連 載 映画/映画作家/映画批評 ジャン・ドゥーシェ氏に聞く(23)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
読書人よ、集まれ!

トップページ

特集

書評

連載

コラム

ニュース

読書人とは

  1. 読書人トップ
  2. 連載
  3. ジャン・ドゥーシェ氏に聞く「映画/映画作家/映画批評」
  4. 連 載 映画/映画作家/映画批評 ジャン・ドゥーシェ氏に聞く(23)・・・
ジャン・ドゥーシェ氏に聞く「映画/映画作家/映画批評」
2017年9月12日

連 載 映画/映画作家/映画批評 ジャン・ドゥーシェ氏に聞く(23)

このエントリーをはてなブックマークに追加
「ペサック国際歴史映画祭」(1992年)にて

JD
 ゴダールが映画を目にしてすぐに理解したこと、それは映画はフィルムのおかげでなりたった芸術であるということです。映画とは、一秒間の24枚のイメージです。フィルムという媒体を手に取れば、一つの動かないイメージがあり、一つの小さな境界があり、そしてまた別のイメージと別の小さな境界が連なっています。映写機の動きが映像という動きを信じ込ませることを可能としています。映像自体は根本的なところでは、動かないイメージから生まれています。一般的には映画の第一段階とはシナリオだと信じられています。第二に撮影があり、第三にモンタージュが続くといった具合です。しかし、現実には、モンタージュはフィルム自体の中に他のものに先立ってすでに存在しています。別の言い方をすると、映画とは連続性の上に成り立ってはいません。多くの人々は、何年にもわたって、世界中を席巻したグリフィスのような映画を目指していました。しかし、不連続性、裂け目、断絶、等々を見せるという別の道も確実に存在していたのです。

ゴダールがジガ・ヴェルトフやロシアの作家に重きを置いていることは理由がないわけではありません。政治的な理由でロシアの作家は、グリフィスに代表される連続性のアメリカ映画に反抗する立場をとり、不連続性の映画を目指していました。政治的な話は少し馬鹿げたことですし、今ここでの主題ではありませんね。それでも、注目すべきはロシアの作家によって、不連続性の映画が、つまり各々の映像が一つの断片であり、前の映像に連なる映像がその前の映像と張り合う形で表現されたことです。一種の闘争による映画です。ロシア以外の国でも、フリッツ・ラングのように、そのような不連続性の映画を作っていた人もいました。

連続性と不連続性という考えを踏まえると、映画について理解できると思うかもしれません。しかし注意をしなければならないのは、映画が本当にモンタージュの芸術であるかということです。つきつめると、モンタージュとは断絶です。フィルムの断片を貼りつけ、切り、また貼り付け、切る。この一連の流れも、紛れもなく映画の根本にあるのです。各々の映像の間に、そして一秒間に24回訪れるイメージの間に存在する断絶が、紛れもなく映画を形作っています。ゴダールのすべての映画は、確かに、この断絶の上に成り立っています。そうであるからこそ、彼はすべての映画を通じて、恒常的な断絶を主題としています。ロシア映画の影響がゴダールの映画の各所で見られるのには、ちゃんとした理由があるのです。

そういうわけで、ゴダールが3D映画に到達した時には、すでに連続性による映画を作ることは問題とはなっていません。連続性とは、空間性に依る映画のことであり、一種のまやかしにすぎませんでした。技術的な話をするならば、『さらば、愛の言葉よ』では3Dの映像による立体感が問題となるかもしれません。しかし、この作品をより深く見ると、別の問題があることがわかります。ゴダールが3D映画を作るにあたって主題としたことは、いくつもの隆起する要素が変わるがわるに移り変わっていく運動の中での、イメージの裂け目です。つまり、いくつものイメージが結びついていくようにして映像を組み立てていくのではなく、分裂する映像が問題となっている。この作品を見ると、画面奥にあるいくつもの要素が各々の動きを持っており、前面にある映像が勝手に浮き上がってくるのが見えてくるはずです。そして、前面に浮き上がる要素と後ろを動き回る要素は結びつき合っていません。ここで見える映像とは連続性ではなく、不連続性なのです。

<次号へつづく>
〔聞き手=久保宏樹/写真提供:シネマテーク・ブルゴーニュ〕
2017年9月8日 新聞掲載(第3206号)
このエントリーをはてなブックマークに追加
ジャン・ドゥーシェ 氏の関連記事
久保 宏樹 氏の関連記事
芸術・娯楽 > 映画と同じカテゴリの 記事