〈9月〉二人冗語 とめてくれるなおっかさん 背中の昭和が泣いている  平成日本どこへ行く|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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文芸
2017年9月11日

〈9月〉二人冗語
とめてくれるなおっかさん 背中の昭和が泣いている  平成日本どこへ行く

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福島 
 今月は定番四誌と『三田文学』です。読ませる作品が多かったですが、なかでも橋本治「草薙の剣 昭和篇」(新潮)は収穫だったと思います。
馬場 
 私も同感です。来月には「平成篇」が出るようですが、「昭和篇」だけでも作者がその時代を生きてきたというか、観察してきた実感と、物語の構想への気迫を感じました。
福島 
 主人公は六人(昭生、豊生、常生、夢生、凪生、凡生)で、六二歳から一二歳まで、一〇年ずつ年齢が離れています。彼らの生活を通じて、時代や心性の変化を「質的」に浮かび上がらせるという構成ですね。
馬場 
 一〇年刻みという単純な区切り方は、戦後から流行した世代論に委ねていそうで微妙にずれるので、そこに浮かび上がってくるものがあるのではないでしょうか。偶然なんですが、昨年、私が担当していた日本文学史の授業で、一〇年毎に近現代の作品を一作選んで講義をしてみたところ、それぞれの時代が緩やかに繋がりながらも、個々の作品やそれを取り巻く具体的な状況も同時に視野に収められたので新鮮でした。
福島 
 本作でも主人公という縦糸に、その父母や兄弟、恋人までが横糸として絡んでくるから、織り布の目は細かい。わずか一世代の差であっても、新たな生活様式が人々の生活や気持ちを少しずつ、でも確実に変化させ、現在を過去に追いやっていく。懐かしい「金妻」ブームも昭和全体という見取り図の中に置くと、なるほど興味深い現象であったことがわかります。
馬場 
 驚きなのが、人名で混乱しないのです。単に名前が「生」で統一されていて図式的だから混乱しないというだけのことなのか…。また、全員が男性ですが、それぞれの頭一文字が彼らの生きる時代を象徴している。時代が下るにつれて微妙な名前になっていきますが(笑)。タイトルの行方も気になります。
福島 
 考古学というか地質学というか、昭和という地層の断面を見る気がします。どのように戦後の闇市の時代の人々のものの考え方が現在の私たちのそれへと推移し、またそれが下の世代へとどのように伝わり、伝わっていかないのか。来月の「平成篇」では、闇市から現在まで、未曾有の露頭が出現することになります。
馬場 
 そういえば元号が篇名になっているわけですが、橋本自身の年齢的な積み重ねだけではなく平成の終わり、改元が現実味を帯びてきたこともこうした小説が書かれる背景にはあるのでしょうか。改元のたびに過去を振り返るみたいな。漱石の「こころ」もそうですし。とはいえ天皇の生前退位というのは古典時代はまだしも、近代以降でははじめてなわけで、それが物語の歴史認識に早めの影響を与えているという現象なのかもしれませんね。
福島 
 平成が終わる合図のように、ミサイル警報が除夜の鐘よろしく携帯電話から鳴り響きましたし、まさに時宜を得た作品だと言えます。ところで、アプローチは異なりますが、水原涼「塔のある村」(文學界)も、時の流れをテーマにしています。ここでも複数の人物+αを通して、戦前から現代までのある小村が通時的に描かれます。
馬場 
 塔をめぐる記憶と忘却、そして再創造の物語です。舞台は鳥取。冒頭に「鳥取に慰霊碑が多いのは、それだけ鳥取で悲劇が、悲惨な事が起きたということだ」とあり、古くは秀吉の出兵、江戸の一揆、そして太平洋戦争でのビルマ出兵と銃後で起きた鳥取地震、戦後の復興直後の大火災といった悲劇の通史を記述しています。
福島 
 どんな土地、どんなテーマでも、密度ある物語をしつらえられる水原の力量は稀有なものです。ただ、最近、その器用さが有能な弁護士のそれと重なって見えてもいた…。その矢先、今回は自身の出身地(ウィキペディア情報ですが)への回帰です。中上、阿部、小野的な土着サーガへの前奏曲としても読めそうな新機軸ですが。
馬場 
 先月はスコットランドで、その前はフィリピン、ほかにも出産する妊婦も書いてましたから、なんでも書けてしまうところで、今月は鳥取なのかと思って読んでいたのですが、そうではなかったのですね。気が付きませんでした(笑)。
福島 
 擬古典主義という言葉があるけれど、水原の「擬」(シミュラークル)作りのプロです。カメレオンのように擬態できる。ただし、擬態だから、外見は近づくけれど、本質との距離は変化しない。ところが、そのカメレオンが自分の土地と向かい合ったとき、擬態が解除され、地の色が見えるかと思ったのですが、そうはならなかった。本作では、自分の土着性との対面において、彼の擬態力は、近づくためではなく、遠ざかるための鎧として機能しています。
馬場 
 たしかによくある土地の歴史と作家主体のルーツの密着性というのは、本作には感じられないですね。そもそも正史に対して個人史を対置する創作法は近代小説のはじまりから模索されてきたものですが、水原にとって創作の必然としてあるのかどうか? 中央から離れた場所に集約される何かを描きたいみたいなものはぼんやりあるのかもしれませんが。本作も悲劇の吹き溜まりみたいな意味での鳥取ですし。
福島 
 土着性に対する反省にも似た昨今の再評価ブームをふまえて、方言での言い回しをタイトルや決め台詞に起用した「方言萌え」を狙った作品が多々見られますが、少なくとも、水原は方言を作品世界の肉付けとしては使っても、それで作品世界を土着オーラという新たな異国趣味で包もうとしていないのは立派です。
馬場 
 本作で、一番水原の世代らしいと思ったのは散々書いてきた歴史的部分(塔の由来)は忘却されるもので、その忘却という事態が上書きされて「ここに塔があった」ということだけが残るというところです。もっというと歴史と断絶している感覚ですね。
福島 
 モニュメント(記憶装置)、ないしはアンチ・モニュメントとしての塔というテーマは悪くないと思います。先も言ったように、土着サーガの枠組みから杜若村を描こうとしながら、いつもの擬態力が発揮され、土着性に安易によりかかった作品に堕すことからは逃れられている。しかし、その反面、せっかく自分のルーツの土着性を扱いながらも、いつものカメレオン的な作品とあまり見分けのつかない作品になっている。「擬」の技術には感心するのですが、どこまで行っても作りもの感が追いかけてくる。しかも、それは作りものならではのリアリティというのでもない…。
馬場 
 そういった作品とは対極にある言語遊戯作が、今月は二つ揃いましたね。筒井康隆「漸然山脈」(文學界)と町田康「湖畔の愛」(新潮)。期待して読んだのですが、今回はどちらも言葉の快楽世界にさらってもらえなかったです。ジャズとかお笑いとかに関心がないと難しいのかも。一方、壇蜜「はんぶんのユウジと」(文學界)には、独特の柔らかい感性が垣間見えるときがあって、そういうものの見方にちょっと惹かれました。
福島 
 町田の作品に出てくる「横山ルンバ」はまさか筒井のことかと邪推されました(笑)。他には黒田夏子「掌篇三作」(新潮)、大澤信亮「霊山巡」(すばる)、はるいち「柔らかい針」(三田文学)、沼田真佑「廃屋の眺め」(文學界)を興味深く読みました。
馬場 
 沼田は芥川賞受賞後の一作目ですね。非正規雇用の状態が慢性化している人間心理が通奏低音として響いてくる。職場を点々とするなかで奇妙な人や話と出会うという内容で、それが自殺幇助する男とか、厭世のあまり自殺する友人とか、DVする夫とその傷を見せて誘う妻とか、なんともやるせないものばかり。これが「廃屋」感? どこかしらもう抜け出せないような朽ちるのを待つような飽和感が漂っていました。
福島 
 来月に予告されている橋本治の「平成篇」では、そうした人々がどう描かれるのか楽しみですね。
2017年9月8日 新聞掲載(第3206号)
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