今も昔も変わらない? 憲法9条改正をめぐる議論|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人アーカイブス
2017年9月27日

今も昔も変わらない? 憲法9条改正をめぐる議論

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読書人アーカイブス第6弾は、安保闘争の時代1959年(昭和34年)に発行された記事をご紹介。
安保法案を強行採決した安倍晋三首相とそれに反発する一連のデモは、60年前に岸信介首相による新安保条約の調印とその後の安保闘争を彷彿とさせた。
以下は、当時の法学的な見解を高野雄一氏(当時の東京大学教授・国際法専攻)に伺ったものである。
※以下より週刊読書人1959年4月掲載内容です。


憲法九条拡大解釈への警鐘 砂川判決の含む問題点
東京地裁判決は正論 日本の政治目標との関連


砂川基地反対闘争にからむ被告七人に対して「米軍の駐留は違憲だ」との理由から無罪を言渡した三月三十日の東京地裁の判決は、憲法第九条に関する政府の解釈に対する”権威ある”異論でもあっただけに、各方面に大きな波紋を投げかけた。すでに戎能通考、金森徳次郎、大平苦俉、平野竜一氏などの意見が各紙に発表されたが、本誌では高野雄一(東京大学教授・国際法専攻)に法理的な問題を論じてもらった。

刑事特別法は違法

一 三月三十日の東京地裁判決は一昨年七月の砂川事件において基地不法侵入を問われた被告七人に無罪の判決を言渡した。その理由は、被告らを基地侵入の罪に問おうとする根拠の法律である刑事特別法が憲法違反で無効だということである。問題の刑事特別法第二条は「正当な理由がないのに、合衆国軍隊が使用する施設又は区域であって、入ることを禁じた場所に入り、又は要求を受けてその場所から退去しないものは、一年以下の懲役又は二千円いかの罰金もしくは科料に処する」といい、憲法第三十一条は「何人も法律の定めによる手続きによらなければ、その生命若しくは自由を奪われ、又はその他の刑罰を科せられない」という。
この刑事特別法の規定は「入ることを禁じた場所又は他人の田畑に正当な理由がなくて入った者」を「拘束又は科料」に処することを定めている一般刑事法規たる軽犯罪法(一条の三十二)に対する不当な差別立法で、上記の憲法三十一条に反する違憲立法であると断ずる。
政治的に注目を浴びた砂川事件の判決として、また従来の数十の判決がすべて上記の刑事特別法の違憲性を前提として下されていいるだけに、政治的にも法律的にも大きな反響をよぶものに違いない。
砂川(土門拳撮影)東京創元社版「現代日本写真集(2)」より

判決理由の法理的核心

二 東京地裁の判決のポイントはそれだけに止まらない。元来、上記の刑事特別法は日米安保条約に赴く行政協定に伴う立法たることが表題に明記されているが、地裁判決はこの立法の根拠にある日米安保条約、行政協定が憲法(第九条)違反であり、その国際条約としては効力は別として、国法上の効力は違憲として無効であると断ずる。

刑事特別法の規定が憲法にてらして無効だと判断されるなら、この二の判断は判決理由としては不用と思われる。二の判断は今度の判決の反芻の中心を為すものだがこの場合、それはつけたりの傍論ということになる。その場合に残るのは、条約実施のための立法の効力を裁判所、とくに下級審が審査しうるかという憲法八十一条にかんれんする問題だけである。

ところが、刑事特別法が憲法三十一条との関係で無効だということは、報道されている判決要旨からは、必ずしも説得的ではない。類似の事態をある種の場合について、より厳重に取締ることは、やはり「何人」についても適用されるのであって、それを差別立法として違憲だというのは理由として充分なものがない。その理由がその取締・処罰について、三十一条にいう充分な「手続」を定めている限りそれ以上に違憲を問題にする根拠は明らかにされていない。また国内の特定人(この場合、アメリカ軍隊)の法益を差別的に厚く保証するという意味であれば、外国の外交官や軍隊に一般国際法上認められるその地位の尊重ということとの対比が必要と思われる。

そこで、安保条約・行政協定の違憲論が法理的にも判決理由の核心と考えられる。事実、判決要旨は、憲法九条下で、安保条約の国内的効力は無効であり、アメリカ軍の存在そのものが違憲であり、従って刑事特別法は無効だといっている。
政府の基本政策を批判

三 かくして憲法九条が中心に大きく浮上ってくる。いうまでもなく、憲法九条はその頭初から政治的にも学理的にももっとも多く論ぜられ、しかも結論に帰一するところがなく、安定を欠いた条項である。そして、それがそのまま現在の日本の政治の不安定を意味しているといっても過言でない。そして、これまでも憲法九条の下で、安保条約を違法としてアメリカ軍の駐留を違憲とする学説がないわけでなく、そのような政治的主張もあった。しかし、それは学説の大勢ではなく、また政府の態度は一貫して、というよりも”漸増的に”その逆の立場を固めてきていた。最近の岸政府の動きには殊にそれが顕著になっていた。また従来の判決にその例がないことももちろんである。

そこに、この判決が出たことは、なお検討を要するものが多いとはいえ、異例の判決としての意義のほかに、学理的にはなお奥みの絶えないものを蔽いかかっていた蓋を勇敢に取り払い、政治的には憲法九条に関し固まりつつあるせいふの基本政策の動向に真正面から警鐘を放つ意味を持つだろう。現に、安保条約改定阻止運動がにわかに力を得ている。安保条約改定の論理に含まれる合理性自体は今日殆ど否定しえないのだが、その実現を支える政治、殊に憲法九条にからむ政治の基本的動向が、上記の”合理的な”安保条約改定に基本的な不安を伴わせる不幸な結果になっていることを思えば、この判決の及ぼす意味を軽視することは出来ないだろう
変貌する第九条の解釈

四 ところで、問題の憲法九条は、第一に「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使は国際紛争を解決する手段としては永久にこれを放棄する」といい、第二に「前項の目的を達するため陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」といっている。

当初の吉田内閣から鳩山内閣を経て現岸内閣に至るまでの間に、上記の憲法九条の解釈に関して、基本的に変ってきたのは次の二点である。即ち、第一に、九条は日本の自衛権放棄を意味しない(一項)が、戦争は一切放棄した(二項)というのが、侵略や戦争や武力行使は放棄した(一項)が、自衛のための戦争や武力行使はできる(二項)となり、第二に、軍隊及びそれに準ずる戦力(”戦力”なき自衛隊が限度)は日本は持ちえない(二項)というのが、侵略を可能とする軍隊、戦力はもてないが、自衛のためにならそれを限度として軍隊、戦力をもちうる(一、二項)となった。これは誠に基本的な変貌である。無から有が出、白が黒に変ずるような変り方である。かくして、警察予備隊は保安隊となり、自衛隊となり、その基本法による任務も次第に大ぴらになってきた。

しかし、法理的には、どうしても当初の解釈に帰結せざるを得ない。後の解釈は政策的要求に押されたのはもちろんであり、法理的にはどうにも無理な解釈である。それを退けようとしている点において判決要旨は正論というべきだ。
憲法の精神に沿う解釈

五 判決要旨は、しかし、そこに止まっていない。四の理解に従って日本がおちえないことになっている戦力は、日本のそればかりでなく、外国のそれを日本国内に持ちえないことを含むと断ずる。そして、安保条約により日本に中菱する米軍は、単なるジエイ以上の戦争能力をもちまたはそれに備えるものと判断している。

上記のポイントは、判決そうしはふれていないが、自衛の場合以外に武力の行使を禁ずる国連憲章にてらして安保条約の合理的な把握がなされなければならない(そうなれば、自衛隊を認める憲法九条とのそごはなくなる)という問題(この点を確実にすることが安保条約の改定を促す一要因になっている)に連なっているが、武力そのものについて、外国のものでもこれを国内におくことは許されないかということは、全く憲法九条の問題である。ところで、この点については四の場合よりも議論が割れるであろう。全文などに現れた憲法の精神と九条を結び付けて判決のような解釈は確かに理由のあることである。ただ、九条が日本は軍隊をもつまいという決意の具現化として設けられたことはまず確かであり、九条の規定もそれに沿っての理解を防げるものを含んでいない。

従って、この点で判決要旨は、四の場合よりも、より多くの精神論によりかかっている。画期的な判決を支える理由としては、法理的に、四の場合より、少し弱く物足らないと思う。ただ、九条の一つの解釈として確かに意味のあるものであり、日本の将来の政治目標に関連しては同情がもてるものだとはいうことができる。
条約と憲法の関係では

六 判決要旨は、国際法と国内法、条約と憲法の関係にふれてもいる。三権分立の下に国内法が立法府に掌握され、条約が多く立法府の協力を伴う行政府の掌中に於かれるようになったが、国内法を作る立法府の機能と条約締結に協力する立法府の機能は、実質的にもまた形式的にも必ずしも同一のものとはされていない。そこに、条約の国内的効力が条約そのものの効力と『別個に問題にされるようになったことの近代的意義があるわけで、判決も注意深くそこにふれている。ただ、司法権の作用として、国内法と条約の国内的効力とを可能な限り調和的に把握しようとする各国裁判所に通じてもられる司法の伝統にてらして、条約違憲の判断は法的にもう少し突詰て議論して貰いたかった。
筋の通らない自衛戦争

最後に、憲法九条と安保条約の問題に関して重要と思われる二点にふれておこう。それは、”戦争”は双方の国家が法的に平等者として特に禁止された以外のあらゆる実力手段をもって目的完遂のために争いうる方法であり状態である。その類比を国内に求めるなら、嘗ての決闘に近い。自衛は限られた手段を以て違法者に対して正当防衛者が実力的に争いうる方法、状態であり、それは国内の正当防衛に比べられる。つまり、二つは国と国との実力闘争(即ち”戦争”でなく戦闘)として等しく現象するとしても、質的には全く違う観念であること、”自衛戦争”ということは通俗的にはとにかく、法的に筋の一貫しない概念であること(つまり、自衛権があるからといって当然に戦争ができるとはいえず、戦争を放棄したからといって自衛権を否認したことにならない)がその一つ。
駐留軍は国連軍でない

次に、安保条約、及びそれに基づく駐留米軍は、国連の集団保障、及びその下で動く国連軍(警察軍)とは質的に別の、それが(拒否権などで)機能しない場合を補うため個別的又は集団的な加盟各国の自衛の制度として存在するものであること、従って、現状の安保条約及び駐留米軍を国連軍(警察軍)に準じて把えることは法的に成立しないこと(それを理由に、九条の”戦争”放棄の規定を、或は憲法の精神を、回避することは現状においてはできない)がその二である。
1959年4月6日 新聞掲載(第269号)
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