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読写 一枚の写真から
2017年9月19日

極東オリンピック大会出場の選手

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我運動界を代表して上海のオリンピック大会に奮闘し帝国の気を吐ける名誉の我選手諸君である。前列右より高津、黒田、津村、澤田、岡本(共に競走選手)(略)後列右より熊谷(テニス)柏尾(テニス)多久(競走)金栗(競走)の各選手である。(「写真通信」大正4年7月号)

二〇一九年のNHK大河ドラマが「いだてん」と決まった。主人公は「マラソンの父」金栗四三(かなぐりしぞう)、明治・大正・昭和を舞台にアスリートが主役という異色のドラマになる。

金栗は、明治二十四(一八九一)年八月二十日に、熊本県玉名郡春富村(現・和水町)に生まれた。旧制玉名中学から東京高等師範学校(現・筑波大学)に進学したが、なんといっても「行方不明事件」がオリンピック史にその名を残した。

明治四十五(一九一二)年のストックホルムオリンピックに、金栗は日本人初の選手としてマラソンに出場。前年の予選で当時の世界記録を二十七分も短縮した記録を持っていたが、気温が四十℃を超える過酷なレース途中に日射病で意識を失い、近くの農家で介抱されて意識が戻った翌日の朝、そのまま帰国した。

金栗は棄権する意思をオリンピック委員会に伝えられず、「競技中に失踪し行方不明」として扱われたまま時が流れ、昭和四十二(一九六七)年にストックホルムオリンピック五十五周年記念式典で、場内に用意されたゴールテープを切った。この時、「日本の金栗、ただいまゴールイン。タイム、五十四年八カ月六日五時間三十二分二十秒三。これをもって第五回ストックホルムオリンピック大会の全日程を終了」とアナウンスされた。

金栗は、箱根駅伝にも尽力、昭和五十八(一九八三)年に満九十二歳で亡くなった。

写真の後列の日章旗をつけた白いシャツ姿の左端が、金栗四三選手、満二十三歳のときだ。

これは、大正四(一九一五)年五月十五日から二十二日まで、中国・上海で開催された第二回極東オリンピックに出場した日本人選手たち、『写真通信』同年七月号に掲載された一枚だ。撮影場所は不明で、日本風の庭のように見えるが、上海在留の日本人たちが組織した後援会員たちがいるので、会場になった数万坪の「新公園」内かと推測される。

金栗の右隣りは多久儀四郎。熊本玉名中から東京高等師範まで一年後輩として、その後の長距離陸上界を駆け抜けるコンビである。

もう一組、同じ後列の中右と右端の柏尾誠一郎、熊谷一弥のテニス選手。二人は、一九二〇年のアントワープ大会のダブルス、シングルス(熊谷)で日本人初のオリンピック・メダル(どちらも銀)を獲得する。

さて、この大会第一回の開催時にIOCからクレームがついて、極東選手権競技大会になったとされるが、『写真通信』も新聞も「第二回極東オリンピック」と銘打ったままだった。大会には、四十九種三百三十二人が参加し、日本選手は三十名が出場した。記事によれば金栗は「病気をおして出場」とあって成績は振るわなかったが、多久が八マイルに、自転車競技で藤原正章が優勝した。

しかし、会場を一歩出れば不穏な空気が上海を覆っていた。

この年一月十八日、日本は中国の袁世凱国民政府に対して、日本の権益拡大をはかる「二十一カ条要求」を突き付けた。その結果、上海を拠点とした日貨排斥運動など、激しい抗日運動が広がっていたのだ。

世界は、前年に勃発した第一次大戦下にあった。この記念写真は、戦火のかげで、世界に羽ばたきはじめた日本アスリートが揃う貴重な一枚である。(いわお・みつよ=ジャーナリスト)
2017年9月22日 新聞掲載(第3207号)
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