長的に共同体のルールや在り方、アウトプットのかたちが決められてしまっていることも多いです。でも今のお話のように、本当は、一人の人間の中にグラデーションがあって、複数のアイデンティティが同時に存在している。とすれば、人間はグラデーションで成り立っているという視点から、共同体やプラットフォームの在り方を再設計することが今、必要になっているのでしょうね。
赤坂
 そう思います。
相馬
 アートプロジェクトも、これまでは極めてマッチョなキュレイターやプロデューサーが、ビジョンを打ち立てて、そのビジョンにあったものを、万国博覧会的に他所から召喚する。そういうスタイルが、二〇世紀的アート普及の定番モデルでした。でも二十一世紀には、もっと違った新しいことを考えたい。そのとき鍵になるのは、個々人の中にあるグラデーションに寄り添うことや、一個に集約しないプラットフォームの在り方だと思います。
“食べちゃいたいほど可愛い” 食べる/交わるの接点で

赤坂
 そもそもアートは、権威的なものと対峙し、それを壊そうとする衝動から発するものだったと思いますが、現実にはアートの現場自体が権威主義的に組織されていることが多いですよね。

話が飛びますが、僕は今日本文学科の中で、日本文化論を教えるというマージナルな立場にいます。今年「仮面ライダー」や「墓場の鬼太郎」、「千と千尋の神隠し」など、いろいろな作品が卒論のテーマとして出てきました。僕は、そのテーマで、その生徒が卒論を成立させられるかは考えるけれど、弾圧はしない。最終的に何をアウトプットするのかは、本人が決めるべきものだと思っていて、学生たちが僕の見えていない場所に出て行ったときは、すごく楽しいんです。

この本を書くきっかけの一つも、ある女子学生が、絵本の中の食べる場面、あるいは排泄する場面をテーマに、卒論を書いたことでした。講義の中で「わたし、うんち大好きなんです!」と叫んで、教室中爆笑でしたが(笑)、そういう学生のテーマの選び方や転がし方に、つき合っているのが好きなんですよね。
相馬
 アカデミックな教育に、カノンのもとで生徒に学を伝授するというモデルがあるとしたら、赤坂さんの在り方は、その対極かもしれませんね。

先日、ある人に「“みちのくアート巡礼”は、中世ヨーロッパから始まった大学の起源に近いのではないか」と言われました。ユニバーシティの起源は、印刷術がない時代に、先生と生徒が共同生活をしながら学んだことにあるのだと。先生と生徒の立場は固定せず、教える側と教えられる側は、時に応じて替わるのだそうです。確かに、「アート巡礼」の形態に近いですよね。そのコメントを受けて、テンポラリーな学び合う共同体として、このプロジェクトを深めていくことができるのではないか、と気づいたんです。
赤坂
 ますます育つだろうなぁ。

この本を振り返ってみると、日常生活の中をフィールドワークしてきたという感覚があるんですよ。本のいたるところに、たくさんの女性たちと交した言葉の欠片が散りばめられています。不思議なぐらいに男たちとの会話はないですね。冒頭に芥川龍之介の手紙を引いているのですが、それを教えてくれたのも女子学生です。彼女に「好きな人に“食べちゃいたいほど、可愛い”と言われたら、どんな気持ちなの?」と訊いたら、ポッと頬を赤らめて「うれしいと思います」って。

食べる/食べられるという関係が、非対称の権力関係だということは、否定できません。シマウマがライオンを食べる側に回る、ということはないんですね。でもそれにも関わらず、「食べちゃいたいほど、可愛い」という言葉をうれしいと思う、それも真実なんだと思う。そういう言葉を一つ一つ聞きながら、様々な文章を繙きながら、この本を書きました。第八章の「生け贄譚」で書いた、梶井基次郎の「桜の樹の下には」も、僕にとってはシンドイ経験だった。
相馬
 文章のトーンが下っていましたよね。
赤坂
 一人の女子学生が「桜の樹の下には」を卒論に選ぶと言ったとき、楽しみだったけれど、怖かった。結局、彼女は語ることそれ自体をみずからに禁じたまま、卒業していきました。他者に対して語りえぬ何かを抱いていたのだと思います。僕は仕方なく、「桜の樹の下には」を舐めるように何度も読みました。彼女は何を感じていたのだろう、と思いながら。

そんなふうに、女性たちと言葉の欠片を交わし合い、食べること/交わることの接点で紡がれてきた言葉の群れと対話しながら、この本を書いた気がしています。

しかし今になっても、やはり「食べちゃいたいほど、可愛い」というのは、とても微妙な言葉だと思います。
相馬
 誰もが口に出す可能性があるし、言われる可能性もある。
赤坂
 普遍的な言葉ですよね。そしてそこには暴力の影が付きまとうんです。この言葉を、別の言葉に移し替えることが、とても難しくて。少し間違えると、とんでもない踏みはずしをしてしまう。だから僕は女性たちの言葉に耳を傾けながら、ゆらゆらと歩んでみたのです。
相馬
 赤坂さん自身が媒介者なのですよね。神話世界を、緘黙症の人の語れない言葉を、女性たちの言葉にできない思いを、掬い取って言葉にしたり、読者へ伝えたりしている。
赤坂
 自分で言うのもなんだけど、不思議な本ですよね(笑)。 (おわり)
以下のオンライン書店でご購入できます
2017年9月8日 新聞掲載(第3206号)
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この記事の中でご紹介した本
性食考/岩波書店
性食考
著 者:赤坂 憲雄
出版社:岩波書店
以下のオンライン書店でご購入できます
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