蔵書一代 / 紀田 順一郎(松籟社)蔵書とは自分そのもの 本を買う側の貴重な証言に|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
2017年9月11日

蔵書とは自分そのもの
本を買う側の貴重な証言に

蔵書一代
著 者:紀田 順一郎
出版社:松籟社
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蔵書一代(紀田 順一郎)松籟社
蔵書一代
紀田 順一郎
松籟社
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先日、電話でこんな相談をされた。「全部捨てようかと思いました。でも、捨てるだけにしてもあまりの量なんで。どうしたらいいかと……」。亡くなった夫が残した一万冊の蔵書を前にどうしていいかわからなく、とりあえず無くさないと、と思い廃棄も考えたのだという。どんなに生涯をかけた蒐集も、貴重な本も、価値を知らないものにとっては無駄の塊。蔵書一代とはよく言ったものである。この本は、著者の紀田順一郎氏が半生をかけて集めてきた三万冊の蔵書をやむを得なく処分することになり、そのテン末をはじめ日本における蔵書にまつわる事柄を近代出版史や蔵書家の苦労譚など、あらゆる角度から考察した本である。

日本において個人蔵書を保つことがいかに難しいのか。数々の古本売買の現場を見てきた古本屋の自分にとっても、また、本を愛する人にとっても、本書の序章である〈永訣の朝〉は、著者本人の心が直接的に感じられて胸が締め付けられるだろう。

三万冊とはどれくらいの量か。よく古本屋の店頭に縛ったままの本が置かれているが、その縛りおよそ千五百個分の量である。それが古本屋によって持ち去られる日。蔵書とは「本」という形だけのものではない。著者も本書のなかで明確に「コレクション」と分けているが、蔵書とは自分がどのような思考経路を持っているか。自分そのものであり、自分の知識の地図である。それが解体される。

現在、インターネット検索ができるようになって「蔵書家」はだいぶ少なくなってしまったのではないだろうか。かつて、次にいつ出会えるかわからなかった時代は通販の目録に目を凝らし、古本市でもつい抱えるものが多くなるということが普通だったが、今は図書館や古書店なども含め、大多数の本は「住所」がわかるようになった。蔵書そのものではなく、自分の思考回路とインターネットを通じて外部にあるものを自分が編集している人が多いのかもしれない。「自分だけの図書館」という概念も消えゆく運命なのだろうか。

出版社など本を出す側、書店などの本を売る側の本はたくさん刊行されているが、買う側の本は「本」がメインのコレクション関連や、エッセイ調のものが多い中、買う側のオーラルヒストリーのような本著はとても貴重な証言だろう。そしてまた「知識に触れる」ということの変遷という視点からも読めるのではないだろうか。

この記事の中でご紹介した本
蔵書一代/松籟社
蔵書一代
著 者:紀田 順一郎
出版社:松籟社
以下のオンライン書店でご購入できます
2017年9月8日 新聞掲載(第3206号)
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