本を読むのが苦手な僕はこんなふうに本を読んできた / 横尾 忠則(光文社)横尾忠則を形作る構成要素が見事に浮かび上がる百三十三冊|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
2017年10月2日

横尾忠則を形作る構成要素が見事に浮かび上がる百三十三冊

本を読むのが苦手な僕はこんなふうに本を読んできた
著 者:横尾 忠則
出版社:光文社
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朝日新聞に執筆した書評百三十三本が一冊にまとまった。「読書嫌い」「本を読まない」と公言、あとがきに「絵を描く時間を盗まれたという恨み事しかでてこない」とあるのを読むと、書評を依頼した側のひとりとしては身のすくむ思いだが、こうして本になり、テーマごとに分類された形で改めて読む横尾さんの書評はめっぽう面白い。「そう悪いことばかりでもなかったのでは」と聞いてみたい、開き直りのような気持ちも生まれてくる。

和田誠『五・七・五交遊録』の書評で、「50年のつきあいの和田誠に俳句の趣味があったなんて全く知らなかった」としれっと書かれている。読んだ和田氏はさぞびっくりしたと思うが、なにしろ「興味のないものは見えない聞こえない」体質である。

逆に言えば、ここに出てくる百三十三冊はすべて、その時点でのひっかかり、興味を持つ何かがあったものばかりである。新聞の新刊書評だから、その都度、来た球を打つしかないはずなのに、好きな球が絞り切れている。「死・生・今」「トップスター」「猫」「日記・自伝・評伝」「異世界への想像力」「冒険とロマン」「現代美術とは?」など、横尾忠則というアーティストを形作る構成要素が、みごとに浮かび上がってくるしかけだ。

当然ながら、美術に関する本の書評が圧倒的に多い。「バルテュスの一語一句に触れる時、私の仮面が剥がされて逃げ場を失いそうになる」(『バルテュス、自身を語る』評)、「ロブグリエの文学やキルケゴールの『反復』から多大な影響を受けていた」(『ジョルジュ・モランディ』評)といった見逃せない生の言葉が埋め込まれている。

執筆順ではなくテーマごとにくくられたこの本は、展覧会を見る感覚で読むことができる。書評に決まったスタイルというものはなく、使われている色も技法も一編ごとに異なるのは、自分自身を飽きさせないためだろうか。著者以外、他に試みる者のない、絵による書評(『マルセル・デュシャンとアメリカ』)も収められている。
「言葉は絵画作品を『感覚の領野』へ変成させるためには足手まといになる」(『カラヴァッジオへの旅』評)という人ならではの、感覚的なものを伝える、動きのある書評である。たとえば、アルベール・カーンの膨大な写真コレクションを見るときの、表面につもった厚い灰を散らすべく息を吹きかける動き。視線と身体運動によって初めて北斎を再発見できるという『北斎現寸美術館』評に説得され、読みながらこちらの体も動いてしまう。
「運命の力が作用して、なるべくして洞窟探検家になった『俺』は高校を辞めるまでは無謀なアウトロー的人間であり、直感に従った行動で危険な目にも遭うが、彼を導くことになる運命は時に試練を与えながら彼の肉体と精神を強固なものに鍛え上げ、洞窟探検家としての不屈の人格を自力と他力の両輪に噛み合わせながら、未知の驚異の世界の入り口へと読者を誘う」――『洞窟ばか』評の息の長い書き出しは、前の見えない洞窟体験を読者にも体感させるかのよう。

書評するとき、著者はたびたび「移植」という言葉を使う。本書を読んで、この言葉の重要性に気づいた。他者から取り入れた何かを自分の中に根づかせ、新しいものを生み出す(その逆も)。百三十三冊の本もまた、著者の内部に移植されて、新たな表現を今後、生み出していくのではないか。
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2017年9月29日 新聞掲載(第3208号)
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本を読むのが苦手な僕はこんなふうに本を読んできた/光文社
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著 者:横尾 忠則
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