ラカニアン・レフト ラカン派精神分析と政治理論 / ヤニス・スタヴラカキス(岩波書店)政治理論と精神分析の交錯  ラクラウの遺志を継いで|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
2017年9月11日

政治理論と精神分析の交錯 
ラクラウの遺志を継いで

ラカニアン・レフト ラカン派精神分析と政治理論
著 者:ヤニス・スタヴラカキス
出版社:岩波書店
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新奇にみえる精神分析と政治理論の交錯を試みる本書は、様々に興味深い。だが僕は、本書には無縁にみえる次の問いを立て、本書を政治的に詮索ゴシップしてみる。

ポピュリズムに善し悪しはあるのか、と。それは前―出来事的な浮遊する人頭ポピュレスの政治に関わるのか、とも。

この設問こそ、本書の隠された論点であり、バディウ、ランセラン、クーヴェラキスがヨーロッパ全体に及ぶギリシャ政治をめぐって鼎談した問題の核心(改良か、革命か)だった。

本書の構成をやんちゃに整理すれば、否認概念を軸とする第1部では、著者が言うラカニアン・レフトを臨界的外部から炙り出すために登場させられた同胞カストリアディスが検討され、師ラクラウの検討を経て、主要敵ジジェクをディスり、その戦略的な対比・・・・・・・・離接のもとで・・・・・・第2部への結節環とされたバディウに、軽く秋波が送られる。

第2部では、著者にとっては不可欠な無意味・・・・・・――彼ら・・にとっての禁忌である下部構造:僕にとっては超自我機械――をめぐってバディウが対立するネグリには、カストリアディス絡みで一回しか言及されなかったにもかかわらず、ラカンをほぼ無視するこの革命家との関連で僕にはきわめて刺戟的な、下部構造につねにすでに棲まう資本という超自我が発する二つの分裂する命法を論じた第7章など、享楽の現状ジュイッサーンス アクチュアル分析が行われ、勉強になる。

またこうした構成をもつ本書は、その惹句でノバスに「ジジェクの死」を喝采させ、凡庸にも表題ラカニアン・レフトのある意味で規範的プレスクリティヴな定義を説くことから議論を始めるが、ラカンを使った・・・政治的争論の特異な一端を学習することができるという意味で、前著『ラカンと政治的なもの』に較べて論争的であり、その核心には、バディウ以上にバディウ主義者であるホルワードとボスティールスのだけをことさらに援用してまでラカン利用・・におけるジジェクとバディウのズレが孕む政治性を拡張的に顕揚することでジジェクとバディウを対立させ、定義的に「存在しない」ラカニアン・レフトをクラブ財・・・・として現前させる、エセックス派のなかなか手練れの政治わざがある。

とすれば、バディウやランシエールと列んで政治の自律性を強調して止まないポストなマルクス主義が偏愛するラディカル・デモクラシーの構成にシニフィアンとして加担させられる僕たち生ける無理数の人民デモスその・・統治クラシーが、根源的ラディカルに、問題となるほかない。

またであればこそ、出版直後に入手し、その後の書評や論争を眺めていただけで読んだつもりになっていた本書について、書評論文・・十年後のいま・・・・・・書けと言われれば、その題辞に僕は、〈真理は知に穴を穿つ〉という、第1部と第2部を戦略的に結節するという重要な役割を担わされながらも補論としてしか論及されなかったバディウの台詞おまじないを選択することを躊躇わない。

つまり、真理は真理が起こる(場を持つ)状況から完全に控除され、またそれが政治だとすれば、しかし、本書で控除され(損なっ・・・)た真理はどんな無理数が支え――あるいは支えず――浮遊するかが、問題なのだ。

それは、バディウの出来事なのか。ラクラウの浮遊するシニフィアンなのか。マルクスの、僕的に言えば超自我機械である、いわゆる下部構造なのか。それとも密教的とさえ言える強い党派とうは性に裏打ちされた政治的な師ラカンの鍵語である享楽を使い回す・・・・ラカン左派(左派のラカン主義者?)という未聞の政治なのか。まさにこれこそが、思弁的にみえる肯定―実定性と否定性の問題を読者が実践的に考えねばならない本書の枢要なのである。

『偶然性・ヘゲモニー・普遍性』ではラクラウとジジェクの諍いが面白がられたが、そのラクラウは、しかし、政治の自律性については、ジジェクが入れ込むバディウとは結果において間接的に・・・・・・・・・・「同志」であり、またポピュリズムをめぐるもはやすでに・・・・・・戦術的であってはならない乖離は、その後に刊行されたラクラウの『ポピュリスト的理性について』を機に、諍いの臨界を超えて現実政治の中心となった。それはまさに21世紀の政治の焦点なのだが、ラクラウの遺志を能動せいじ的に継いだ著者は、本書を2007年に刊行し、その乖離をむしろ最大化することで、ギリシャ(むしろシリザ)という現実(界)を念頭に人民ポピュレスにおいて政治理論と精神分析を交錯させようとする。

僕にとってそれは、しかし、バディウも会員クラブ登録されたらしいラカニアン・レフトからハブられたジジェクが(まさに第7章の視点によって)ネグリとの共闘を強いられるという可能性も含めた情勢の複雑化であり、またラカニアン・レフトが、この情勢のもとで、つねにすでに起源的に・・・・・・・・・・作動している「蓄積せよ」と「消費せよ」という二つの分裂する命法の綜合である資本と政治的に対峙できるのかという疑念でもある。なぜなら、資本は“社会の修辞的基礎”さえ吹き飛ばし、自律的政治といった単純な二元論そのものを失効させているからである。

つまり、最後にふたたび搦め手から問えば、2013年にバディウが音頭を取って名だたる論客を『人民とはなにか?』に結集させた所以とは何か? またそこに2014年に他界するラクラウは措くとして、ジジェクがいなかったのは「偶然」なのか、「覇権」の問題なのか、あるいは「普遍」的なのか?(山本圭・松本卓也訳)

この記事の中でご紹介した本
ラカニアン・レフト  ラカン派精神分析と政治理論/岩波書店
ラカニアン・レフト ラカン派精神分析と政治理論
著 者:ヤニス・スタヴラカキス
出版社:岩波書店
以下のオンライン書店でご購入できます
2017年9月8日 新聞掲載(第3206号)
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