四方田犬彦インタビュー  漫画の分岐点、1968年 『漫画のすごい思想』(潮出版社)刊行を機に|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 特集
2017年9月21日

四方田犬彦インタビュー 
漫画の分岐点、1968年
『漫画のすごい思想』(潮出版社)刊行を機に

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戦後日本を語る際のキーワードの一つとも言える「一九六八年」。
さらに世界に目を向けてもこの六八年は様々な出来事が起こり転換期と言われている。
この度、四方田犬彦氏が『漫画のすごい思想』を潮出版社から上梓した。

本作は一九六八年から現在まで、四方田氏が読者として体験した「ガロ」や「COM」に関わった漫画家、漫画作品を中心に私的漫画論を語っている。漫画にとって六八年とはどういう年であったのか――。

今回は前作『日本の漫画への感謝』も含め、戦後日本において漫画がどのように論じられ、また読み継がれてきたのかを語ってもらった。今や日本を世界に紹介する際のキラーコンテンツともいえる漫画。

その原点は一九六八年にあるのかもしれない。
(編集部)

漫画を語る世代的 責任を感じて

「COM」(1967年創刊)
「ガロ」(1964年創刊)
 ――『漫画のすごい思想』は二部作の一冊で、前作『日本の漫画への感謝』
(二〇一三年、潮出版社)の続編にあたります。『日本の漫画への感謝』は一九四〇年代の終わりから六八年までの漫画作品を中心に、『漫画のすごい思想』は六八年以後から現在までが領域となっています。まず四方田さんの世代と漫画の関係についてお話いただけますか。
四方田
 私は一九五三年生まれで、それは漫画の境界線上の世代で幸運だったと思います。一九六〇年代半ばで貸本屋がどんどん消滅していく。つまり貸本屋で漫画を借りた最後の世代です。例えば白土三平の『忍者武芸帳』はオリジナルの三洋社版で読むことができました。小学校入学が一九五九年で、「週刊少年サンデー」と「週刊少年マガジン」が創刊された年になります。その頃は月刊誌の「少年」「少年ブック」「日の丸」などがどんどん凋落していくのですが、それらを読みながら同時に週刊漫画誌も読んでいました。

そして一九六〇年代半ばにコダマプレスなど新書版で漫画本が出始め、それまでは貸本屋で借りるものだった漫画が個人で買えるようになり、廃業する貸本屋さんをめぐって、ボロボロになった貸本漫画を譲ってもらい、コレクションすることができるようになりました。そういった漫画のモードが変わる時にいつもそこに居合わせることができた。その流れで「ガロ」も「COM」も創刊号から読んでいます。だからそれらを語る世代的責任みたいなものを感じています。それで未だに読み続けている。ですから『日本の漫画への感謝』という題名の通りです。漫画は漢字にルビがふってあるからどんどん読めて、日本人に生まれて日本に漫画があったから本を読むことを覚えた。さらにそういう世代に生まれて本当に感謝しています。

『日本の漫画への感謝』は小学校時代から読んでいた貸本や週刊誌、月刊誌の漫画中から二六名を取り上げて作家論として書いています。対象漫画家の作品を自分の書庫だけでなく、借りたり、買ったりして出来る限り読みました。

――前作も含めて選ばれた漫画家の基準はありますか。
四方田
 『漫画のすごい思想』は六八年以後を扱っています。つまり私にとっては一五歳だった一九六八年から現在までです。六八年で漫画は急速に変化しました。子どもたちだけのものではなくて、大人が読むような現代思想の対象になる形で急激にアヴァンギャルドな作品が出てくる。そこに居合わせました。その中で私がきちんと論じておきたい漫画家を二九名選んで書きました。手塚治虫と楠勝平は前作にも登場するので、合わせて五三人の漫画家が登場するのがこの二冊です。

漫画をずっと読んでいる人からはすぐに批判が出るかもしれませんね(笑)。それは、ムロタニツネ象も、石川球太も、重要な漫画家が入っていないというものです。長谷邦夫が入っていない、竹宮惠子が入っていないという批判は充分に受けるつもりです。泣く泣く諦めた漫画家たちもたくさんいて、本当はあと五〇人くらい書ければ私も満足します(笑)。

ただ私が論じなくても、きちんとした研究書や評論がある人、或いは漫画史の中で評価されている人は取り上げなくても大丈夫だろうという気持ちもあります。逆に言えば、私が論じなければ誰もが忘れてしまうだろうという漫画家、また単行本を一冊も出さずにいなくなってしまった漫画家を取り上げておきたかった。

とは言え、メジャーで既に色々と論じられている漫画家も取り上げてはいます。しかし既に論じられたものとはもっと違った形で私は評価したいと思っている漫画家ですね。それが手塚治虫やつげ義春といった漫画家でしょうか。

――『漫画のすごい思想』で勝又進の章の冒頭に「人はなぜ、つげ義春についてかくも語りたがるのだろうか。(略)普段は漫画など読んでいるとも思えない大学教授や文筆家が饒舌を重ねている」と書かれています。
四方田
 つげ義春は偉大な漫画家だと思うけれど、畑中純も同じくらい論じられるべきだと私は思います。そして勝又進にしても非常に重要な漫画家です。その章でつげ義春の「せめて十分の一でいいから、勝又進に脚光があてられてもいいと思う」と書きました。勝又はつげの圧倒的な影響を受けて、田舎を素材にして普通の人々のことを漫画にしていましたが、どんどん変わって長い年月をかけて五〇〇頁を越える『まんが狭山事件』を執筆する。或いは原発労働者の悲惨さについて描いた『深海魚』という短編を発表する。

色んな国に漫画はあると思うけれど、社会的なシリアスな事件について、一人の漫画家が長い時間をかけて裁判資料を読みながら漫画を描く文化は日本にしかないのではないでしょうか。ところが勝又進のことは誰も論じない。

手塚治虫も『鉄腕アトム』や『ジャングル大帝』など有名な漫画については論じられるけれど、私は『ブッダ』が手塚の最高傑作ではないかと思っています。しかし『ブッダ』についてはあまり論じられていない。手塚が浄土三部経を読み込んで『ブッダ』の長大な物語を作っているというのに、これは誰も書いていない。だからこれをちゃんと書くべきだと考えたので『漫画のすごい思想』の手塚の章では『ブッダ』を中心に書いています。
ノンセンス漫画、 杉浦茂の系譜

四方田 犬彦氏
 ――『漫画のすごい思想』は「一九六八年にはじまる」という文章から始まります。四方田さんは一九六八年をどう捉えられていますか。
四方田
 六八年は日本の文化にとって、つまり漫画だけではなく音楽にしても映画や演劇で、その根底にある言語秩序の解体と散種がいっせいに開始された年です。奇しくもそれは新左翼の反政府運動、反戦運動と時期を同じにしていた。お互いに興奮を分かち合うことはあったけれど、だからと言ってどちらかがどちらかに追随するといった単純な話ではない。政治での興奮があった時に、文化でも同じように対応するような興奮があった。既成のものや言語秩序を解体する運動が政治の領域と文化の領域で同時に起きたんです。それが漫画の中にはっきりと痕跡が残っている。ですから「六八年からはじまる」とはっきり書いておきたかった。

例えば、「ガロ」は唯物史観で描かれる白土三平の『カムイ伝』という巨大な物語を描くために準備された雑誌で一九六四年に創刊されました。ところが数年経って白土さんが巨大な物語を書きあぐねていた。その六七年末に佐々木マキと林静一の二人が「ガロ」に登場します。彼らはまったく物語のない漫画を描く。佐々木マキの『天国で見る夢』はセリフの吹き出しがないものや吹き出しがあっても記号、数式、英語で書かれていたりする。佐々木は構想もないまま一日一頁を描いて、描き終わった後でトランプをきるように頁を自由に並べ替えて作品として発表していた。或いは『ベトナム討論』という非常にアヴァンギャルドな作品では、登場人物は世界中の有名人でフェイクの中国語でベトナム戦争のことを喋る。でも実はその中国語は助詞を省略した普通の日本語だから、何となく意味がわかる。こういった過激な実験を漫画で行います。白土さんが描いていたモダニズムの『カムイ伝』が機能不全になった時に、佐々木マキや林静一のような新人が登場する。

ノンセンスなもの、言葉と絵を乖離させたもの、それからつりたくにこや岡田史子といった女性漫画家が登場します。白土さんが思ってもみなかった形で漫画というジャンルが発展して多様化していく。だから六八年に文化的な切断が起きた。そしてサブカルチャーの中の漫画が強いメッセージ性を持つようになり、特に芸術メディアの中でも強い実験性を持つようになったことは確認しておくべきです。その漫画が映画や小説にも影響を与えているのは未だに続いていることですから。

――佐々木マキが登場した時に手塚治虫が掲載中止を求める抗議文を発表したそうですが、なぜだと思われますか。
四方田
 漫画の中心が手塚の描いてきたストーリー漫画ではなく、佐々木マキのような漫画が中心になってしまうのではないかと強い危惧を感じたのでしょう。佐々木マキは無名の新人ですから放っておけばいいはずです。でも脅威を敏感に感じた手塚はすごい。つまり手塚は自分が日本の漫画の正統性の中心であると信じていた。事実、あれだけ活躍したのだからそれは正しい。しかし日本の漫画に正統性があるとすれば、もう一つあると思います。それはノンセンス漫画の杉浦茂の系譜です。それはストーリーではなく遊びとダジャレのあふれた忍者合戦と頓智比べを中心としていて絵が楽しくてずっと見ていられるような漫画です。『日本の漫画への感謝』で最初に取り上げたのは杉浦茂でしたが、手塚治虫は杉浦茂的な系譜を否定することで出てきました。手塚作品はアメリカ的で派手なストーリー展開でディズニーのようなキャラクターを取り入れて戦後を体現しています。でも杉浦茂の系譜は確実に存在している。それを継ぐ代表的な漫画家は赤塚不二夫です。レレレのおじさんのようなキャラクターを見ると明らかに杉浦茂の系譜で、その次に続くのが佐々木マキでしょうか。手塚治虫に対する戦後漫画の正統性をあげるなら杉浦茂の存在が見え隠れしながらノンセンス漫画はずっと続いてきた。

それが六八年になって不条理やノンセンスといった馬鹿馬鹿しいことが実際の大学生活や政治、社会でたくさん出てきた時に漫画にも出てくる。それ自体は非常におもしろい偶然の一致です。こういう私の考え方は鶴見俊輔に影響されています。鶴見さんはノンセンス漫画をすごく買っていました。そして水木しげるは評価していても、手塚漫画には消極的でしたね。
鶴見と水木戦争体験を通して


――これまで漫画はどのような論じられ方をしてきたのでしょうか。
四方田
 五〇年代はあまり論じられていませんでしたが、一番論じたのはPTAと日本共産党です。つまり漫画はいけないという立場です。白土漫画は残酷描写が多いので子どもに悪い影響を与える、漫画を読むと目が悪くなると教育関係者によって言及されていました。それが六〇年代には教育評論家の阿部進が漫画はおもしろいと言っていた。それから佐藤忠男が漫画を弁護していました。つまり「思想の科学」系の論者ですね。ただ彼の場合には、学校では教えない歴史や知恵を教えてくれるメディアだから漫画は良いという立場です。でも優等生的だからアクション漫画やエロ漫画については無視してしまうのだけど…。

その佐藤忠男を「思想の科学」に採用したのは鶴見俊輔です。鶴見俊輔は水木しげるのことを論じていました。どうして鶴見俊輔が水木しげるを論じていたのか。思い当たるのはやはり戦争体験でしょう。二人は歳も同じで鶴見はジャカルタに水木はニューギニアにいた。水木は戦争で片腕を失い、そして漫画家になるという苦難の人生を選ぶ。しかも戦争については簡単に反戦とは言えないような非常に深い不条理世界を描きます。それをいち早く鶴見は見出した。鶴見俊輔は「ねずみ男の哲学」という文章まで書いています。敵や正義の味方ではなくて、あっちにもこっちにも付き合いながら生きるのが庶民の知恵だから、ねずみ男に学べ、といったことを書く。鶴見の視点は非常にユニークで、はっきり言わないけれど、悲痛な戦争体験を踏まえて水木しげるに向かってメッセージをおくっている。二人とも二〇一五年に亡くなられましたね。

つまり六〇年代は「思想の科学」系の人たちが多く論じていた。ただ、つげ義春の『ねじ式』が一九六八年の「ガロ」に登場した時に、突如として六八年文化の演劇人やフランス文学者が褒めだした。それは漫画をこれまで読んでいなかった人たちです。それ対して従来の漫画主義者がとても反発しました。漫画しか知らない人は視野が狭くて、いつの時代にも稚拙な反発しかできないものです。でも私はそういうこと自体にあまり興味がありません、勝手に漫画を読んできましたから。ただどちらにも言えることは、六八年からの半世紀であなたたちは漫画を読み続けてきたのかと言うしかないですね。

――『ねじ式』が登場した時の四方田さんの印象はいかがでしたか。
四方田
 ついに爆発したか、と。その二年くらい前からつげ義春がだんだん変わってきたとは思っていました。でも『ねじ式』や『ゲンセン館主人』といった作品がすごく変な作品で、旅行記などは落ち着いています。彼は精神的危機を経て、七〇年代、八〇年代にすごい作品を書き出します。身を切るように描いていますからすごい漫画家だと思います。

おもしろいのは、島尾敏雄がつげ義春を熱心に読んでいたことです。それから最近のつげがハンガリー映画のタル・ベーラの『ニーチェの馬』を評価していることです。つげと島尾が会ったことがあるかどうかはわりませんが、『死の棘』と『必殺するめ返し』は比較されるべきです。
どの漫画家も無視できない


――『漫画のすごい思想』で漫画に関する本が四冊目になりますが、ご自身と漫画との関わりをどのようにお考えですか。
四方田
 ずっと読者であることに変わりはありません。これまでの漫画についての本は最初が『漫画原論』(ちくま学芸文庫)です。漫画という平面がどのように分割されて、どのように物語が語られていくか。つまり漫画を読んでいる人にとっては当たり前じゃないか、ということを理論的に書いた記号学から漫画を読み解いた本です。この本で漫画の構造分析は完結したと思っています。

二作目は『白土三平論』(ちくま文庫)で一人の漫画家についての作家論ですね。白土作品については小学校の頃から読んでいたので全作品を持っていますから資料代もゼロです(笑)。白土さんとお話した時も「勝手に書けよ」ということで、一人の芸術家について、その生涯と作品の進展をきちんと書きました。これも白土さんについての本が一冊もないということから始まっています。

この二冊の後に続くのが、今は忘れ去られてしまった漫画家のことを思い出してください、あんなすごい漫画家がいたんですよ、という思いを込めて私を育ててくれた漫画家たちについて書いた『日本の漫画への感謝』であり『漫画のすごい思想』です。

――どれも傾向が違いますね。『漫画のすごい思想』では「ガロ」や「COM」でデビューした四方田さんと同世代の漫画家が取り上げられています。
四方田
 一九六八年前後に色んな漫画家がデビューしましたが、「COM」は一九七〇年代初めに無くなってしまいます。すると「COM」でデビューする機会を失ってしまった漫画家たちが七〇年代の終わりにエロ漫画家として登場してくる。村祖俊一や宮西計三といった漫画家です。彼らは本来なら「COM」でアヴァンギャルドな作品でデビューするはずだったけれど、一九七〇年代後半から八〇年代前半にかけて「漫画大快楽」「漫画エロジェニカ」「劇画アリス」といった雑誌で描く。こういった漫画家達がとても重要な存在です。「COM」でデビューした漫画家はあるジェネレーションを築いたけれど、彼らと同じくらい「COM」でデビューしそびれてしまった漫画家たちがすばらしい漫画を描いていたんです。

もう一つは、大衆食堂の定食のようなおもしろい漫画があります。例えばバロン吉元やビッグ錠といった漫画家たちです。漫画評論家と言われる人たちは論じないんです。私はバロン吉元の作品は白土三平に匹敵するくらいの大河漫画だと思います。ビッグ錠作品にしても非常におもしろいのに皆が無視をする。だから私はきちんと論じておきたいと思いました。自分の漫画体験を振り返ると、一生懸命読んでいたのは私の場合まず永井豪ですが、ずっと真剣に読んできたどの漫画家たちも無視して漫画体験は語れません。

――漫画がこれまで果たしてきた社会的役割や現状についてはどうお考えですか。

四方田
 漫画家が戦争から生きて帰った人たち、或いは満洲から生き延びた人だからです。水木しげる、赤塚不二夫、上田としこといった漫画家たちが次の世代に伝えようと思って、戦争や開拓といったテーマで漫画を描く。だから『日本の漫画への感謝』は戦争の問題、死の問題、生き残ったという問題がすごく多い。『漫画のすごい思想』は私と同じ世代の漫画家たちが当時の問題をどのように考えているのかに関心がいっています。その中には、強力な母親からいかに自分が抜け出して独立するかというテーマもあります。林静一の『赤とんぼ』や上村一夫の『同棲時代』にもそれは見られます。他にもジェンダー、テロリズム、今日的な現代思想の問題も出てきます。だから漫画は誠実に社会と文化の中でメッセージを出してきたということが全体的に言えると思いますよ。

日本の漫画も戦後七〇年の間に素晴らしい作品があるのに、まだまだ読めないものがたくさんあります。とは言え、私にとって非常に運が良かったのは、オンデマンドや電子版、それから各出版社からも六〇年代の漫画作品が復刊されていることです。ですから若い読者も読もうと思えば読める状況にあります。批評は、読者も同じテクストを見て追体験して、自分の考えと批評家の考えの違いを比較しなければ意味がない。私だけが珍しい本を持っていて見せびらかしている本にはしたくないので、テクストが読めるようになっていることが私にはよかったと思います。
今の漫画に感じるデカダンス


――『漫画のすごい思想』の巻末に収録された「漫画と文学」に「老齢化した文学と漫画が、新興の台頭者といかなる関係を取り結ぶのか」、或いは「漫画はいつ滅亡するのか」といった言葉が見られますが。
四方田
 演劇の時代に映画が出てきて、映画が斜陽になるとビデオが出てきたように、漫画だってこの後は形態が変わってきます。ただ人間は表象された物語からメッセージを受け取るし、表象された物語に何かを託したいという本質は変わらないはずです。杉浦茂的なものは作者を変えて伝わるし、手塚治虫のような物語の躍動は映画などでも再生産されていくでしょう。それは楽天的でもなく悲観的でもなく、その通りだと思います。

――現在の漫画についてはどうお考えですか。
四方田
 何人かは新刊が出たらかならず買う漫画家はいます。彼らについても機会があればきちんと書きたいとは思っています。でも、すごい漫画家を一人見つけるために十人のどうでもいい漫画を読まないといけない状況です。現在の多くの漫画は巨大な出版資本の中で読者層は細分化されています。サラリーマン、サラリーマン(独身)、サラリーマン(彼女なし)、中高年のサラリーマンというように細分化されて、それに見合った漫画がある。そういう漫画を読んだ時に、自分はこの漫画の読者として考えられていないと外側にいる気持ちになります。そういう意味で今の漫画にある種のデカダンスを感じています。ただ重要な漫画家は次々と登場しますから、今の時代の漫画家については今の評論家がやってくれればいい。私は私がこれまで読んできたけれど、既に忘れられた漫画家について紹介する役に徹していいのではないでしょうか。 (おわり)
以下のオンライン書店でご購入できます
2017年9月22日 新聞掲載(第3207号)
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漫画のすごい思想/潮出版社
漫画のすごい思想
著 者:四方田 犬彦
出版社:潮出版社
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