柄谷行人氏ロングインタビュー 「ルネサンス的」文学の系譜 『定本 柄谷行人文学論集』刊行を機に|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 特集
2017年9月25日

柄谷行人氏ロングインタビュー
「ルネサンス的」文学の系譜
『定本 柄谷行人文学論集』刊行を機に

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思想家の柄谷行人氏が、一月八日、岩波書店より『定本 柄谷行人文学論集』を上梓した。一九六〇年代末に文芸批評家としてデビューし、これまで数多くの文学評論を世に送り出してきた柄谷氏だが、近年では『世界史の構造』『哲学の起源』『帝国の構造』といった、主に思想・哲学の分野の仕事と向き合っている。
今回の論集では、ロレンス・ダレルの『アレクサンドリア・カルテット』を論じた修士論文にはじまり、文壇デビュー作「漱石試論――意識と自然」、発表当時大きな話題を呼んだ「意味という病――マクベス論」のほか、森鴎外、坂口安吾、武田泰淳、島尾敏雄、中上健次、二葉亭四迷らの文学作品・評論の読解を通じて、文学の可能性が語られている。
著者自身が精選した十二編の収録作品から、果たして何が見えてくるのか。刊行を機に、柄谷氏にお話しをうかがった。 (編集部)
※2016年2月5日号掲載内容です。

過去の文学評論を見渡す

 ――『定本 柄谷行人文学論集』(以下『論集』と略)は、岩波書店のホームページにアップされた「編集者からのメッセージ」によりますと、柄谷さんの「文学評論の「自選ベスト」」という位置づけの本となります。柄谷さんは十年程前に『定本 柄谷行人集』(全五巻)を刊行されています。こちらは主に思想系の著作を集められた自選集でした。今回は、十二本の論文が収録されています。刊行までの経緯と、多くの論文の中から十二本に絞った、選択の基準を最初にお聞かせいただけますか。
柄谷
 以前『定本 柄谷行人集』を出したのは、こういう事情があったのです。たとえば、『トランスクリティーク』は英語版と日本語版を出したのですが、日本語版は絶版にしたままでした。それで、加筆して、『定本』として出すことにしたのです。『隠喩としての建築』という本には、英語版があり、それは元の日本語版とはまるで違います。だから、元の版を絶版にし、英語版のもとになったものを改定して『定本』として刊行したのです。また、『日本近代文学の起源』も英語版があったのですが、その際に加筆した分に、あらためて、大幅に書き直しました。それを『定本』にして、もとの講談社文芸文庫版は『日本近代文学の起源 原本』という形で残しました。それ以外の二冊も、外国語で出すことを予定して、書き改めたのです。

今回の『定本文学論集』を企画したときにも、そのような意識がありました。僕の文学批評を外国語で出したいという依頼があった場合、ここに収録されたものを定本とする。僕の本の場合、タイトルだけ見ると、文芸批評だとわからないものが多いんです。『畏怖する人間』や『意味という病』にしても、これだけでは何の本かわからない。それならば、はっきりと文学論集と打ち出して、この一冊を読めば、僕の過去の文学評論を見渡すことができるような本を作ろうと、そんな気持ちで作った本です。だから、むしろ外国人用なんです。僕の過去の仕事を知らない、外国人に向けてまとめた。ただ僕にとっては、現在の若い人たちは外国人みたいなものですからね(笑)。僕の本を同時代的に読んできた人、あるいは遅ればせに読んできたような人たちは、既に知っているから、これまでの本でもいい。しかし今の人は、批評に人気があった時代なんて知らないと思うし、この機会に、一冊にまとめておこうと思いました。

選んだ基準についていうと、特に「ベスト」を選んだというわけではありません。この本は二部からなっています。第一部が一九六〇年代後半から七〇年代中盤まで、第二部が八五年から二〇〇五年までで、真ん中の時期は省いています。第一部は、僕が若かった頃、そして、文学批評が盛んであった時期に書いた文学論です。第二部は、批評が衰退していく時期、僕自身が文学評論に熱意をもたなくなった時期に書いた批評です。そう言うと、まるで対照的に見えますが、案外そうでもない。第一部の冒頭に、「『アレクサンドリア・カルテット』の弁証法」を置いたのは、第一部と第二部が繋がるように考えたからですね。この論文は、最後に収録した「文学の衰滅」と繋がる。つまり、第一部の冒頭ですでに「近代文学の終り」が暗に語られていると言ってもいい。このダレル論は、『思想はいかに可能か(『初期論文集』を改題)』(インスクリプト)に入ってますが、読んだ人は少ないでしょう。

――第一部は、今触れられた「『アレクサンドリア・カルテット』の弁証法」につづいて、群像新人賞受賞作「漱石試論」(一九六九年発表)が収められています。そこから約五年間、数多くの批評・論文を書かれています。「著作年譜」によると、この間におよそ六十本の批評があります(哲学・思想系の論文も含む)。その中から六本を選ばれる際に、かなり悩まれましたか。
柄谷
 確かに、その時期にたくさんの文章を書いていますが、書評とか多くは短いものです。今回は主に長目の評論を選んだので、選ぶのには迷わなかったですね。

――デビュー作や、当時非常に注目された「意味という病――マクベス論」であったり、ご自身のお仕事の中でエポックとなった評論を選ばれたということでしょうか。
柄谷
 そうですね。
――『初期論文集』(二〇〇二年)を刊行されたとき、あとがきに次のような言葉を記されています。「これらのテクストは私にとって遠い過去でありすぎる。中にはほとんど覚えていないものもあった。読んでみると、幼稚な考え方や言葉遣いが多くて閉口した。他方で、近年において自分が考えていることにむしろ近いところが少なからずあって、驚きもした」。今回は過去の文章に対峙されて、いかがでしたか。
柄谷
 『初期論文集』に入っているものは、文学批評的なものではなかったと思うんですよ。「『アレクサンドリア・カルテット』の弁証法」にしても、日本の文壇とは関係がなかった。新人賞受賞後、僕は狭い意味での文芸批評をはじめたので、それまでに書いたものを本にする機会がなかったのです。『初期論文集』にはそうした哲学・思想的な文章が収められた。これは二〇〇〇年に「批評空間社」を作ったあと、出す本がないので、むりに作った本です。そのとき、久しぶりに読んでみて、自分では忘れていたけれど、昔考えていたことに案外近い、と感じたのではないか、と思います。今回の場合、ほとんどがすでに本になっているし、こんなものだったかなあという感慨を持つぐらいです。読んでぞっとする所も多々ありましたけど(笑)。

――『初期論文集』のときにも「誤字誤植その他は修正されているとしても、加筆はまったくない」とおっしゃっていました。その点は、今回も同じだと考えてよろしいでしょうか。
柄谷
 そうです。たとえば理論あるいは哲学的な文章については、加筆・改稿します。哲学や科学は、間違いもわかるし訂正できます。『トランスクリティーク』の場合がそうですね。何度も加筆しているし、先ほど言ったように、その最終版が『定本』に収録されています。しかし文学的なものについては、加筆はやりようがない。たとえ今から見て同意できない認識があったとしても、それがまた意味があるのではないかと思うんですよ。今の視点で、部分的に直すのはよくないし、あれはあれで仕方がないという気持ちがあります。そこが批評と哲学、理論との違いではないかな。
一九九九年、文学との決別

――一部と二部と厚みを比べてみると、同じ六本の論文ではありますが、第一部が四分の三、第二部が四分の一です。序文において「私が実質的に批評家として活動したのは、一九七三年までである」とおっしゃっています。この五年弱の期間と、第二部に収められた時期、ふたつの時期を比べてみると、頁数の厚み以上に、「後半」は文学との距離が開いてしまったという意識は、お持ちだったのでしょうか。
柄谷
 それはあります。ただ、第二部の時期は文学との距離が開いたとはいえ、やはり文学の場所にはいたんですよ。新人賞選考の場にずっといたわけだから。たとえば、昔の文学作品を対象として書く場合には、あまり批評という感じがしないんですね。何を書いてもいいのですが、どこかで現代文学の前線と接触していないと、批評家という感じがしない。その意味で、僕が批評をやめたのは、一九九九年の十二月です。もう今年で、というか、ちょうど二〇世紀の終りにやめようと思ったのです。それまで十年以上やっていた、群像新人文学賞と野間新人文学賞の選考委員をやめました。新人賞という文学の現場に、六十歳近くまでいたのだから、もうやめてもいいんじゃないかと思った。だから、二一世紀に入るまでは、いちおう現代文学との接点があったと思います。以来、どんな意味でも接点がない。
――第一部の時期(一九七五年まで)と第二部の時期(一九八五年から)、このあいだの十年間に関しておうかがいします。ある意味で、柄谷さんにとっては転換期であったかと思いますが、代表作とも言える著作を多く刊行されています。『マルクスその可能性の中心』(一九七八年)、『日本近代文学の起源』(一九八〇年)、『隠喩としての建築』(一九八三年)、『批評とポストモダン』(一九八五年)、『内省と遡行』(同)。今から振り返ってこの十年間は、柄谷さんにとってどのような時期だったのでしょうか。
柄谷
 簡単に言えば、文学と理論のあいだぐらいで仕事をしていた。どちらにも読めるけれども、それまで自分がやっていた文学批評とは違う。一九九二年に『探究Ⅲ』の連載をはじめたぐらいからは本格的な哲学論になりますから、中間で模索していたという感じですね。だからあまり批評として目に付くような仕事がない。『日本近代文学の起源』を書きましたけど、それ以外には、ちゃんとした文学評論は書いていません。
一九七四年のマルクス

――この十年間でエポックとなるお仕事として、東京新聞の「文芸時評」の連載(一九七七年三月~七八年十一月)があるのではないでしょうか。これは後に『反文学論』としてまとめられます。その時評を担当されていた時期を振り返り、『日本近代文学の起源』の「著者から読者へ」の中で、「一九七〇年代の半ばに、大きな転換点」があり、「文芸時評をはじめた時、そこに近代文学が決定的に変容する光景を見いだした」と書かれています。時評という場で、まさに現代作家の文学と向き合った。それが柄谷さんにとっては大きい経験だったと言えるのでしょうか。
柄谷
 別にそうは思いません。そもそも付き合いでやったという感じだったから(笑)。また、あれが本になるとも思っていなかった。それに、御大層なタイトルを付けてしまったので、今でも誤解を生むのでしょうね。たとえば、少し前に、版元の講談社を通して、中国の出版社がこれを出版したいと言ってきました。僕は断って欲しいと言いました。先方が『日本近代文学の起源』を読んで、それと同じようなものを想像して、内容を知らずに声をかけてきたと思ったからです。実際、その通りでした。ただ、ある意味では、あの本は日本の文学批評のあり方を一番表わしているのかも知れない、とは思います。新聞の文芸時評なんていう制度は、他国にない日本独自のものですからね。ただ、今はかつてのような文芸時評はなくなってしまっているし、あったとしても大幅に縮小されていますから、『反文学論』は現在の文芸時評とは違うものです。

――最近刊行された『ゲンロン1』に、「昭和批評の諸問題1975―1989」という座談会が収録されています。ここでは日本の批評の歴史において、一九七五年がひとつの切断線に規定されており、批評家の大澤聡さんが、柄谷さんにとっても、批評家として「転回」を試みる年だったのではないかと指摘しています。イェール大学で日本文学の講義をはじめ、それが『日本近代文学の起源』につながる。一方で『意味という病』を刊行し、「マルクスその可能性の中心」の連載が完結した直後でもあった。ご自身で振り返られていかがですか。やはり一九七五年という年が分水嶺になったとお考えでしょうか。
柄谷
 あえて言えば、一九七三年がそうでしょうね。それは一方で、六〇年代の新左翼運動が崩壊したころであり、他方で、世界資本主義の危機の兆しが見えてきたころです。いずれも、その後にもっと本格的なかたちで起こったために、忘れられていますが。たとえば、一九八九年にベルリンの壁が崩壊し、翌九〇年にかけてソ連は崩壊の過程を辿り、最終的に九二年に解体する。あの頃「社会主義が終った」とか「大きな物語は終った」とか、いう議論がなされた。しかし、実は、一九七二、三年ぐらいに、そういう議論が盛んにあったのです。僕が「意味という病」を書き、また、マルクスについて書き始めたのは、そのような状況においてです。

あのころは、フランスでは元マオイストで、マルクス主義は終ったと唱えるヌーヴォー・フィロゾフが出てきたし、日本でも「マルクス葬送派」と称する元全共闘系の人たちがいた。そのような時期だからこそ、僕は「マルクスその可能性の中心」(一九七四年)を書いたのです。僕にとって、「マルクス主義は終った」という合唱を聞いたのは、初めてではありません。安保闘争のあと、一九六一年にそういう風潮があった。僕はむしろそのころから、本気でマルクスを読むようになったのです。そういう経験があったから、七三年ごろ、「マルクス主義は終った」というような風潮の中で、あらためて、マルクスを論じたのです。マルクスが流行っていた時代に書いたのではない。

現在では、こういうわずかの年月の違いを言っても仕方がありませんが、わずかの違いが大きいのです。たとえば、僕が全共闘世代の人間だと勘違いしている人もいます。一方、六〇年代末の全共闘世代の人たちでも、僕が一九六〇年に何をやっていたかを知らない。しかし、その辺のことは、小林敏明氏が『柄谷行人論』(筑摩書房、二〇一五年)で書いているから、僕のほうからいう必要はないと思いますけど。

――そうすると、七四年に「マルクスその可能性の中心」の連載をはじめられた時は、驚きを持って受け止められたということですか。
柄谷
 そうかも知れませんが、さほど反応があったという記憶がありません。文芸誌に載ったものですから。ただ、文芸誌の歴史では、異例のものだったと思います。それまで、文芸誌はそういうものを載せなかったから。もちろん戦後文学の人たちの中で、マルクス主義文学論のようなものを書いていた人はいました。しかし、マルクスそのものについては書かない。僕にとって、マルクスについて書くというのは、『資本論』について書くことです。それ以外には意味がないと、はじめから思っていました。その気持ちは今とまったく変わりません。当時は、廣松渉をはじめ、哲学の側からマルクスを研究している学者はいましたが、彼らは僕の目から見ると、経済学をやっていない。彼らは『資本論』全巻をきちんと読んでいなかったと思います。これは哲学から考えてもわからない。やはり経済学のレベルでやらないと駄目なんです。

たとえば、一般に、『資本論』というと、それは経済的な領域を扱うものだと思われる。しかし、実は、『資本論』が扱うのは、信用の世界です。資本主義は信用の世界において成立するものです。「信用=信仰」と言ってもいい。経済というのは極めて観念的な世界です。だから恐慌も避けられないのです。僕は学生の頃から、資本主義の世界は信用・観念の世界であるからこそ面白い、と思っていました。しかし、経済学者たちは別にそれを面白いとは思っていない。哲学者も同様です。そういうことを面白いと思い、且つ書けるのは、文学批評だけです。だから、僕はそれを文学批評として書いたのです。それはマルクス主義文学論のようなものではまったくない。
「ルネサンス的」作家

――具体的に細かい内容に入っていきたいんですが、東大経済学部を卒業後、柄谷さんは英文学の修士課程に進まれます。最初に少し触れられましたが、その修士論文が巻頭に置かれている。これは『すばる』2月号のインタビューで高澤秀次さんも指摘されていますが、「学者というよりも批評家の論文のようなスタイル」なのではないでしょうか。いわゆる修士論文であれば一定の形式があり、はじめに「要旨」が述べられ、「1」「2」「3」「4」そして「結論」とつづいていくオーソドックスな書き方があります。それとは随分違う印象を受けます。この時には、既に「批評」というスタイルを強く意識されていたのでしょうか。
柄谷
 そうですね。それとダレルという作家は、修士論文にふさわしい対象ではないんですよ。当時は「Ph.D.」の制度が整っていなかったので、修士論文が、今で言う「Ph.D.」に相当します。そうすると日本で学者になろうとすれば、修士論文ですべて判断されますから、それ以後も研究対象とするような古典的な作家を選ぶはずなんです。僕もアメリカ文学研究者になろうと思えば、たとえばフォークナーをやっていたと思います。英文学者になろうとしたら、シェークスピアをやったでしょう。研究者としての王道があるわけです。しかし僕はダレルを選んだ。ということは、もう学者になる気はないということです(笑)。

――前後しますが、六七年三月に修士論文を提出される前年、「思想はいかに可能か」で東大五月祭賞の評論部門の佳作に選ばれます。また六七年も「新しい哲学」が再び同賞の佳作に選ばれる。当時から既に「批評」というものを意識して書かれていたということですが、そもそも柄谷さんが「批評家」という仕事を生業としていこうと決意されたのは、いつ頃のことなのでしょうか。
柄谷
 職業になるかどうかはわからなかったけれど、批評を書いていくことは、大学を卒業する時点で思っていました。修士課程を終えて、語学教師になりました。別にそのために大学院に行ったわけではなかったのですが、結果的にそうなった。当時は、大学の語学教師をやりながら、ものを書いている人が多かった。語学教師というのは、ある意味で、物書き志望者を経済的に支えていたんじゃないですか。批評では生活できませんからね。小林秀雄にしろ、平野謙にしろ、あるいは作家の小島信夫だって教師をやっていた。皆、そういうことは内緒にしていました。肩書きに大学教授などと書くと、三流の批評家だと思われるからね(笑)。

――では、五月祭賞に応募される時点では、もう批評を書いていくと決意されていたということですね。
柄谷
 そうです。その頃は、そう考えていました。
評を書いていくと決意されていたということですね。
柄谷
 そうです。その頃は、そう考えていました。
「批評」を志した時

――二番目に収録された論文、群像新人賞受賞作「漱石試論――意識と自然」についておうかがいします。柄谷さんは、受賞の言葉で次のように述べられています。「おそらく漱石が安定した学者としての地位を放擲して、一介の小説家に転じることを決意したとき、こういう<自然過程>に対して、<意識>の痕跡をわずかでも刻みのこさずにおくものか、という心境だったのではないだろうか。私の、ものを書きたいという衝迫もまた、こういう鬱然たる忿りとひそやかな希いに発している、といっていいかもしれない」。タイトルと受賞の言葉にある「自然」という言葉は、三作目に収録された「意味という病」でも重要なキーワードとして語られます。たとえば次のようなくだりです。「シェークスピアは『マクベス』において、精神を「自然」として見ることを最も徹底して貫いたように思われる」。あるいは「マクベス夫人には自然性がうしなわれていた」。また四作目の森鴎外論も、タイトルは「歴史と自然」と付けられており、常に「自然」というテーマが表われてきています。この時期の柄谷さんの中で、常に意識される概念だったと考えてもよろしいのでしょうか。
柄谷
 一八世紀の西洋では、「自然」という言葉で、さまざまな意味のことを言おうとしたんですね。僕もそれに従ったのです。今なら、別の言葉で言うでしょうが。

――同じ受賞の言葉で、「『道草』というような作品がはじめて私の内部に共鳴したのは、この時期(「漱石試論」執筆当時――編集部注)であり、漱石が私なりにわかりかけてきたのも、この時期だった」とおっしゃっています。
柄谷
 それは嘘でしょう(笑)。最初に書いた漱石論は、冒頭にも書いてあるけれど、漱石の小説、特に長編小説の主人公が、小説の構造から言えば、やるべきことがあったのにやらないで、途中で逸脱していく。そうしたねじれ、構造的亀裂について論じたものです。たとえば『門』がそのひとつの例です。主人公の宗助はいろいろ問題があったはずなのに、すべてを放り出して参禅してしまう。そういうところが、漱石のどの長編においても当てはまるのです。『こころ』の先生も、一人で自殺してしまう。そのような共通性に気づいて、それが何なのか考えるようになった。そういう意味で、「わかりかけてきた」と言っているんでしょうかね。

その頃の漱石の長編小説への批評では、江藤淳の『夏目漱石』が典型的ですが、主人公の振る舞いを、「他者からの遁走」と言って批判していました。しかし、「他者」と言っても、「他なるもの」は様々です。たとえば、『門』の主人公は、ある意味では、「他なるもの」に向かったのです。それが妻のような他者を無視することになるとしても。しかし、それによって、漱石の小説が破綻していると言うことはできません。それで、僕はエリオットの『ハムレット』論を引用したのです。

エリオットはシェークスピアの『ハムレット』は、「客観的相関物」が欠けているから失敗作だと言っている。たとえばハムレットは復讐しなければいけないのに、変なことを考え始めて、復讐の課題をめちゃくちゃにしてしまう。しかし、そこが『ハムレット』のおもしろいところです。たんに復讐を実行するのであれば、よくある復讐劇、勧善懲悪の道徳劇です。それが『ハムレット』では、とんでもない方向にずれていった。しかもシェークスピアは、おもしろくしようと思ってそうしたのではない。そこはシェークスピア自身の感受性から出てきたんだと思います。同じような問題が漱石の小説にもあるのではないかと、僕は考えた。漱石の長編小説は、根本的には『虞美人草』のような道徳劇なのですが、それがいつも壊れてしまう。道徳的な次元と存在論的な次元の亀裂がそこに露出する。

それ以後も漱石については沢山書きました。観点は大分変っていますが、基本的に、最初に抱いた関心の延長です。たとえば、漱石に関して、「ルネサンス的」という見方をするようになった。それはバフチンの影響です。しかし、最初の「漱石試論」でも、「ルネサンス的」なものを見ていたと思います。“ルネサンス”は、極めて近代的な面をもつと同時に、あくまで前近代的です。つまり、それは前近代と近代のあいだの亀裂においてある。『ハムレット』もそうです。中世的でありつつ、極めて近代的に見える。ある意味で、前衛的に見えるけれども、古めかしいものでもある。『虞美人草』に始まる漱石の長編小説も同様です。その意味で、漱石は「ルネサンス的」な作家だと思います。そして、今回の「文学論集」をまとめたときに気づいたのは、漱石だけではなく、これまで自分が好んで対象に選んできた作家たちが、総じて名付けるとすれば「ルネサンス的」であったということですね。
寺山修司と六○年代演劇

――「ルネサンス的」文学の系譜として今回の『論集』で取り上げられているのが、森鴎外、坂口安吾、武田泰淳、中上健次といった作家たちです。序文では、彼らのことを次のように評されています。「近代小説の構えを根本的に脱構築した」(森鴎外)。「尋常な小説家ではなかった」(坂口安吾)。「異色の小説家」(武田泰淳)。「普通の近代小説家ではなかった」(中上健次)。いわば逸脱していくような何かを秘めた作家たち、こうした人たちが「ルネサンス的」な文学を担っていたと考えてもよろしいのでしょうか。
柄谷
 そうですね。

――柄谷さんがデビューされた時には、まだ文壇が存在し、影響力を持った文学者が大勢いたかと思います。たとえば小林秀雄さんは、当時どのような存在だったのでしょうか。
柄谷
 文芸誌には書いていましたが、同時代の小説にはほとんど言及しなくなっていましたからね。『本居宣長』の連載を『新潮』につづけていて、その前にはベルグソン論『感想』も書いていたから、そういう意味では存在していたと思います。

――実際にお会いしたことは?
柄谷
 一度もないです。よく編集者に会うようにと言われましたが、その機会がなかったですね。

――デビュー当時のことで、高澤さんのインタビューに答えて、興味深い発言をされています。「寺山修司と気が合った」と。寺山さんとの関係について、もう少し詳しくお聞かせいただけますか。
柄谷
 寺山修司とは個人的な交際はあまりないのですが、仲はよかったですね。対談(「ツリーと構成力」一九八〇年三月)もしているし、話は結構通じました。接点もなかったのに、彼が僕のことをよくわかっていたのは、驚きだった。これは後で気付いたことだけれど、同年代で話が通じた人は皆、演劇の人です。小説家にはいないし、批評家にもいない。自分とほぼ同年代の人たちは、なぜか小説ではなく、演劇に向かった。これはむしろ、珍しい現象なんじゃないかと思います。たとえば一九六〇年の安保闘争のあと、そこから小説家は出ていない。それ以前の政治闘争は、小説家を大勢作りだしていました。ところが、安保闘争はむしろ劇作家を作りだした。そういう面から見ると、安保闘争には、何か画期的な要素があったのではないかと思います。そして、それはどこよりも、演劇において出てきたのではないか、と。実際、日本の演劇は、六〇年代から急激に新しい展開を見せはじめた。それはまた、古いものを取り返した。唐十郎はテント小屋の「芝居」を取りかえしたし、鈴木忠志は能舞台を取りかえした。そのようにして、彼らは新たな演劇空間を作り出した。だから、六〇年以後の演劇の人たちが、僕にとって一番記憶に残る同世代人ですね。

――三作目に置かれた「意味という病――マクベス論」ですが、これは当時かなり評判になった評論だとうかがっております。この評論を書くきっかけになったのが連合赤軍事件だったと、後になって明かされています。そうした現実の事件と文芸批評を重ね合わせて書くというのは、この頃からよく試みられていたのでしょうか。
柄谷
 批評というのは、いつもそういうものなんじゃないですか。むろん、僕は連合赤軍の事件にはまったく言及しなかったのですが。ただ、あの評論に対しては、予想外の反応がありましたね。そのひとりが坂東玉三郎です。対談を申し込まれたことがあります。彼はマクベス夫人を演じていますから。また、新劇の評論家尾崎宏次から激賞されたし、他方で、福田恆存からも褒められた。彼はシェークスピア全集を翻訳した人だから、うれしかったですよ。関井光男(故人)さんから聞いたことだけれど、小林秀雄もあれを褒めていたそうです。

――「意味という病」に、次のような一節があります。「しかし、最も重要なことは、シェークスピアはその種の考えを展開しようとしたのではなく、たとえばマクベスのような人間を舞台の上に歩かせてみたかったのだということである。シェークスピアは消えて、マクベスが生きはじめるのはこのときである。そして、われわれはこうして生きはじめたこの男について語らずに、何をシェークスピアについて語ることができるだろうか」。久しぶりに読み返してみると、畳み掛けるような言葉の連続がとても心地よく感じられ、「柄谷節」なるものがここで既に表われている印象を受けました。
柄谷
 その辺りは、むしろ小林秀雄風ですね(笑)。今では恥ずかしくて書けないよ。今聞いていて、小林秀雄はそこを読んで褒めたんじゃないかと思いました。
坂口安吾と二葉亭四迷

――次の「歴史と自然――森鴎外論」について、鴎外は当時批評の対象としてはポピュラーだったのでしょうか。
柄谷
 そうではなかったと思います。鴎外はどちらかと言うと、保守的な人がやっていたので、僕のようにマルクスについて論じているような者が肯定的に論じたのは、はじめてだったと思います。実際、その中でマルクスを結構引用していますが、森鴎外とマルクスを並べて論じた人はいなかった。鴎外については、マルクス主義者は一般に嫌ってきたと思います。中野重治だけがちょっと違いますが、鴎外を新しい観点で読む人はいなかった。あの頃はヌーボーロマン(アンチロマン)が流行っていたけれど、鴎外の歴史小説こそアンチロマンなんじゃないかと、僕は思ったんです。つまり、ロマンというか、物語になってしまうことを、徹底的に斥けている。鴎外は日本における近代文学の始祖の一人でしたが、同時に、それを脱構築する最初の人でもあった。稀有な作家だと思いますね。

――一部と二部、両方で取り上げられている作家が、漱石と坂口安吾です。漱石と同様に、安吾に関しては、柄谷さんは繰り返し評論を書かれています。柄谷さんにとって、なぜ坂口安吾が「特別」な存在であるとお考えでしょうか。
柄谷
 坂口安吾のメインの仕事というのは、すべて一六世紀の日本に関するものです。彼はまさに日本の「ルネサンス的」時代について考えようとした人だった。後に花田清輝が同じ時代について書きますが、これも安吾の影響であり、「ルネサンス的」ということを、戦前から安吾を通して考えるようになったんだと思います。一方で、フランス文学者の渡辺一夫が、フランス・ルネサンス期のラブレーをやっている。「ルネサンス的」という点から考えると、いろんな繋がりが出てきます。戦前に左翼が弾圧された時期に、そこに可能性を見ようとした人たちがいたということです。ただ、ルネサンスというと、やはり、イタリアやフランスに限定されてしまう。そして、狭い感じになってしまう。

僕は、日本文学における「ルネサンス的」なものは、むしろ別の地域から来たと思うのです。先ず、イギリスです。それがシェークスピアですね。もっと後では、ジョナサン・スウィフトとローレンス・スターンです。これらを日本にもってきたのは誰か。漱石です。さらに、ロシアにも「ルネサンス的」作家がいました。ゴーゴリです。そしてゴーゴリの「『外套』の下から出てきた」と自称したドストエフスキー。彼らを日本にもってきたのは誰か。二葉亭四迷です。その意味で、漱石と二葉亭はルネサンスについて一言もいっていないが、誰よりもルネサンスにかかわる者です。
「ルネサンス的」という観点に立つと、普通の文学史においては、バラバラに存在していた作家たちが一斉に並んで見えて来ます。しかも、そこに、東西を区別する必要はありません。その点で、たとえば、中国の魯迅も「ルネサンス的」な作家だと言えます。魯迅は漱石のものも読んだでしょうが、特に柳田国男の影響を受けた。自分で郷里の昔話の採集をしています。だから、彼の小説は、近代小説家にはないような多様な要素を含んでいて、簡単には扱えない作家なんです。

二葉亭に関しては、「翻訳者の四迷」で書きました。このタイトルは、ベンヤミンの「翻訳者の使命」をもじったものです。これはもともと、翻訳を主題にしたアメリカの学会で発表したものです。日本の近代文学は、ある意味で、二葉亭四迷の翻訳によって創られたと言えます。その場合、二つのタイプの翻訳があった。すなわち、ゴーゴリの小説の翻訳とツルゲーネフの小説の翻訳です。ゴーゴリのものの翻訳文は、ある意味で二葉亭自身が書いた小説『浮雲』と類似する、戯作的文体です。しかし、どちらも影響力をもたなかった。本人も筆を折ってしまった。ところが、ツルゲーネフの翻訳は後世に大きな影響を与えたのです。日本近代文学は、まさに、二葉亭によるツルゲーネフの翻訳によって創られたと言っていい。国木田独歩がその典型です。
シェークスピアか源氏物語か

――主に小説家に関してうかがってきたのですが、批評家、たとえば江藤淳さんについては、いかがお考えでしょうか。群像新人賞受賞第一作が「江藤淳論――「天」の感覚」(『群像』一九六九年十一月号)でした。小林秀雄と並んで、柄谷さんにとって特別な書き手だったと思います。
柄谷
 江藤淳というのは、早熟者の一典型だと思いますね。二五歳ぐらいまでに書いたものは抜群に素晴らしい。しかし、以後は無残です。これほど優秀だった人が、どうしてかくも凡庸になっていくのかわからない。僕が影響を受けたのも、二五歳までの江藤淳です。僕が英文学の道に進もうと思ったのも、江藤の影響です。それと福田恆存ですね。学部から大学院に行こうとしたとき、最初は仏文科に行こうと思っていました。それを英文科に変えたことが、僕の中では大きかった。そのことを序文にも書きましたが、英文学へ移行することによって、自分にとっての新しい局面が生まれた気がします。

一九六〇年代では、批評をやろうと思うなら仏文科に行くべきで、哲学であれば、哲学科でドイツ哲学をやるべきでした。そうではなく、英文科に行った。このような転換は、後に大きな意味を持ったと思います。僕と他の現代思想をやっている人との違いは、その辺にあると思うのです。この移動は、マルクスがたどった移動と平行しているのではないか、と後で思いました。マルクスはドイツからフランスに亡命し、さらに、最後はイギリスに向かった。彼はシェークスピアをよく読んでいました。『資本論』はシェークスピアの引用だらけです(笑)。僕の場合は、ドイツの哲学・経済学とフランス文学から、英文学に転換した。その証拠をいくつか残そうと思って、今回の『論集』には、ダレルについての修士論文と「マクベス論」を入れたのです。

たとえば、僕は一九七四年に連載した「マルクスその可能性の中心」では、マルクスの批評性を、言説空間における移動に見いだしています。普通、それは、初期の疎外論から史的唯物論への理論的発展として論じられます。しかし、僕はそれを、ドイツ的言説空間から、フランス、そして、イギリスの言説空間の移動において見たのです。そうした移動の度に、マルクスの認識も変わった。それは理論的発展というよりも、空間的移動あるいは差異の認識がもたらしたものだと思います。それは、僕に言わせれば、批評です。僕はそのことを一九七四年に書いた。あのマルクス論は、だから、批評という観点がないと出てこなかったと思います。それは、哲学的批判とはまた別の種類のものです。今自分のやっていることは、文学とは遠いものになってしまったけれども、根本的には、そうした批評のスタンスは今もつづいていると思います。

――最後の質問になります。今回、柄谷さんと久しぶりに「文学」の話をすることができました。今後は文学とどのような向き合い方をされるのでしょうか。
柄谷
 文学の批評に関しては、かなり前から考えていることがあります。それは今の文学ではなく、古典に関して書いてみたいものがある、ということです。シカゴ大学にノーマ・フィールドという人がいます。最近は小林多喜二について書いたりしていますが、本来、源氏物語の研究者です。たまたま二年前、シカゴ大学に講演に行ったとき、彼女と話していてこう言ったのです。「近い将来、文学をやろうと思っている。ただ、シェークスピアをやるか源氏物語をやるか迷っている」。そのとき、彼女から、源氏物語をやってくれと言われました。それなら、手伝いますから、と言ってくれた。別のアメリカ人からは、シェークスピアをやってくれと言われたけど。言語的にはどちらも難しい。実は、源氏物語は原文を読むとよくわからない。誰が誰に向かって言っているのかがわからない。英語なら、少なくともそれはわかるからね。というわけで、両方やる気があるのですが、にわかにはできない。これから、少しずつ読んでおく必要があるなと、今は思っているところです。
2016年2月5日 新聞掲載(第3126号)
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