遠まわりして聴く / 和田 忠彦(書肆山田)比較文学を超えた翻訳による思考のエクリチュール|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
2017年9月11日

比較文学を超えた翻訳による思考のエクリチュール

遠まわりして聴く
著 者:和田 忠彦
出版社:書肆山田
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文学といえば、長いあいだフランス文学やドイツ文学や英米文学が中心だった。しかし、本書『遠まわりして聴く』は、雑誌『國文學』に連載され、好評を博した前著『声、意味ではなく』の「わたしの翻訳論」につづく、美しい深さをもつイタリア文学者の翻訳論的なエッセイ集である。

例えば、冒頭「イタリアのkawabata」の川端康成以後の日本文学の翻訳と輸入の問題は、イタリアという現在を明るく照らしだす。ときおり著者の文章には、エスプレッソ・コーヒーを飲む人物やフィレンツェやヴェネツィアやアッシジの街があらわれる。あるいは、リスボンの街がみえる。とおくて近いイタリアやポルトガルの光と影を遠まわりして聴く著者の文章の歩みは、フランスやドイツや欧米文学を包囲するかのようだ。

しかし、歴史のある街で、著者は現代の文学の根源を言語(翻訳)に遡って考える。荒川洋治の詩も、清水哲男の詩も、四元康祐や小池昌代の詩も、独特の思考による輝きを放つ。そこに、シニフィアン(声)としての聴覚(音)=「声」の表象=反復としての境界をみる。作家は声を書き、読者はその声をどのようにして聴くか。「遠まわりして聴く」のは、文学を成り立たせている言葉の本質を深さのなかに聴くことである。著者は、そうした翻訳の境界にある作品から現象してくる「声」に、翻訳によって反復する「自由間接話法」を聴く。言葉と物の回路をもつ世界(現実)から表象される文学、さらには作者と作品の境界に、作者の消滅や批評や詩学を思考する。現実と作品との関係性は、言葉の鏡を介して、その境界の深さを反復して聴く声の現象学である。この視線は、根源的だ。そこに、翻訳性を通して聴く、著者の詩学があるように思える。

このような翻訳論的な解釈は、次に文学(小説)と映画(絵画)の回路の転写(翻訳可能性=浸透性)となって、スクリーンの映像を語る。著者によれば、文学や映画や絵画の「原テクスト」と「翻訳テクスト」の「あいだ=境界」におこる言葉の問題が、翻訳を通じた「言葉を聴く」重層的解釈である。引用されるのは、山田稔の小説『特別な一日』だ。ヒトラーがローマを初めて訪れた日を描く映画で、耳の奥でなるのは、ファシズムの歌「ジョヴィネッツァ」である。イタリア文学者の著者は、カルヴィーノやエーコ、タブッキなどの有意義な翻訳の仕事をしてきた。思想的背景には、ベンヤミンやビュトールやデリダをもつ。イタリアの近現代文学を専門とすることが必然的にしいる批評には、「境界=水平線」としての「ファシズムとモダニズム」の問題が潜在する。

厳密には、あらゆる芸術の生成と解釈は、「翻訳」による言葉による重層的解釈=理解に等しい。さらに、著者は、構造的な世界の文化の重層性(共時性)のまっただなかにいて、西と東の文章を変換(翻訳)させながら、境界(外部)にある日本の小説や現代詩の内部に下降して、みずからの文章を声の連続体へむかって書く。そこには、比較文学を超えた翻訳による思考のエクリチュールがある。表題の「遠まわりして聴く」も、はじめにの「とおくて近い」の意味作用も、自訳の引用と地の文章が交感する「聴覚の鏡」によって、文学、映画、絵画にわたる声の召喚への脱構築のリリカルメソッドである。

この記事の中でご紹介した本
遠まわりして聴く/書肆山田
遠まわりして聴く
著 者:和田 忠彦
出版社:書肆山田
以下のオンライン書店でご購入できます
2017年9月8日 新聞掲載(第3206号)
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