荒井晴彦・丸山昇一・西岡琢也・向井康介 日本映画を支えてきた脚本 「日本名作シナリオ選」(日本シナリオ作家協会編)刊行を機に|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 特集
2017年9月26日

荒井晴彦・丸山昇一・西岡琢也・向井康介
日本映画を支えてきた脚本
「日本名作シナリオ選」(日本シナリオ作家協会編)刊行を機に

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日本映画の全盛期を代表するシナリオ二一本を収録した『日本名作シナリオ選』上下が刊行された(日本シナリオ作家協会編)。
巻頭に同協会理事長を務める加藤正人氏が次の格言を引用している。「良い脚本から悪い映画が生まれることがあっても、悪い脚本から良い映画は生まれない」。
その意味では、ここに収められた脚本はすべて名作であり、ここから珠玉の映画が生まれた。
刊行を機に、荒井晴彦・丸山昇一・西岡琢也・向井康介氏に座談会を開いてもらった。(編集部)※2016年6月3日号掲載内容です。

ベストの一作は?

西岡
 『日本名作シナリオ選』(以下『名作選』と略)が編まれた経緯を、最初に話しておきます。本書の元になったのはかつてシナリオ作家協会が刊行した『日本シナリオ大系』(一二七篇収録・全六巻・一九七二年刊)なんですが、作協の事務局にも全巻揃いで所蔵されておらず、古本屋でも高値で売られている。元々の本自体、とても高価なものだったので、できるだけ手に入りやすい廉価版で出そうという話に理事会でなったわけです。まず元本から精選した二冊を刊行し、評判がよければパート2、パート3も出そうと。その際には『大系』に収録された作品以後の時代のものも入れては、との案も出た。そんな話をして『名作選』出版委員会を立ち上げたのが、一昨年のことです。坂田義和さんが委員長となり、会員にアンケートを取って、上位から収録作品を選んだ。僕個人の感想を言っておくとアンケートは参考程度にして、委員会がもう少し好き勝手に、独断で選べばよかったんじゃないかと思いました。いわゆるハンコを押した名作がずらっと並んでいる。そこがやや不満ですね。どっちみちすべての人が満足するセレクトなんてできないわけで、荒井さんのように必ず文句を付ける人がいる(笑)。だから一切周りの雑音や不平不満を気にせず、「こんなものも入ってるんだ」と、逆に驚かれるぐらいの脚本を選んでもらいたかったと思いました。
丸山
 この本には、独立プロ製作の作品も入っていますが、ほとんどは撮影所があった時代のものですよね。荒井さんや西岡さんや僕は、撮影所が機能しなくなり、人を育てなくなってしまった時代に映画界に入った。ましてや脚本家なんて常雇いできなくなっていた。そうではなく、古きよき撮影所時代の珠玉の脚本が、ここには入っている。個人的な体験に即して言うと、映画がやりたくて、六〇年代末に田舎から上京した時は、アメリカン・ニューシネマのブームがはじまった頃で、僕は完全にそれに毒されたわけです。逆に日本映画の定番は、セオリーがあって古臭くて、とにかく嫌だった。ニューシネマみたいに、ラストがハッピーエンドじゃなかったり、映画の運びも無茶苦茶だったり、ハリウッド映画を壊すような一面を持つ映画に惹かれたんですね。自分もそういう脚本を習作で書いて、プロとしてデビューしました。

でも何本かやっていくうちに、どこかで定番にしがみつかないとやっていけないことがわかってきたんです。それで慌てて昔のハリウッド映画や日本映画を勉強し直した。まだビデオが普及していない時代だから、脚本を読むしかなくて、『名作選』に載っているものはほとんど読みました。映画自体は学生時代に見ていて、あまりいいと思わなかった作品もあるんですが、自分がプロになって読んでみると、本当に多くを学ぶことができた。定石を踏まえたドラマの作り方や劇の運び方、起承転結のあり方、そうしたエッセンスが全部出ている。だから「どれかベストの一作は?」と聞かれると思ったけれど、ほぼすべての作品が面白いと、僕は言いたい。

もうひとつ。狭い話になってしまうけれど、今日集まった四人は映画の学校で、脚本の書き方を教えていますよね。学生と接していると、彼らは脚本を読んでいないんですよね。それでどうして映画の世界に進もうとするのか。映画を学ぶのに一番取っ掛かりやすいのは、脚本を読むことですよ。読みやすいし、感動があるし、下手な小説を読むよりよっぽど面白い。短い時間の中で読めて、読み切った感じを持てる。『名作選』のシナリオは、ほとんどがそうです。映像とセットで読むことを勧める人もいるし、それが理想だとは思いますが、名作と言われるものは、脚本だけ独立して読んでも面白い。映画の世界を目指す人はもちろん、一般の映画ファンにも是非読んで欲しい。日本映画にも、これほど豊饒なものがあったのか。『名作選』を通して、そのことがよくわかると思います。
荒井
 実は俺は、ここにある二一本のうち半分も読んでいないし、見てないんですよ。つまり好きな映画や好きな脚本家のシナリオは勉強したけれど、映画一般の名作は勉強してこなかった。そんな勉強をやってる奴等には、大したものは書けないだろうと思っていたから。あるシーンがあって、どうやって書くんだろうと悩んで、好きな映画の真似をしたり、そうやって勉強していっただけで、順序立てて学んだわけではない。だけどこういう脚本を前にすると、逆に勉強しなければいけないと思うよね。ただ、今の映画会社の人は、こんなものは読む必要はないと考えている人たちばかりじゃないかな。プロデューサーだって、こんなシナリオは書くなって言うと思う。結局、あるところで断絶があると思うんですよ。丸山が言ったように、先人たちがやってきた素晴らしい営為があり、それを若い人も勉強して欲しいという気持ちもわかるけど、この時代と今の映画は別物です。おそらく学生たちに、『名作選』の二一本の題名と脚本家の名前を見せても、知らないと思う。まったく関係ないところに自分たちはいる。そう思っているんじゃないか。
丸山
 若い脚本家志望の人が、これを読んでも仕方がないのかな。
西岡
 いや、丸山さんがさっき言った通りのことだと思いますよ。無手勝流ではじめて、ニューシネマ的な脚本を書きながら、はたと気がつくと、それだけでは頭打ちだとわかる。そこで改めてオーソドキシーを勉強する。最初は変化球で勝負していたピッチャーが、直球を覚える。変化球だけしか投げられなかったのが、直球を覚えたら変化球もさらによくなるみたいな感じがあると思う。だけど今は、直球を学ばない。変化球ばかりを使う。投げ方すら知らないのに、ボールを投げている。物事には基本があるわけですよ。だから今の丸山さんの話はよくわかる。若き日の丸山昇一は、ある日突然自己流の限界に気付き、シナリオの基本が何かを知ろうとした。今書いている若いプロの脚本家たちも、丸山さんみたいに発心して勉強を始めて欲しい。プロとして世に出て来る時には、いくら無茶苦茶をやってもいい。外連味のあるシナリオを書いて、デビューしてもいい。ただ、その後ずっと書きつづけていくためには、基本をしっかり学ばないといけない。
幽霊・ゾンビ・地球防衛軍

向井
 今日集まった中で僕は一番若くて、荒井さんが「断絶」という言い方をされたけれど、まだ僕の頃は、こういう選集に選ばれている作品とは地続きだったと思うんですね。たとえば映画を一本作ったり、脚本を一本書いたりすると、次はもっといいものを作りたくなる、書きたくなる。その時に、自分の好きな映画のシナリオがどう書かれているのか、必死になって勉強したんです。それで山内久さんの『豚と軍艦』も読んだ。シナリオって、意外と自由に書いていいんだなと思った記憶があります。僕は最初、大学の授業で中島貞夫先生に脚本の基礎を習ったんですが、その後は独学で、山内さんの脚本などを読みながら勉強していったところがあります。ただこれは二〇〇四年ぐらいからだと思いますが、自分の思っている日本映画とは違うものが出てくるようになった。いい意味でも悪い意味でも、どこかに「断絶」があるとも思います。だから今は、積極的に日本映画は見ないようにしているんです。自分は自分なりに考えながらやればいいかなと思うようになりました。『名作選』が届いて開いてみると、読んだこともない脚本も入っていて、いい勉強の機会になると思いましたね。台詞や時々の風俗に関しては、そのまま参考にはなりませんが、大きな構成は、古典ほどわかりやすいものはない。今よりも構成がかっちりしていますから、それをどうアレンジしていくのか。学ぶことは大きいと思います。
荒井
 俺も、西岡の意見はわかるんだ。基本があって、そこからはずれるものがある。でも、どうなのかなあ。ストライクゾーンが違ってきたのでは、と思ってしまう。それ暴投でしょと。
西岡
 今、大阪芸大で教えている学生たちがそうですよ。脚本の企画を考えさせると、下手なSFもどきのプロットを出して来る。だから僕は最初に禁止事項を設けるんです。近未来とか未来は駄目、舞台は現在か過去に限る。そうでもしないと、「地球防衛軍」の話ばかり書いてこようとするから。どんな異星人とどんな武器で戦うとか、いわゆる手口だけの話になってしまう。まず人間の感情の揺れ動きを描け、それがシナリオの基本だからと言う。お前ら、別に地球は守らんでいいからと、いつも言っています。
荒井
 今の学生を見ていると、こういう昔の脚本を勉強しろと言っても、物語に入っていけないんじゃないかと思うんだよ。たとえば『Wの悲劇』を見せて驚いたんだけど、「アヒルに話しかけるなんて、あり得ません」とか言われる。だけど彼らが書いてくるのは、ゾンビとか幽霊の話なんだ。逆に「ゾンビや幽霊はいると思うのか」と聞くと、「僕的にはいると思います」と(笑)。
向井
 今は映画とテレビドラマだけじゃなくて、ゲームやアニメもありますからね。そうした映像表現の中の手段のひとつとして映画があって、すべてが同列に考えられているから、そういう人たちが出て来ても不思議ではないですよね。
荒井
 若い連中の悪口ばかり言って申し訳ないけど、去年の湯布院映画祭で、こんなことがあったらしい。山下敦弘の『もらとりあむタマ子』が上映されて、あれは父と娘の話だから、お客が山下に小津安二郎の『麦秋』について質問した。山下は「見てません」と言った。それこそあり得ないと思うんだけれど、そういうことについて、向井はどう思うの。
向井
 父と娘の話であれば、小津作品だけじゃなくてもありますよね。小津の映画と似たように描いているアメリカ映画もあるでしょうし、山下くんはアメリカ映画、ニューシネマから学んでいると思いますね。
丸山
 山下さんや向井さんにとっては、ニューシネマが学ぶべき古典になるのかな。
向井
 あの手法も今や古典になりつつあると思います。
荒井
 ニューシネマやロマンポルノが古典になるわけだよね。
向井
 そうですね。
西岡
 丸山さんの話と被りますが、僕も二十歳前後の頃、ニューシネマをよく見ていたんですよ。権威に対する反乱・破壊だったりするから、わくわくどきどきしながら見ていた。荒井さんたちみたいに学園紛争は経験していないけど、やっぱり若いから見ていて血がたぎるものがある。でも、ある時、そればかり見ていて物足りなくなって、たとえばMGMのミュージカルとか、ジョン・フォードの西部劇とか、映画という表現が最初の成熟を迎えた一九四〇年代から五〇年代のアメリカ映画を見始めたわけです。そうすると、骨格のはっきりした映画の方が面白くなってきて、所詮ニューシネマはカウンター・カルチャーだと冷めて考えるようになりましたね。
『東京物語』と『少年』

向井
 僕も同じような変遷を辿っています。『赫い髪の女』や『探偵物語』『TATTOO〈刺青〉あり』を学生の頃に後追いで見て、自分にはニューシネマっぽく見えたんですよ。こういうシナリオを書かなければいけない、何か変なことをしないといけないと思って、そうした作品を参考にしながら脚本を書いていたんです。
西岡
 『TATTOO〈刺青〉あり』は、特に変なことはしてない。オーソドックスな脚本だと思うけど。
向井
 ブロックバスター世代の僕には、オーソドックスには見えなかった。
荒井
 あれは、変なことをやっているのは主人公であって、西岡は決して変な書き方はしていない。監督か脚本家か、どちらのアイデアかはわからないけれど、銀行強盗に入るところで終える。そこが決定的で、西岡は『TATTOO〈刺青〉あり』で、自分が今まで見てきたニューシネマ的なものを引っくり返したわけだ。つまりニューシネマは逆でしょ。破滅をやって終わる。それを、その前でストップさせるのが、あの映画における西岡の新しさだった。
向井
 ただ僕は、そういう作品を全身で浴びた後、起承転結のあるものに段々戻っていくんですよね。伏線や綾をつけて、キャラクターを立たせるとか、日本映画の古典のうまさに惹かれていくんです。
西岡
 来週、ある講座で『東京物語』と『少年』の話をするので、それぞれのシナリオを読んだんですよ。昨日の朝、『東京物語』を読んだ。もちろん映画は見てますが、脚本を読むのは初めてで、朝読んでいて、何か清々しい気持ちになった。『東京物語』は、折り目正しいシナリオの定石通り書かれてある。民族派みたいな発言になりますが、登場人物たちは礼儀正しく敬うべき人を敬い、お互いが心地良い距離感を保ち、正に“美しい日本”がそこにある。台詞のひとつひとつが、人間関係を的確に表現している。母親が死ぬかもしれない時には親族だけ集まり、他人である次男の未亡人の原節子だけはずして話し合ったりするとか。僕らが昔、おじいさんやおばあさん、両親から教えてもらったことが凝縮されているというか、家族の中でも遠慮し合ったり、日本人の中にある理想みたいなものが描かれている。歳をとって読むと、そんなことを強く感じますね。初めて読みましたが、シナリオそのものが実によかった。『名作選』と無理矢理繋げるようだけれど、人間関係の基礎みたいなものが、この本に収められた脚本にはきちんと描かれています。そういうものを壊したければ壊せばいいと思います。でも基礎を理解していないと、壊すこともできない。
荒井
 『東京物語』は中産階級よりちょっと上の小市民を描いているわけだよね。大島渚さんたちには、それに対する反発があって、もっと下の階級を描こうとした。小津安二郎・野田高悟のやっている方法、『東京物語』のようなシナリオの書き方では、日本の現実なんて描けないんだと考えて、『少年』のようなシナリオを書いた。あれが、ある転換点だったと俺は思う。
西岡
 大島さんの映画もいろいろあるけれど、『少年』の田村孟シナリオはとてもオーソドックスで、家族の関係が捻じれていく様を戦地帰りの父親を軸に丹念に書いている。シナリオの基本や基礎がきちんと踏まえられている。その点は素材こそ違え『東京物語』と同じで、人間関係の妙や複雑さが、台詞とアクションによって的確にわかる。こういう脚本は、安心して読める。たとえば『東京物語』の次女の杉村春子みたいな突出したキャラクターが出て来ても、もちろん杉村さんの圧倒的な演技をシナリオは予定しているわけですが、丁寧に人間の気持ちを追っているので、物語の枠の中にキチンと収まってしまう。人間を描くという意味で『東京物語』も『少年』も、全ての登場人物が見事に描かれていると思いますね。
向井
 『少年』はいいシナリオですよね。今でも応用できる部分が多々あると思います。
丸山
 人間を描く時、小説の場合、作家が好きなように書けるわけですよね。一人称でも三人称でも使える。地の文で説明することもできる。でも映画は、人間の関係を描かなければ人間そのものを描くことはできない。だからこそ人間同士が押したり引いたりする様を描くのは、脚本家の技量によってくる。人間の裏切りや愛情を、人間関係を通して浮かび上がらせていくのは、脚本家に委ねられているわけです。『豚と軍艦』の話が出たけれど、今村昌平さんが大分歳をとられてから、こんなことを言っていたんですよ。「俺は何が嫌いかって、今流行りの商業映画の、押したり引いたり計算する、それが一番嫌いなんだ。売れる為に、受ける為に、そういう計算をしたシナリオが一番嫌いで、そんな映画は作りたくない」。そうはっきりおっしゃっていた。僕はその頃に、やっと商業映画を作るようになって、お客さんに受ける為にはどうすればいいかを、いつも考えていた。押したり引いたりする、その計算をちゃんとしないと、味わいも何も出て来ないと思っていました。今村さんはそういうことを全部否定して、『神々の深き欲望』なんかを作ったのかなと、その時は思っていたんです。
西岡
 初期の段階で、そういう計算のある映画、シナリオ作りをやったからでしょ。だからこそ言えた言葉なんじゃないか。
丸山
 『豚と軍艦』なんて、全編押しと引きの話だから、それをやり尽くして、ある種の虚しさを感じたのか。いくところまでいかないと、人間の最後に残っている本当の生気みたいなものは出て来ない。今村さんは、多分そんなことを言いたかったんだと思います。でも当時の僕は、今村さんの本心に気付くことができず、単に押し引きをしてはいけないのかと思ってしまった。『名作選』を読むと、そういうことが改めてよくわかるんです。先人たちの苦労が見て取ることができる。
西岡
 そこまで深いところは、丸山さん位にならないと、わからないかも。もちろんすべてを理解しなくてもいい、読まないより読んだ方がいいと思います。ただ、その辺りのことは、なかなかわかりづらいんじゃないか。
監督とライターの鬩ぎ合い

丸山
 このシナリオ集は、教科書的にも使えると思うんですよね。そんなことを言うと、固い本だと思われて敬遠されるかもしれないけれど、脚本家を目指す人、今プロとして書いていながらもうまくいっていない人、あるいは小説家志望の人でもいい。たとえば枷をどうやって作るのか。回想シーンはどうやるのが一番効果的なのか。映画学校で教えていても、回想をうまく書ける学生はほとんどいませんよね。これは説明してどうにかなるものでもない。実際にそのうまい実例を読んで身に付けていくしかないわけです。枷を書くには、『近松物語』が勉強になりますよね。封建時代の枷があり、それ以外にもいくつかの枷を作って、がしがしと枷で縛っておく。その上で、ふたりの男女が、どうしてもこうならざるを得ない道行きを書いていく。そこには、シナリオの基本中の基本がきっちりと出ている。このまま愛を貫くべきか、自分が降りるべきか、二律背反の基本のシナリオになっている。あるいは伏線の勉強をするならば、『飢餓海峡』を読んでみるといい。鈴木尚之さんがお書きになっていたことですが、苦心したのは、ヒロインが三國連太郎の爪を切ってあげるシーンだったそうです。それが最後の最後まで効いてくる。伏線はこうやって作っていく、その見事な例だと思います。回想に関しては『切腹』に尽きますよね。橋本忍さんは『切腹』の中で、非常にうまく書いて見せた。
向井
 今フィクションの世界でそうしたシナリオのお手本を考えてみると、ピクサーのアニメーションが似ていると思うんです。綾の付け方や伏線の張り方とか、王道をいっている。
丸山
 若い頃にハリウッド映画の脚本を読み返したり見直したりした時に気づいたんですが、昔の映画は大体九〇分で終るんですよね。それでも結構豊饒な物語がある。つまり必要なことは簡潔に全部入れ込む。ピクサーのアニメはそれを受け継いでいると思いますね。ピクサーとか最近のディズニー作品は、かつてのウエルメイドなハリウッド映画にあった基本中の基本を踏襲して、それをそのままコンピュータに入れて作っているとしか思えないぐらいですね。

話は変わりますが、西岡さんが巻末の解説でお書きになっていたことが、とても印象的だったんです。どういうことか。昔の日本映画には独特の脚本の作り方があって、監督とライターが旅館に籠って、ふたりで鬩ぎ合い、その叩き合いの中から一本の脚本が生まれる。そうした過程がよくわかるものも、『名作選』には随分入っている。おそらくこのシーンは、脚本家はこう言ったけれど、監督は別の意見だったんじゃないか。そういうことはプロじゃないとわらかないけれど、そこを想像しながら読んでも面白い。つまり、どんな現場にも耐えられる脚本にするためには、一稿二稿じゃ絶対にできないんです。アメリカ特にハリウッドでは、プロデューサーシステムがしっかり確立していて、プロットの段階からきちんと作品を管理している。完成稿を変更する時には、監督でさえ弁護士を通したりしないとできない。日本の場合、現場で監督の裁量にほとんど任されていますよね。それでも映画になった時、かなり質の高い作品が出来上がる。これは脚本家と監督の間で、事前に相当鬩ぎ合いがないと不可能だと思うんですね。その鬩ぎ合いが、日本映画を支えて来た。それをやらなくなったことが映画の衰退を生じさせていると、僕は思いますね。
荒井
 この本に出て来るような脚本をきちんと読んで、理解している連中が、俺たちの若い頃にはいた。そういう人たちがプロデューサーとして上にいて、随分いじめられましたよ。だけど自分の考えを、そのまま押し付けるなんていうことはしなかった。俺や西岡や丸山の持っている新しさを掬い取ろうとしてくれた。なおかつ日本映画にあるオーソドキシーも、下の世代に教えようとした。多分今は、そんなやりとりのできるプロデューサーは皆無でしょ。
丸山
 だからプロデューサーに対する不信が大きくなっている。
荒井
 一方で、俺ら三人が仕事をはじめた時から既に、脚本を読めるプロデューサーがいなくなったということも言われていた。でも今は、そんな段階じゃなくて、まったく読めない人ばかりになった。だから、ここにある脚本とは別種の映画が作られつづけているんだと思うな。
西岡
 最近映画館で日本映画の予告篇を見ていて、つくづくそう思いますね。
物語を信じる

荒井
 去年の湯布院映画祭の話をもう少しすると、『お盆の弟』という作品が上映されていたでしょ。脚本は今や売れっ子になりつつある足立伸。あれを見ていてがっかりしたんだ。あの映画は、映画を撮りたいけど何年も撮れないでいる監督と、田舎に帰った脚本家の話であって、設定そのものはわからなくはない。でも肝心のどんな映画が撮りたいのか。それが一行も出て来ない。このことが象徴的なんだよ。映画ならなんだっていいわけね。堤幸彦や廣木隆一、三池崇史ら売れっ子監督たち、それをこれから追っかけて行こうとする四十前後の若い連中にしても、映画ならなんでもいいと思っている。どんな映画を撮りたいとか、どんなシナリオを書きたいというのがまったく伝わってこない。それじゃあ駄目だよね。少なくとも俺たちには、ああいう映画は嫌だ、こういう映画をやりたいというのが確かにあった。それがあったから、ここまでなんとかやって来られたところがある。映画ならなんでもいいとは決して思わなかった。
向井
 最近、つきあいのある監督たちから、よく「俺は物語には興味がないんだ」と言われるんです。切羽詰まった気持ちとしてとても共感する一方、脚本家まで物語を信じなくなっちゃったらおしまいだよな、という意地にも似た気分にもなる。それと西岡さんが最初に言われたことに関して、僕なりの意見を言っておくと、この二冊の『名作選』は、これはこれでとても貴重だと思います。その上でもう一冊編むとしたら、どのような本が求められるのか。ここに収録されているような古典と言われる脚本と、それ以後二〇一六年の現在までを含めて選ぶ。そうすると、シナリオの書き方の変遷もよくわかると思うんですね。
西岡
 まあ、何でもそうだけど、結局誰がどう選ぶかということにかかってくると思いますね。それと、それを最後の刊行まで、勇気と馬力で推し進められるかどうか。
荒井
 まずはアンケートなんていう方式をやめればいい。独断と偏見とまで言ったら言い過ぎかもしれないが、自分はこれが好きなんだと、そういう基準で選ぶ。それが説得力になるんだ。俺だったら、絶対に中島貞夫の『893愚連隊』を入れるとかね。実際に今回アンケートには挙げたけど、完全に無視された。
西岡
 ドゥマゴ文学賞みたいに、ひとりの選考委員が選ぶ『名作選』というのがあってもいいってこと?
荒井
 そうです。
西岡
 結局、こういう選集は、作ること自体がものすごく難しい。共通の合意を作り上げるのが大変でしょう。だから、とにかくやるしかない。その意味では、短期間でよく刊行まで漕ぎ着けたと思いますよ。坂田委員長以下、委員の皆さんの力です、本当に。なんとか形になってよかった。
丸山
 また少し個人的なことに引き付けて話したいんですが、僕は松田優作と企画して、結局は映画にならなかったシナリオ集を出しているんです(『未発表シナリオ集』幻冬舎)。そうやって映画になっていない、あるいはテレビドラマになっていない隠れたシナリオの名作だってあると思うんですね。ただ、あの時も書いたんですが、シナリオは映画にならないと、どんな傑作を書いてもしょうがない。シナリオが素晴らしかったとしても、なんらかの事情で映画化できなかったというのは、シナリオそのものにどこか欠陥があった。時代に合わなかったとか、あるいはどの役者も企画に乗らなかったとか、理由は様々あると思います。『名作選』に載っている脚本は、みんな映画になっている。当たり前のことを言いますが、かなり野心作が多いですよね。よくできたウエルメイドな作品もあるけれど、先ほどもタイトルの挙がった『豚と軍艦』なんて、山内久さんの力技ももちろんあるけれど、脚本全体から熱気が感じられる。そういう脚本の持つ熱が、若い人に通じるかどうかは別問題として、少しでも感じ取ってもらえれば、この本を出した効果は十分あったと思います。荒井さんも西岡さんもいろいろ不満はあるだろうけれど、実際によくできているし、価値があるものだと、僕は思いますね。もしかしたら若い人が読んで、血や肉になるようなものではないかもしれない。しかし、かつてこういう脚本が日本映画を引っぱっていた。そのことがわかるだけでも意味があると思います。
荒井
 『にっぽん昆虫記』の解説を書くために、読み直して感じたことだけど、今はこういう脚本を書ける人はいないと思いましたね。逆に、読んだ人も、この世界を理解できないんじゃないか。横浜シネマリンで、山田太一さんと『にっぽん昆虫記』と『無法松の一生』についてトークをした時、客席から質問があったんですよ。売春宿の客が処女をありがたがるので、宿の人間が注射器を使って猫の血を採ろうとするシーンを、今村さんが書いた。それについて「猫にシャブを打ってるんですか」と聞かれた。こんな世界は、もうわからなくなってしまったんだなと思いましたね。映画を見ても、脚本家と監督の思いが伝わらない。それと山田さんと話すので、恥ずかしながら『無法松の一生』を初めて見たんです。面白いともなんとも思わなかった。ただシナリオを読むと、検閲でカットされている部分がわかりますよね。つまり実際に上映された映画は、権力にカットされた不良品であって、なぜ不良品が名作と言われてきたのか不思議に思ったんです。「おれの心はきたない」と告白する、肝のシーンがないんだから。あの台詞がなかったらなんの話なのかよくわからない。どうして『無法松の一生』は名作と言われてきたのか。
西岡
 宮川一夫さんのカメラだけでなく、いいところはある。
丸山
 あの時代に、よくあんな娯楽映画ができたなと、僕は思うな。
荒井
 時代も関係していると思うんですよ。山田さんは子どもの頃に見ているから、思い入れがある。軍国主義の時代に、戦意高揚映画しかない中で、軍人の未亡人に想いを寄せる人力車夫映画があった。神宮の学徒出陣の壮行会から、ひと月後ぐらいに封切られた映画ですからね。でもそういう軍国主義調が何も感じられない。だけど明らかに欠陥品であって、それが『名作選』にはシナリオが全部載っているから、どこが検閲で切られたのかがわかる。でも我々の場合だって、監督が勝手に「検閲」して切ったりすることがあるからね。その場合、シナリオをアリバイとして残しておくしかない。
西岡
 シナリオの方がいい映画もたくさんありますよ。『少年』なんて映画よりシナリオの方が明らかにいい。
丸山
 読むだけで面白いですよね。
荒井
 『にっぽん昆虫記』にしても、「こんなシーン、俺、書けない」と解説に書いたわけ。そうやって書けないっていう思いがないと、リスペクトにはならない。今村さんみたいにパンパンとかに詳しくないし、お勉強しただけじゃ書けないんだ、こういう脚本は。
混迷の時代の指針

丸山
 西岡さんが巻末解説で、「シナリオライターは果たして五十年を越えて存在するか、疑問がある。シナリオライター消滅の芽が、今ある」と書かれていましたよね。おっしゃる意味は十分わかるんです。その上で、あえて初歩的なことを言わせてもらうと、映画って劇だから、物語るわけですよね。物語るためには技術や芸がいる。それらを総動員して、腐心の末に脚本を書く。でもお客さんは、大概は役者を目当てに映画館に行く。それは昔も今も変わらない。スターと言われている人たちはお客さんが呼べる。だから製作側も、その人たちをなんとかスクリーンに乗せて、しかも光り輝くようなヒーロー・ヒロインにしたいと思う。ただ、お客さんを呼ぶためには、どうしたって脚本がないと駄目なんですよ。脚本自体がなくなることは絶対にないと、僕は思う。しかし脚本の作り方が、今は僕等の知っている作り方ではなくなった。未知の分野になってしまった。でもその時にも、必ず指針が必要となってくるはずです。今回の『名作選』は、そのための参考になるでしょう。そして撮影所が脚本家等を育てなくなって、荒井さんや西岡さんがフリーランサーとして、監督やプロデューサーと格闘しながら書いてきた脚本、それらも今後一篇の本に編んでもらえれば、頼るべきクラシックとなるんじゃないか。次にシナリオ集を出すとしたら、この後の時代のものをまとめてもらいたいと、僕も思いますね。
西岡
 丸山さんが今言ったようなことを、巻末解説に書いたんですよ。「この上下巻の本が、荒天の海に差す一条の光のようであって欲しい。/そう、私たちは今回、「シナリオ」のものさしを示したかった」と。それと荒井さんの話で思い出したんだけど、『名作選』に収録されている『砂の器』が僕は大好きなんです。映画の冒頭で、丹波哲郎さん演じる刑事たちの捜査が、空振りするシーンがありますよね。あれはすごいと思う。テレビだと刑事が無駄な捜査をするシーンは絶対にない。映画の場合、無駄足を描くことで奥行きが広がる。本当に秀逸なシーンだと思います。『砂の器』についてもうひとつ言っておきます。テレビでは五回もドラマ化されていますが、近年はハンセン病を抜いてドラマ化する。『無法松の一生』の話と一緒で、肝を抜いて映像化しているわけです。そんなことでいいのか。ハンセン病について書きたかったから、松本清張さんは『砂の器』を書いたんだろうし、橋本忍さんたちも、それが理由で何年も映画化できなくて奔走した。にも関わらず、平気で一番大事なところを落としてドラマを作ってしまう。そこが映画とテレビの差なんだろうと思います。しかし、今や映画とテレビの垣根がまったくなくなってしまった。下手をすれば、映画で『砂の器』をやる時にも、ハンセン病を抜いて作られる可能性もある。そんな状況で、シナリオライターはどうすればいいのか。やはり途方にくれざるを得ませんね。 (おわり)


『日本名作シナリオ選』収録作品

◇山中貞雄「盤嶽の一生」(監督・以下同=山中貞雄/解説・以下同=田中陽造)▽伊丹万作「無法松の一生」(稲垣浩/池端俊策)▽菊島隆三・黒澤明「野良犬」(黒澤明/柏原寛司)▽黒澤明・橋本忍「羅生門」(黒澤明/井上由美子)▽斎藤良輔「本日休診」(渋谷実/加藤正人)▽野田高梧・小津安二郎「東京物語」(小津安二郎/山田太一)▽依田義賢「近松物語」(溝口健二/大津一郎)▽八住利雄「夫婦善哉」(豊田四郎/真辺克彦)▽水木洋子「浮雲」(成瀬巳喜男/奥寺佐渡子)▽橋本忍「真昼の暗黒」(今井正/青木研次)▽山内久「豚と軍艦」(今村昌平/向井康介)▽橋本忍「切腹」(小林正樹/古田求)▽長谷部慶次・今村昌平「にっぽん昆虫記」(今村昌平/荒井晴彦)▽鈴木尚之「飢餓海峡」(内田吐夢/那須真知子)▽笠原和夫「総長賭博」(山下耕作/武藤将吾)▽田村孟「少年」(大島渚/井土紀州)▽橋本忍・山田洋次「砂の器」(野村芳太郎/輿水泰弘)▽小野竜之助・佐藤純彌「新幹線大爆破」(佐藤純彌/山田耕大)▽中島丈博「祭りの準備」(黒木和雄/小嶋健作)▽山田洋次・浅間義隆「幸福の黄色いハンカチ」(山田洋次/石井克人)▽井手雅人「鬼畜」(野村芳太郎/篠﨑絵里子)
2016年6月3日 新聞掲載(第3142号)
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この記事の中でご紹介した本
日本名作シナリオ選 上巻/日本シナリオ作家協会
日本名作シナリオ選 上巻
編 集:日本シナリオ作家協会「日本名作シナリオ選」出版委員会
出版社:日本シナリオ作家協会
以下のオンライン書店でご購入できます
日本名作シナリオ選 下巻/日本シナリオ作家協会
日本名作シナリオ選 下巻
編 集:日本シナリオ作家協会「日本名作シナリオ選」出版委員会
出版社:日本シナリオ作家協会
以下のオンライン書店でご購入できます
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