鈴木國文・古橋忠晃・菅原誠一鼎談 ラカン/ヘーゲル/マルクス スラヴォイ・ジジェク著『もっとも崇高なヒステリー者』(みすず書房)刊行を機に|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 特集
2017年9月28日

鈴木國文・古橋忠晃・菅原誠一鼎談
ラカン/ヘーゲル/マルクス
スラヴォイ・ジジェク著『もっとも崇高なヒステリー者』(みすず書房)刊行を機に

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スラヴォイ・ジジェク著『もっとも崇高なヒステリー者 ラカンと読むヘーゲル』がみすず書房より刊行された。
原書は、一九八〇年代前半にパリ第八大学精神分析学部に提出された博士論文に加筆・改訂されたものである。
世界的に幅広い読者を獲得している稀有な哲学者・精神分析家が、果たして研究者としての第一歩をどのように踏み出したのか。
同書の翻訳者である鈴木國文、古橋忠晃、菅原誠一の三氏に鼎談をしてもらった。 
(編集部)
※2016年6月10日号掲載内容です。

現代の問題に切り込む

鈴木
 四年前にみすず書房からこの本の翻訳の話をいただいて、最初にざっと読んだ時の印象をまず話しておきましょう。これまでもジジェクの本は何冊か読んでいますが、軽妙さが前景にある他の本に比べ、この本は骨があるというか、射程の広さを感じました。ヘーゲルを取り上げているということもあって、一九世紀のはじめから今日までの哲学史をある程度見通す視点で書かれています。ただ、読み終ってみると、ヘーゲルのみならず、現代の社会や現代思想に関わる問題点もきちんと論じられています。この本は、元々博士論文として書かれたものに加筆し、一九八八年に出版され、それが長らく絶版状態にあったのですが、二〇一一年に新版として刊行されたものです。ここにはジジェクの発展の萌芽の多くが含まれているという印象をもちました。我々翻訳者三人は哲学の専門家ではなく、精神病理学を専門とし、長くジャック・ラカンの翻訳に携わってきた精神科医なのですが、その我々にも読み取るべきものがたくさんあって、ゲラの段階を含めて四回、五回と通読しましたが、何度読んでも面白い。今の社会の問題を扱っている研究者、そしてもちろん哲学を専門とする人にとっても、刺激となる点が無数にあるのではないか。これが全体的な印象です。
古橋
 元々我々は、八〇年代から、鈴木さんが中心となって、名古屋大学医学部精神医学教室の有志を中心にジャック・ラカンの読書会を毎週開いていて、三十年以上つづけられてきています。その読書会で、ラカンの『セミネール』の翻訳をしていて、これは岩波書店から今も刊行中です。五年くらい前にこの作業と並行して、少し違ったものにも取り組んでみようと思っていたところに、みすず書房から今回の翻訳の話をいただいたわけです。当時は、ジジェクのこの本が、精神医学とそれほど直結する問題を扱っているとは思っていませんでした。思想史の中で、ラカンを使ってヘーゲルやカントを論じているような本なのかなという印象でした。ただ三年以上読書会をやって、実際に翻訳してみると、随分と印象が変わりました。現時点から振り返ってヘーゲルをどう考えるかといったような哲学史の本ではない。鈴木さんがおっしゃられたように、現代の問題にすごく切り込んでいる。もちろん直接今の社会問題に言及しているわけではありませんが、自分の中では現代と繋がったものとして受け止めているところがあります。後から現れたものを前に既に現れていたものを使って論じる、つまり、ヘーゲルでラカンを論じるというのがジジェクの独自の方法論です。この方法論では、一九八〇年代に亡くなったラカンが二一世紀の問題を論じているとも言えるわけです。最初はラカン以外のものも読んで、頭を冷やすために読もうと思っていたところが、この本によって却って頭が熱くなって、興奮しながら読んでいたというのが正直な気持ちです。そして我々がずっと考えてきた精神医学の問題にも直結する手法論も含んでいる。そんな本じゃないかと感じています。
菅原
 これまでに読んだジジェクの本に比べると、論旨が追いやすいというのが、僕の第一印象です。文学や映画、ユダヤジョークといった、ジジェクお得意の、いろんな例え話を示しながら論を進めていく仕方は、後年に通じるんですけれども、そういうものが必要最小限にとどめられている。何を説明するための例なのかもきちんと示しながら進んでいきますから、後へ後へと読み進みたくなる。もうひとつ感じたのは、ジジェクがいつもやっているような、ラカンを解説しながら進めていく本ではないということです。この本は博士論文として提出されたものですから、ラカンを一般の人々に対して説明するスタイルは取られていない。それゆえに、むしろジジェク本人の論旨がストレートに出ていて、そうした魅力もあると思いました。いま、ラカンが亡くなって三十年以上経ち、単なるラカン解説ではなく、若い研究者たちから一歩進んだ論が出てくる状況になった。そのような新しいラカン研究とも共通点を見つけることができるんじゃないか。そんなことも感じながら、原書を読んでいました。
鈴木
 私が代表して書いた「訳者あとがき」に、「この本は『ラカンと読むヘーゲル』であり、『ヘーゲルと読むラカン』である」と書きました。しかし、ヘーゲルを今取り上げることの意味とは何なのでしょうか。「私」というものがどのように成立するかという観点からヘーゲルを読むと、意識そのものからは自己意識は現われない、自己意識は他者との関係でしか生まれてこないと、ヘーゲルは明確に言っているわけです。そのことの認識から、弁証法というものが出てきたという文脈でヘーゲルを読めば、ヘーゲルの弁証法はラカンの出発点である「鏡像段階論」と極めて近いところにあることになります。ジジェクがこの本を書く上でも、そこが最初の導入になっていたと思います。ではラカンの考え方が進展していく中で、どこまでがヘーゲル的だったのか。普通は「初期ラカン」と言われる段階がヘーゲル的であり、以後次第にそうした性格は失われていったと考えられてきました。しかし、たとえラカン自身は意識していなくとも、実はラカンは最後までヘーゲル的だったというのが、ジジェクがこの本全体を通して言いたいことだと思います。そうやってヘーゲルを読んでみると、その思想としてのラディカルさが今に蘇る。ラカンとともにヘーゲルを読むことで、ヘーゲル自身の思考も進展しながら、弁証法的論理学から言語論に至るまで、全体が相当ラディカルであったことを、ジジェクは浮き彫りにする。この本の一番の読みどころは、そこだと思います。ヘーゲルというと、マルクスにしてもそうですが、大方は進化論者(驍魔盾撃浮狽奄盾獅奄唐狽・jとして読む読み方が強い。歴史や人間精神、人間の知がどう進展するかを扱った哲学者として読むわけです。ジジェクは、そのような読み方をしていない。反進化論者としてのヘーゲルを浮き彫りにしようとしている。ここが面白いところだと思います。
古橋
 私も同意見です。その辺りの面白さが際立っている。付け加えるとすると、パラドックスをすごく上手に描きだしているということです。これほどまでにパラドックスそのものを前面に押し出した研究書は珍しいのではないでしょうか。学術論文を書く時には普通、パラドキシカルなものを徹底的に排して論理的に書いていかなければいけない。しかしこの本は、パラドックスをパラドックスとして語っている。たとえば歴史が発展・進歩する時にも、それだけでは片付かないものがあるという。あるいは弁証法にしても、何かパラドックスを含んでいるという。「正・反・合」の図式で論理が上昇していくようなものではなく、それこそ出発点と到達点が近いこともありますが、それでも「ずれ」がそこに生じていると、ジジェクは言っているのだと思います。
「事後性」の概念

鈴木
 ジジェクはそうした仕方で、弁証法自体が、さらには人間の精神自体がパラドキシカルな構造になっていることを示してみせるわけですね。
古橋
 そこが斬新な指摘だと思います。この新しさが読みどころであり、日本の読者に一番伝えたいことですね。執筆から三十年以上経っていますが、まったく古びていない論点です。これまで弁証法というのは発展的なものとして捉えられていたけれど、ジジェクは、パラドックスをすごく含んだもののように書いている。パラドックスを含んだ弁証法こそ、実は弁証法の本質であるということを、うまく描き出している気がします。ではなぜ弁証法がパラドキシカルなのか。たとえばヘーゲルが、弁証法によって絶対知に向かうという。しかしその向かう先にあるものというのは、実は初めから内部にあるというわけですよね。それがラカンで言えば「対象a」ということになる。こういったパラドキシカルな要素を含んだ論文を、本来パラドキシカルな要素があってはいけない学位論文審査会に出すこと自体、奇跡的なことだと思いますね。
鈴木
 博士論文からこの新版の出版まで三十年以上のズレがあるのですが、パラドキシカルな要素の受容という意味では、こうした論文を受け入れる土壌が、近年出来上がってきたということなのでしょうね。
菅原
 弁証法というのは、一般的な理解では、時間に従ってどんどん先へと進んでいく、段階的に積み重ねていくような論理として捉えられていますよね。しかしジジェクはこの本の全体を貫くキー概念として、「事後性」という考え方を持ってきています。後からしかわからない事実に触れるような論理が展開されていて、そこがこの本の面白さだと思うんです。我々は普通、時間は一方向に進むという前提で話しますが、ジジェクの本に従うならば、事後的に振り返りながら繰り返すようなあり方のほうが、むしろ人間の本質であり、一方向へ進んでいく発展的・進歩的な見方は倒錯的である。そう思えるぐらいの論の進め方になっています。これは、ラカンが主に『セミネール』の十一巻で論じている反復論や欲動論、昇華論を踏まえての議論なんじゃないかと思います。ジジェクはさらに、「幻想の横断」というラカンの臨床的な精神分析概念についても事後性を持ち込んだ解釈を示しています。
鈴木
 今おっしゃった「事後性」の概念は重要ですね。それによって、弁証法とは前に進むものではなく、事後的なものだと読むことができる。これは、ラカンの理論を踏まえてはじめて言えることだと思います。本の中に「理性の狡知」の話が出てきますよね。「「理性の狡知」はつねに事後的にしかやってこない。それは遡行的にしか把握できないものである(…)行動のさ中にその帰結と意義を認識することはアプリオリには不可能である。行為はつねに失敗していて、根本的な間違いを内包するものである」(一三四頁)と。つまりジジェクは、人間は理性の狡知を操る主体になることは絶対にできないのだと言っている。歴史は事後的にのみ出来上がるし、歴史の主体も事後的にのみ成立する。実際、ヘーゲル自身そういうことを考えていたと、ジジェクは言っているのだと思います。
古橋
 今の論点は本の最初に、仄めかしている程度ではありますが、出てきますよね。それが段々議論が進んでいく中で、もう一回取り上げられる。その他にも、あるテーマが現われて、そこの時点ではどういう意味を持っているかはわからないんですが、後になってみると、こういうことだったのかとわかる。そうした論点がこの本の中にいくつも見られます。ジジェクは「事後性」について説明しているというより、「事後性」の問題がこの本自身に孕まれていると言うほうが正しいでしょうね。
体験的な読書

鈴木
 この本が二〇一一年に再版され、それを我々がいま読んでいる。そのことも、ある意味では事後的な認識というカラクリの中にある。ジジェクが博士論文の後、何冊も本を書く、それらの本を越えた後の時点から見ないと、博士論文であるこの本の本当の意味が結実してこない。そう思えるところもあって、この本の仕組み自体が決して単線的には出来ていない。書き方も、最初からクライマックスがあり、いくつかの論点が重層的に進んでいって、すとんと終る。そんな形になっています。古橋さんも言っていたけれど、いわゆる博士論文の体裁にはなっていませんね。すごく不思議な論文です。ただ、アカデミズムの閉じられた空間ではなく、これが八〇年代に、普通の一般読者の前に提示されていたら、どうだったのか。あの時代のポストモダンの文脈の中では、それほどインパクトも与えずに消えてしまった可能性もあるように思います。ポストモダンという捉え方自体、極めて進展的な見方ですからね。
古橋
 ジジェクの書き方、その手法自体は、一貫していると思うんです。何かを読解する時には、直線上で積み上げながら読み解いていくのが普通ですが、ジジェクの場合、解釈や読解そのものを転倒させて、パラドキシカルに読み解いていく。そこは現在までずっと一貫している。これは、彼の映画論や文学論、社会批評においても、通底しているやり方であり、それを最初にどんと示したのがこの博士論文なんだと思います。だから「解釈」とか「文学批評」というものとは違うのだと思います。パラドキシカルなものをパラドックスそのものとして打ち出していくための手法であり、その手つきが、実に鮮やかなんですよね。
鈴木
 確かにジジェクの場合、文学を扱っても、いわゆる文学批評ではないですね。あくまでも人間の精神を取り出すための材料として、文学作品を扱っている。
古橋
 その手法が、新しいと思うんです。たとえば哲学的なテーマが出てくる映画があった時に、哲学を解釈したり説明したりしながら、作品を読み解きがちなんですけれども、ジジェクの場合、そうではない。まずは例証としてどんと出す。これはオリジナルなやり方だと思います。「普遍性はすでにそれ自身において個別特異的である」という言葉が、本の中に出てきます。これら二つの概念は、本来は一般的には対立するものとして現われるわけですが、ジジェクの読みでは普遍性が現われた時には、それが個別特異的であると二つを一致させるのです。普通は、ある小説から普遍的なものを取り出してきて論じていく。しかし、そこに再び個別特異性が現われるという議論の仕方をする。ここがジジェクのオリジナルなところであり、やはり説明や解釈といったものとは違いますよね。
菅原
 文学作品や映画を引用する際も、作品そのものから普通に読み取れるような解釈を述べるために取り上げるのではない。一見全く違うことを説明するために使う。けれどもジジェクの論を読んでしまうと、そうとしか読めなくなってしまう。そのことは、ラカンやヘーゲルについても同様です。この本を読むと、こうとしか読めなくなるところがある。それが古橋さんがおっしゃった「事後的」な論の進め方ということであり、ジジェクは、まるでユダヤジョークの登場人物のように、我われの前で実際にそれをやってみせた。
古橋
 そこが大事ですよね。やはり、事後性について語っただけの本ではなくて、事後性を実践した本だと思います。
鈴木
 我々自身が体験させられるような本ですよね。そもそもラカン自身の言説も、ある種の実践だったわけです。単なる理論の積み立てではない。『セミネール』のあり方が、そういうものだった。ラカンの言葉を聞くことを通してある出来事が立ち上がってくる。その音声記録がセミネールという形で出版され、それを我々はこの間ずっと翻訳してきた。これもやはり体験的な読書だったと思います。おそらく、ラカンの『セミネール』の洗礼なくしては、ジジェクの中にも、こうした書き方は生まれなかったのではないか。だから哲学書の一般的な読み解きのイメージとは違い、ジジェクの本に接することは、体験的な読書をすることだと思います。ラカンが精神分析を体験する時のことを「分析的眩暈」と言っていますが、ジジェクとラカンには形式的類似があると思いますね。もちろんジジェクは、ラカン理論の内容やタームをよく咀嚼していて、その理論を援用しているという面もあるとは思いますが、内容的な類似よりは形式的な類似の方が大きい。「ラカン/ジジェク的」と言えばいいのか、ラカンがフロイトを読む場合でも、ジジェクがヘーゲルやマルクスを読む場合でも、内容の繋がりを読むというより、形式を読み取ろうとする。その読み方が極めて精神分析的なのですよね。
古橋
 読書するという体験がどういうことなのか、何らかの知を書物というメディアを通して伝達しているだけなのかという問いを立てさせてくれる本だと思います。
外に開かれたラカン

鈴木
 少し話題を変えますが、ヘーゲルが「哲学史上もっとも崇高なヒステリー者」で、カントが「哲学史上もっとも偉大な強迫者」であるという、この論点はかなり面白いと思います。ヒステリーという病気の説明にまでは、ここでは踏み込めませんけれども、神経症という病気が、人間精神のあり方そのものを示している。つまり神経症というのは、自分の思うようにならない精神のことをいっているわけですよね。神経症には強迫症やヒステリーがあり、十九世紀以降の人間は、ある程度神経症的に生きてきた。そのことが背景にあって、出てきている言葉だと思います。
古橋
 第二章に、次のような一節があります。「カントにおいては、主体は、超越的なところ(「もの自体」)に発する実体的内容に普遍的形式を与える。だから、人は、主体(経験の可能な諸形式の超越論的網)と実体(超越論的「もの自体」)との対置という枠組みの内に留まることになる」(三九頁)。おそらくこれが強迫に繋がる話だと思います。ではヘーゲルについてはどうか。すぐ後にこう書いてあります。「ヘーゲルにおいては、実体を主体としてとらえることこそが問題なのである」。この枠組みが、ヒステリーの論理と関係してくるのではないでしょうか。そのことをもっとはっきりと説明した言葉が幾つかの箇所に出てきます。「ヒステリー的な主体は、何よりもまず、<他者>は答えの鍵を握っていて、その秘密を知っていると想定して問いを立てる、そういう主体である」(一六七頁)「ヒステリー者は自らの欲望を組織するためにひとりの<他者>を必要としているのである。ラカンの言葉「ヒステリー者の欲望は<他者>の欲望である」は、まさにこの意味でこそ受け取るべきであろう」(二一六頁)
鈴木
 非常にざっくりいうと、カントは、神というくびきを離れた人間が、どうやって行為するかを考えた人だった。つまり実践理性の話をしたいのですが、人間は、普遍的な社会の求めに応じるように行為できると、カントは考えていたわけです。それが自由の概念であると定義する。そのことをいうために、至高善というものが外にあると措定し、そこに近づいていかなければいけないと考えた。本の中では「感情的(パトローギッシュ)」という言葉を使っていますが、そういう感情的なものを排除し尽くして、その向こうにあるものとしての至高善に近づくこと。それこそが人間の自由であり、人間に求められる行為である。そこに到達することをカントが求めたがゆえに、「もっとも偉大な強迫者」だったと思うんですね。一方でヘーゲルは、絶対知に向かっていくべきだという。しかし実は、その絶対知というのは、外にあるものではなくて、人間の中の一番内奥の裂け目にあるというわけですよね。この自分の内奥にある裂け目は、他者の中にある裂け目と一緒である。その他者へと向かっていく動因が、自分の中にはじめから存在しているという考え方です。これが事後的に弁証法を捉えるということの意味であり、ヒステリー的なあり方だということなのではないか。現代人は、その両極を生きている。要するにカントのいう悟性あるいは理性といった合理的な精神でもって物事を説明しようとして生きている片方で、自分の中にある欠如を生きている。その両方が、どうしようもなく絡んでいることを、ジジェクは言っていると思うんですね。二つのあり方はひっくり返ることだってあるし、この辺りが面白いところですよね。
古橋
 カントがヒステリー的になる面もあるし、ヘーゲルが強迫的になる面だってあるわけですね。
鈴木
 人間精神の二つのモデル、それは表から見た時と裏から見た時という言い方をしてもいいかもしれませんが、そういうあり方について、ジジェクは語っているのではないかと思います。
菅原
 本書のサブタイトル『HegelavecLacanラカンと読むヘーゲル』は、ラカンの論文『KantavecSade』を念頭に置いています。ラカンのこの論文タイトルは、論文集『エクリ』の邦訳ではシンプルに『カントとサド』と訳されていますが、我々の今回の訳に従えば、『サドと読むカント』ということになります。そこでのラカンの論によれば、カントのように感情的要素を離れた道徳律を追求していくと、サドの道徳律と同じところに行き着いてしまう。
古橋
 カントというのは、認識の限界を、つまり物自体を認識できないものとして定めた人ですよね。それをジジェクは、行為を物自体との関連で論じたと言えると思います。この点が新しいと思うんです。そこはラカンを使わないと、読み解けないことだったんじゃないでしょうか。ジジェクは、行為について、認識論にとどまらずに論じている。特に最終章では、そのことを強調して論じていて、オースティンの「行為遂行論」の話も出てきたりします。ジジェクは、おそらく初めからカントの中にも、そういう問題があったはずだと考えているのでしょう。
鈴木
 古橋さんの話に引きつけて、コジェーヴのヘーゲル論の話をしたいと思います。ヘーゲルというのは、人間の欲望と動物の欲求とが決定的に違うことを最初に論じた人であり、欲望の学として哲学を立てたのだといった読み方を、コジェーヴは示しています。ある意味で欲望論の部分が強く、しかも言語と絡んだ思想としてヘーゲルを読もうとすると、この点が実はカントの立てた問題にも繋がってくる。ジジェクのこの本を読むと、そう読めてきますよね。ヘーゲルを認識論としてだけ読むよりも、ずっと面白い側面が出てきている。
古橋
 コジェーヴの話が出たので、関連した話に触れておきます。ジジェクのコジェーヴの扱い方というのも、やはり「事後的」なんですよね。冒頭に「彼(ラカン)のヘーゲル読解は、コジェーヴとイポリットの伝統の中に登録されたものである」(一五頁)とあり、ラカンがコジェーヴの影響を受けていたという話をしている。そして本の最後にもう一度、ヘーゲルが二十五歳から三十歳の間に抑うつに陥っていたことの意味について述べているコジェーヴの『ヘーゲル読解入門』の箇所(三四二頁)が引用される。このコジェーヴの指摘した抑うつの意味がラカンを通して明らかになるわけです。そうやってコジェーヴに関しても、事後的に現われてくるところも面白いですね。普通は、発展的な哲学史の見方では、ある思想家が別の思想家から影響を受けた、つまり、ラカンがコジェーヴから影響を受けたという言い方がなされるわけですが、こうした「影響」という考え方も転倒させ、そこに事後性をみるわけです。
菅原
 もうひとつ、ヘーゲル学者のイポリットがラカンのセミネールに出席していましたが、彼との交流もラカンのヘーゲル受容を考える上で重要でしょう。フロイトの論文『否定』を題材に二人が交わした議論の記録が残っています。「否定」はけっして単なる抹消ではないことを論じるために、フロイトは、ヘーゲルの『止揚』という概念を用いていることが二人の間で話題に上っています。本書のジジェクの構想にも重なる議論です。
鈴木
 最初に菅原さんが、ラカンが亡くなって三十年経って、若い研究者たちからこれまでとは違った論が出てくる状況になったといわれましたよね。そうした新しいラカン研究とジジェクの本の繋がりについて、あとがきで少し触れました。この本自体が、フランスでどのように受け止められているか。ジャック=アラン・ミレールがどう評価しているか。あるいは今のラカニアンがどう読んでいるかはわかりません。ただ印象としては、二〇〇〇年ぐらいまでは、ラカンが何を言っているかを直接読み解く研究が主流だったと思うんですね。しかしこの本のように、八〇年代に既に、ラカンを外に開いていく、他の議論と絡めながらの読み方がなされていた。あの時点では、稀有なことだったと思います。それが二一世紀を迎えて、特に二〇〇五年以降は、そうした研究が確実に増えてきた。現代の問題を解くためにラカンを使うとか、社会学の問題を考えるために使うとか、政治の問題にも使えるとか、いろんな使われ方がされるようになった。「ラカン一神教」の人にはできないような、ラカンを腑分けしながら広げていくような研究の仕方が、フランスの中で起きている感じがします。その中には面白い本も結構あります。
ヒステリー的思考法

古橋
 先ほどの鈴木さんの話とも関わることですが、この本は、既に一九九八年にほぼ同じ内容で、出版されているわけですけど、やはり受け止められ方が違っていたと思うんですね。想像ですが、いわゆるラカン研究者からは「こんなふうにラカンを使うのは邪道だ」と批判されていた可能性が強い。ラカンの理論を説明装置としてのみ受け止めれば、当然そのような意見も出てくる。ところが、今回の翻訳のもとになった二〇一一年の版が再版されたときには意味が違っていたわけです。ジジェクは、説明装置としてのラカンを解体した。二一世紀になって初めてその解体が可能になったのだと思います。
菅原
 ラカンのセミネールの出版は進んできましたが、ラカンの思想自体が最後まで変化していきますし、我々はラカンの構想のすべてを知ることなどはできないわけですよね。だからこそ、ラカンについての知識をもっと埋めていこうという考え方ではなくて、穴のある知識であっても、ラカンを使っていこうという姿勢が、現在では出てきているように思います。そしてこれは、知識の穴の手前でとどまろうとする強迫的思考とは対照的な、良い意味でヒステリー的な思考法でもあります。ジジェクがこの論文を書いた時には、『セミネール』も現在に比べてそれほどの数は出版されていなかった。でも自分のツールとして、使えるものを取り出している。そういう読み方が、現在のラカン研究にも繋がっていると思いますね。
鈴木
 ラカンとデリダを合わせて論じてみたり、ラカンとフーコーとはどこが違うのかとか、以前は足場固め的な議論が多かったんですが、もっと問題の本質を見据えた上で、議論を広げていく。そういう若手研究者が増えているように思います。ジジェクの本は、最後の章では、クリプキとかサールといった分析哲学と絡めてヘーゲルを論じている。その点でも非常に新しかった。
古橋
 ヘーゲルというと、ヨーロッパでの受容や解釈を元に議論されがちですよね。ですから、同時代的に大西洋の向こう側のアメリカの分析哲学でなされている議論は、別種のものとして考えられていました。実際に、日本でも分析哲学というと非人間的で機械のような論理がただ並んでいる学問として考えられがちです。しかしジジェクは、同列に並べて論じています。この分析哲学の言表の背後に、「名づけられないX、欲望の原因―対象」(三三七頁)というヘーゲルの論理が存在するという風にです。これが、今の鈴木さんの話で、ラカンを外に開いていくということなのでしょう。ジジェクの場合、ラカンを使って、世の中を論じているのではないと思うんですね。繰り返しになりますが、実践でやってみせるわけです。いろんな例証を示した後に、実は社会の中にもパラドキシカルなものが既にあって、それが元になって社会が動いているんだということをわからせてくれます。その意味でも重要な本だと思います。決して説明装置としてラカンを使っているのではなく、実践として書いてみせたわけです。
鈴木
 行為としての言説みたいなところがありますよね。ジジェクはずっとそうだったのではないか。単なる映画論を書いているのではないし、実践の人だった。
古橋
 そう思います。
鈴木
 少し大きな流れの話をすると、まずドイツ哲学が現代思想をリードしていた時代があったわけですよね。一九三〇年代のフランスでも、ヘーゲル、ハイデガー、フッサールらの本が盛んに読まれた。そうした流れの中で、コジェーヴがヘーゲルを読み、パリ高等研究院で『精神現象学』の講義をする。そこにサルトルやメルロ=ポンティ、ラカンたちが通った。それが戦後になり、フランスが現代思想の大きな舞台になっていく時に、生きてくるわけですよね。ラカンも、ヘーゲルについてコジェーヴから多くを学ぶ。そのことが最初期の「鏡像段階論」に直接影響を及ぼしているし、実際には最後までラカンはヘーゲル的だったというのが、ジジェクの読みですよね。ここがひとつ種明かし的な話で、普通は最初期だけがヘーゲル的に捉えられているけれども、ジジェクはそうではないという。ちょっと衝撃的な話ですね。
菅原
 ジジェクによれば、ラカンは、自身がヘーゲル思想から離れたと考えるに至ったときにこそ最もヘーゲル的だったということにもなるわけです。そうしますと、ラカンを前期・中期・後期と分けて考えることの意味そのものも、考え直さなくてはならなくなりますよね。
鈴木
 そこは重要な論点だと思います。人間の考えることだから、前期から中期、中期から後期へと、前に前に進んでいっていると見がちなのですけれども、最初期の中には、最後で語られることのネタは既に仕込まれている。それが弁証法的ということではないかと、ジジェクは書いている。
古橋
 さらに言えば、ラカン自身、今自分は前期に属していると思って書いているのではないし、中期に差し掛かったから中期的な思想に変えようとしたのでもない。思想の中にも、常に事後的なものが入ってくるのは当然であって、ひとりの思想家の思想を分けて考えること自体、進化論的で恣意的な考え方なのかもしれませんね。
マルクスの正体

古橋
 もうひとつ重要な論点として、マルクスについて話しておきたいと思います。一八六頁に、ミレールの提示した定式を、ジジェクは引用しています。「マルクス主義にとっては、人間は自身が欲しているものを知っているが、それをもっていない、一方、精神分析にとっては、人間は自身が欲しているものを知らないが、それをずっと以前からもっている」。ここで精神分析とマルクス主義を対置して議論を進めようとしているわけです。また少し後にジジェクはこんなことを言っています。「マルクスは、市民の『権利』と義務の普遍主義を打ち消す『感情的(パトローギッシュ)』な不均衡、非対称、ひび割れを検出することによって、症状を発見した。(…)厳密な意味での『症状』とは、まさに、それが属している〈普遍的なもの〉を打ち消すある個別特異的な要素である」(二〇三頁)。今日、初めから話してきたことですが、弁証法の持つパラドキシカルな構造をうまく描き出すためには、ヘーゲルとラカンだけでは足りなくて、マルクスのタームを挟み込む必要があった。それが、普遍的なものと個別特異的なものの交差点に位置している「症状」になるわけです。そんなふうにマルクスの位置付けをしてみたんですが、鈴木さんはどのようにお考えですか。
鈴木
 まずマルクスを出してきたのは、ひとつにはジジェクの出身からくることだと思います。東側で教育を受けて、それが破綻しつつあるところで、ジジェクは育った。しかも六八年を経て、マルクス主義が疑問を持たれる段階を経験している。今、古橋さんが引用してくれた箇所は、マルクス主義と精神分析、どちらが正しいと言っているわけではおそらくない。マルクスは、本質がどこにあるのかを見ていた。だからこそジジェクは、マルクスとフロイトとの類似点の話に持っていっている。両者はどこが類似しているか。症状を見つけたことである。では、その症状とは何かという話をする。マルクスは、カントが言う自由というものの中に、ひび割れがあることを発見した。いわゆる人間にとっての自由意志というものと、労働者が自分の労働力を市場に出すという自由、そのふたつに自由が割れたことによって、資本の論理がどう作られていったのか。ここに『資本論』の一番形式的な重要さがある。そうしたマルクスの考え方を見ていくと、ヘーゲル的な弁証法とかなり近いものを持っている。マルクスが本当に見ていたのは、自由概念の中にあるそういうひび割れだった。そのことをジジェクは言っているのであって、ここは現代の問題を考える上でも、非常に重要な論点だと思います。たとえば自由という概念の今の値の下がり方を見ていると、サルトルの時代の自由とは明らかに裂け目がある。そんな自由の裂け目について、マルクスは既に捉えていた。少なくともそうした考え方の萌芽があったと、ジジェクは言っている。ここが非常に面白いところだと思います。
古橋
 面白いですよね。だからマルクスを入れなければ、この本の説得力も出てこなかったのかなと思うんです。
鈴木
 ジジェクはスロベニアの人だから、マルクス主義を咀嚼しながら、それをどう消化していけばいいのかを常に考えていた。そういう中で精神分析の洗礼を受けて、ふたつの思想が化学変化を起こした。ジジェクを考える上では、そこが重要な点だと思います。
古橋
 ジジェクにとっては、イデオロギーの崇高な対象としてマルクスの「貨幣」がありました。だからずっとマルクスを意識していたし、結局マルクス主義から自身を切り離すことができなかったわけです。ただ、そうした切り離せないものの正体も、こうして論文を書かないと、ジジェク自身もよくわからないままになっていたのだと思います。ヘーゲルとラカンを軸にしながら、この本を書くことの実践を通して、やっとマルクスの正体がわかった。ジジェクは、書くという行為で、ようやく切り抜けることができたのだと思います。
鈴木
 最後にベンヤミンのことも少し話しておきたいのですが、本の後半で触れられていますよね。我々の印象だと、ベンヤミンとジジェクでは、かなり姿勢が異なる。でもベンヤミンが亡命に成功して、戦後アメリカで活動をつづけていたら、今のジジェクと同じようなことを書いていたんじゃないかとも思うんです。あとがきにも書きましたが、歴史の捉え方としては、ジジェクにはベンヤミンの手並みを彷彿させるところがありますから。
古橋
 確かにジジェクの引用の仕方も、ベンヤミンと同じようなやり方をしていますよね。引用の「織物」みたいな感じがあります。
鈴木
 ベンヤミンの影響を受けながら、一方でジジェクは、精神分析について、分析哲学の側から逆照射するみたいなこともしている。だからアングロサクソン圏でも読まれるんでしょうね。フレンチコネクションの人として、閉じた感じはまったくしない。そうやって広がりをもって読まれるのは、大事なことですよね。ある島宇宙の中で仕事をしている人ではないから、世界中に多くの読者がいるのだと思います。もしかするとヘーゲルやラカンもそういう人だったのかもしれない。そのことを感じさせる本でもありますね。

(おわり)
以下のオンライン書店でご購入できます
2016年6月10日 新聞掲載(第3146号)
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もっとも崇高なヒステリー者  ラカンと読むヘーゲル/みすず書房
もっとも崇高なヒステリー者 ラカンと読むヘーゲル
著 者:スラヴォイ・ジジェク
翻訳者:菅原 誠一、鈴木 國文、古橋 忠晃
出版社:みすず書房
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