『源氏物語』(河出書房新社)上巻刊行を機に 訳者の角田光代氏に聞く|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 特集
2017年9月21日

『源氏物語』(河出書房新社)上巻刊行を機に
訳者の角田光代氏に聞く

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複雑な人間模様を全訳で俯瞰したい

 ――今回の現代語訳は、敬称や敬語などを省略したりすることでより読みやすくしつつ、草子地の文と呼ばれるような、本文の中にいわゆる語り手の言葉が突然入り込んでくるところなどはそのままに、文章の流れはかなり原典に倣った感じではないかと思うのですが。
角田
 たとえば町田康さんの『宇治拾遺物語』みたいにがらっと変えるかとか、いろいろどのあたりまで変えるかは最初はすごく悩んだんですけど、そんなに変えないほうがいいなと考えたんです。

――この訳では会話の部分が面白くて、かなり現代的な感じがしました。もちろん今の若い人たちが話しているような今どきの言葉だというわけではありませんが、話し方に現代的なリズムがとても感じられる気がしました。
角田
 特に気を使ったわけではないんです。ただこれまでの訳だと「そなたは」みたいなのがあって、ああいうのはちょっと嫌だなというのはありました。それだけでちょっと存在が遠のいてしまうので、「あなた」とか「君」というようにしたぐらいですね。

――でもそれが現代語で読んで違和感がないという感じなのかもしれません。会話の部分が特にすうっと流れるように読めました。
角田
 それは嬉しいですね。昔の現代語訳だと、誰の訳を読んでも人が人っぽくないじゃないですか(笑)。だから人っぽく感じられたらやっぱりいいなと思うんですよ。とは言っても『源氏物語』には本当にいろんな訳があって、ちゃんとしたものから読みやすいものまで揃っているので、どれを読んでもいいとは思うのですが、ただその一方で、やはり私自身どうしても手が出なかったとか、『方丈記』は好きだったけど『源氏物語』は特に読みたいとも思わなかったという経験があるので、そういう読もうとも思わない人が読んでくれたらいいなとは思います。

――読者層を絞っているわけではないとは思いますが、他の現代語訳などと比べると古典なんて難しくって読めないよと言うような若い層にもとても読みやすいのではないでしょうか。
角田
 おそらく源氏訳をやったほぼすべての人が、その時代の文化、習慣も伝えようと工夫されています。私はそこを全部カットしたんです。文化、慣習、装束のこととかをカットしたので、その意味で若い方向きというのもあるかと思います。

――文化などの部分をカットしたこととも繋がるかと思いますが、特徴的なことの一つに注釈を一切入れていないというのがあります。これは純粋に小説として読ませる工夫でもあるのでしょうが、なかなか大胆な工夫だなと思いました。
角田
 それもやっぱり、私自身が注釈があるとそれだけでつまずいてしまうということが大きいかもしれません。最初に何を書きたいかをちょっと引いて見た時に、まず全部の物語を書きたいと思ったんです。『源氏物語』は連作短篇としても読めるので、短篇として独り歩きしている物語も結構あるじゃないですか。私も初めはそのようなかたちでしか『源氏物語』を知らなかったし、それで成立するということはすごいことなんですけれども、たとえば『源氏物語』のダイジェスト版などを読むと、ここでこの人の子どもがこっちでこうなって、さらにまた同じ過ちを犯してしまう因果応報と言うんですか、やはり同じものを背負ってしまうのだというように、入り組んでいる関係がよく見えて興奮するぐらい面白いんですね。そういうふうに俯瞰した図を全訳で出せないか、テーマではなく、複雑な人間模様を俯瞰したいと思ったんです。極端な話、人間が動いている図だけが伝わってほしい。そうなるとやっぱり装束がどんなものだとかはどうでも良くなってくる(笑)。

――読者の知識を必要とするものをある程度カットしたことによって人間関係や人物像がよく見えてくるのかもしれませんね。たとえば着物や身分がどういったものであるといった細かい説明的な部分がカットされることで、かえって光源氏の相手となる女性たちの感情や立ち居振る舞いがよく見えてくる感じがしました。その意味でもこの角田版が、未読の読者にとっては『源氏物語』の最初の入口となりそうですね。
角田
 そう感じていただけたらすごく嬉しいです。たぶんそのあたりを表したいというのが頭のなかにあったんだと思います。実は私はこの入り組んだ関係図が読めないんですよ。この人はあの人の姪だとかいうのは言葉では分かるんですけど、図になると分からなくなってしまう。ただやっぱり関係が面白いじゃないですか。ここで出てきたこの人は、実はこうでこうなってみたいなのが分からないと面白くないところがありますよね。だから関係図を見なくても人間関係が思い出せるように、ほらあの時のあの人ですよみたいなのをちょっと思い出せるように出来ればいいなと思ったんです。朧月夜の姫君なども、源氏と姫の関係が面白いというよりも、朧月夜が光源氏を嫌う弘徽殿の妹で、そこに光君が乗り込んでいかざるをえないというその関係が面白いのであって、朧月夜がどの勢力の中にいるのかが分からないといまひとつ面白くないじゃないですか。自分も読みながら、というか訳しながら、ああ、ここはこうやって関係が入り組んでいるんだと分かってくるのが面白かった。
感情で描き分けられている女性たち

角田 光代氏
 ――今回の現代語訳の作業の中で、角田さんご自身は光源氏という人物についてどのような印象を持たれましたか。
角田
 私は最初『好色一代男』みたいな印象を持っていたんですけど、やっぱりぜんぜん違っていましたね。私は書きながら源氏の顔だけがないように思えましたし、人間性みたいなものもないように思えて、ある種狂言回し的な役割にしか思えなかったりもしました。あとはこの上巻まででの話ですが、私にとっては光源氏はイエス様みたいな感じなんですよ。このいてもいないみたいな感じってなんだろうと思ったら、神の子が近いかなと。信仰というわけではないのだけど、みんな彼を頼らざるをえない。彼を頼れば見返りがある。でも無い時もあって、だから信じれば報われるわけではないのだけれども、みんなが彼のことを信じているという意味で、神の子的な立場なのかなと。

――女性たちに関して角田さんが気になる人物はいますか。
角田
 特にはいないですが、ただ女性の描き分けがすごいとは思います。性格で描き分けるのではなく、感情で描き分けているのがすごい。訳を始める前の印象では、たぶん女は女で何者でもないのだろう、ただ来たものを迎え入れるしかないという話なんだろうと思っていたんです。でも実に細やかに感情で描き分けている。すごく負けず嫌いの人間がいたり、身分が低いからと卑屈になっている人間がいたりと、こうした感情の描き分けは書き手として面白いし興味深いです。

――以前角田さんは芳川泰久さんと『失われた時を求めて 全一冊』(新潮社)を共訳されていますが、その時と今回の違いは何かありましたか。
角田
 『源氏物語』は本当に分かるって思ってホッとしたんですよ(笑)。まず感情が分かる。ここで恥ずかしいんだとか気後れするんだとかということがよく分かる。

――それはやはり日本の文化的なものが当時から現代までどこかで繋がっているという感じでしょうか。
角田
 あると思います。考え方の背景に文化だったり習慣だったりが確実にあるなと思ったし、あともうひとつ、私たち日本人が言葉じゃないものをいかに共有しているかということにちょっとびっくりしました。たとえば「あはれ」という言葉を訳すとなると、「しみじみと胸に沁みる」としたりしますが、確かにそれが一番最適だとは思うけれど、絶対に現代の言葉でそのものは表せない。でも「あはれ」な感じの空というものがどういうことかは、たぶんみんな分かるんですよ。しみじみと見入ってしまうような空だなということはみんな共有している。それを言葉じゃなく感覚で共有しているというのはすごいことですよね。たぶんフランス語というのはそういう言語ではない。プルーストは本当に分からないんです(笑)。ただの一文が何を言っているか分からないし、他の人の訳を読んでもなおかつ分からない。それで分解して分解して次の日やっと分かるみたいな大変な仕事でした。小説の終わりの方で主人公が昔のことを思い出す場面で、二つの不安定な敷石に乗ってぐらぐらしている時に、あっ、て過去を思い出すじゃないですか。あれってたぶん『源氏物語』の感情や言葉だともっとスマートに説明できるんです。あんなに詳しく書かなくても、たぶん一行ぐらいでみんな、ああ、あの感じねって分かると思います。

――今月上巻が刊行され、来年の春には中、年末には下巻が刊行される予定ですが、読者に言っておきたいことはありますか。
角田
 当初の目的が物語を全部俯瞰した時にどう見えるのかというのがあるので、あんまり上巻だけで感想は言わないでという気はしています。下巻まで読んだ時に、みんなで「こんな話だったの!」と言いたいんです(笑)。

(了)
以下のオンライン書店でご購入できます
2017年9月22日 新聞掲載(第3207号)
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源氏物語 上/河出書房新社
源氏物語 上
著 者:角田 光代
出版社:河出書房新社
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