川崎 修・萩原能久・出岡直也=鼎談 アーレントが遺した問いかけ 『アーレントと二〇世紀の経験』(慶應義塾大学出版会)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 特集
2017年10月12日

川崎 修・萩原能久・出岡直也=鼎談
アーレントが遺した問いかけ
『アーレントと二〇世紀の経験』(慶應義塾大学出版会)

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今秋、これまでにない視点からハンナ・アーレントを読み解く評論集、『アーレントと二〇世紀の経験』が慶應義塾大学出版会から刊行された。これまでにも日本のアーレント研究の状況において数多のアーレント論が出版されてきたが、本書ではアーレント研究者のみならずアーレントを専門としない第一線の研究者も多数参加。今日の社会科学的見地からアーレントを読み直し、アクチュアルな問いかけと議論を提起する。現代の諸学知はアーレントをどう読み解くのか。いまなぜアーレントが評価されるのか? 本書の刊行を機に、編者の川崎修氏(立教大学法学部教授)、萩原能久氏(慶應義塾大学法学部教授)、出岡直也氏(慶應義塾大学法学部教授)に鼎談をお願いした。(編集部)

<編著者>川崎修(立教大学法学部教授)、萩原能久(慶應義塾大学法学部教授)、出岡直也(慶應義塾大学法学部教授)
<執筆者>森川輝一(京都大学大学院法学研究科教授)、空井護(北海道大学大学院公共政策学連携研究部教授)、伊東孝之(北海道大学・早稲田大学名誉教授)、保坂稔(長崎大学環境科学部教授)、森分大輔(聖学院大学基礎総合教育部准教授)、山本信人(慶應義塾大学法学部教授)、中野勝郎(法政大学法学部教授)、松本礼二(早稲田大学名誉教授)
社会科学からアーレントを読み直す

川崎 修氏
川崎
 本書の成り立ちは、二〇一五年に慶應義塾大学で開催された公開シンポジウム「実証的研究の文脈におけるハンナ・アーレント」が出発点となりました。私はシンポジウムを企画された出岡直也さんからご相談を受けていたのですが、出岡さんの当初の企画では、実証的な社会科学の文脈においてハンナ・アーレントを読む意味があるのか、あるとしたら何なのかというようなことについて考えてみたいということがご主旨だったと思います。日本ではそうした試みがあまり為されていないという印象があったので、私自身、非常に有意義で面白いテーマだと思いました。

日本でもアーレントが生きていた頃に読んでいた人たちは、必ずしも彼女のことを狭い意味での政治哲学者として読んでいたわけではありません。たとえば永井陽之助さん、阿部ひとしさん、藤田省三さんといった方々、藤田省三さんは日本政治思想史、阿部齊さんはアメリカ政治研究、永井陽之助さんは最初は政治意識論、後には国際政治学の方面で活躍をされた方ですが、この世代の方々はアーレントに対して、彼女個人の思想の研究という形で関心を持たれたわけではありませんでした。

アーレントが亡くなって以降、私が研究を始めた頃からは、彼女の思想そのものを研究するということが、日本でアーレントにかかわっていく主たるスタイルになっていきました。他方で、アーレントを専門にしているわけではない人たちがアーレントをどのように読んでいるのか、読んでいないのかということについて、私自身はかねがね関心がありました。ただ、ひとつ心配だったのは、現在それぞれの研究分野で活躍されている方々が、アーレントを読み直すことに協力してくださるだろうかということでしたが、そこは企画者の出岡さんが奔走されて、素晴らしい執筆者を確保してくださったと思っています。
出岡
 私はラテンアメリカ政治の研究を専門にしていますが、このような企画を考えた動機として、アーレントの社会科学批判に対する切実な関心が基にありました。アーレントの批判は、一般化・理論化では理解できない重要な現象があるという批判であり、また、そうすることで人々に寄り添うことがなくなってしまう、離れてしまうという、そういう意味ではノーマティヴな批判でもあったと思いますが、私などが比較政治学の立場からラテンアメリカ政治を研究していても、そのような批判を受けることがよくありました。

いま川崎修さんのお話にあったように、ハンナ・アーレントは多くの人に読まれているけれども、彼女の分析自体への関心は低いような印象がありました。それで川崎さんにご相談させていただき、アーレントを専門とする研究者に関しては萩原能久さんにご相談して、どんな方がいらっしゃるかをお伺いし、お声掛けもしていただき、素晴らしい方々が集まってくださって、それぞれの議論として非常に面白い企画になったのではないかと思います。
萩原
 この本を読んで思ったことは、想像もつかないような執筆陣で構成されていて、そういう意味ではアーレント論集として明らかに奇書中の奇書(笑)。比較政治学の研究者が今さらアーレントを比較政治的に読むのかと、一種の驚きをもって迎えました。松本礼二さん(第一〇章「アーレント革命論への疑問」)は、アーレントについて、“革命の詩学”、ポエジーであるみたいなことを仰ったようですが、その詩人の書く詩に対して、実証性に欠けるとか事実に反するという批判がある。もちろんそういう批判が出て来るのは当然と思っていましたが、逆にそういう人たちがそれでもなぜアーレントに惹かれ、アーレントを読みたい、解釈したいと思うのか、これまでになかった視点だと思います。

アーレント研究における画期的な仕事

川崎
 この本には、森川輝一さん(第一章「アーレントの「活動」論再考」)や森分大輔さん(第七章「アーレント・ナショナリズム論の手法と課題」)といったアーレント研究の第一線の方々や、萩原能久さん(第三章「Crime against Humanity」)のような現代政治哲学の研究者だけでなく、他分野の研究者、それも伊東孝之さん(第四章「政治思想と比較政治学のあいだ」)や松本礼二さんをはじめ各分野を代表する先生方も稿を寄せています。みなさんが本書の意義に共鳴し、本気でご執筆くださったことを、編者の一人として、嬉しく思っています。

実は以前から、ゼミなどでアーレントを読むとき、彼女が書いていることの中には、これをストレートに信じてもらってはまずいなという部分もあることを感じていて、現在の学問知から洗い直すという作業をする必要があるなと思っていました。その意味で、たとえば第九章「『革命について』とアメリカ革命史研究」(中野勝郎)、第一〇章「アーレント革命論への疑問」(松本礼二)をはじめ、どの章の論考も大変有益だと思います。今回、それぞれの分野での信頼できる研究者のみなさんが、ここは今から見ても大丈夫だとか、これはちょっと違うかもしれないという仕分けをしてくださっていて、これからアーレント研究を志す人は知っておくととても良いのではないかと思います。

出岡さんが第五章(「社会科学としてのアーレントの全体主義論」)でよくフォローしておられますが、海外では現在の学知、例えば比較政治学の研究とアーレントの議論を突き合わせて議論するというような研究がありますが、日本ではこれだけアーレント研究が盛んになっていても、アーレント研究者だけではなかなか出来ない部分がある。いつか誰かがやらなくてはいけない、でもなかなかやってくれそうな人がいなかった画期的な仕事がここで出来たと思います。
今日的な諸学知の見地から

出岡 直也氏
出岡
 アーレントに関する刊行物は、やはりファンの人によるものが多いので、アーレントを高く評価する傾向があるような印象がありますが、この本では批判的な方も書いているし、一冊の本の中でも立場が違う人が書いているというのが特徴的かと思います。それは自由度が高かったということなのですが、それがそういう形であらわれているとしたら、本書を刊行する意味があったのではないかと思います。
萩原
 実際にこの本の中では、松本礼二さんのアーレント論が一番壊滅的に批判されているのだろうと思うのですが(笑)、普通は歴史家がアーレントを歴史書として読むことはないだろうと思うわけで、歴史の研究者がアーレントのどこが駄目なのかをはっきり言うというのは、これまでになかったことだと思います。

いま出岡さんが仰った通りで、私などもそうかも知れませんが、アーレントファンの人がアーレントの良くないところには目をつぶり、アーレントの良い面を引っ張り出して宣伝しようみたいなタイプの本が、これまで出て来ているアーレント論の殆どでしょうし、その意味では例えば伊東孝之さん、出岡さんのような比較政治の人が分析的に正確にアーレントの全体主義論を読んで、今日的な見地からどこが使えるか使えないか、どういう問題点をこの先考えていかなければいけないのかを明らかにされていて、こういう論考はアーレント研究者にはとても書けないものじゃないかと思うのです。また教育的な効果を考えても、学生に対してこういうものは批判的に読まなくてはいけないというところまではなかなか目が届かないのが普通でしょうから、本書を執筆された先生方が良いお手本を示してくれていると思います。
川崎
 私のようなアーレント研究者としては、アーレントの何が面白いのかということについて今回改めて考えさせられました。以前、ちくま学芸文庫版の『革命について』に書いた解説の冒頭の部分で、『革命について』を《歴史とも思想史とも(規範理論という意味での)政治哲学ともつかないこの奇妙な》書物と書きました。さらに遡って、私の最初のアーレント論である『ハンナ・アレントの政治理論』(岩波書店)でも、自分がここで分析した知の塊(かたまり)はいったいどういうものなんだろうと、ほとほと困ったという終わり方をしているんです。
そのときは、アーレントが『暗い時代の人々』(筑摩書房)の中で使っている『テンペスト』の有名な引用部分から着想して、《思想や言語の忘れられた古層から掘り出された過去の断片が、豊かな思想へと変貌》する、要するにガラクタのようになったものも新しい見方をすれば再生できる、失われた伝統に新たな解釈を行なっていけばそこから新しい知が生まれるという解釈的な知として一応読み解きました。でも、そもそも解釈的な知というのはどういうものなのだろうか、事実や経験にもとづいて実証するのではないタイプの知識をどうやって位置づけたらいいのかと、その昔悩んだことが蘇ってきました。アーレントの面白さというのは、実証できない部分込みで面白い部分がある訳ですが、ではそれは何なのだろうかと改めて問いを突きつけられたなというのが私の印象です。
ポリティカル・セオリーの系列に属する

萩原 能久氏
萩原
 シェルドン・ウォーリンが『政治とヴィジョン』(福村出版)の中で書いていた話だと思いますが、彼は政治の科学と政治理論を対立させて、政治の科学はある意味で、事実を記述し、説明し、ある種の法則性を発見することによって、それを未来への予測に使う。科学的知識である限りは確実な知識でなくてはいけないでしょうし、客観的価値判断、善悪の判断などを排除した客観性を持っていなくてはいけない。それが科学的知識だと書いています。

でも知識というのは科学だけではなくて、もっと遥かに広いわけです。科学というのは知識のほんのひとつの部分にしか過ぎないと私は思うのですが、ウォーリンがポリティカル・セオリーに対して言っているのは、予測だとか説明ではなくて、我々が生きている社会に対する警告を発するということが、ポリティカル・セオリーの第一の課題であり、そのためにはあえて選択的に自分の主張したいことに合致するような事例ばかりを選択する。まったく科学的ではないし選択的で、ときには意図的な誇張も厭わないということが必要になってくるだろうし、何のためにそんなことをするのかといえば、自分たちが生きている社会をどんな方向に向けていったらいいのかという実践的な方向付け、あるいは未来をどう作っていくのかという、未来の展望というものをポリティカル・セオリーは求めているからなのだと。

私などが思うに、アーレントの議論というのは明らかにポリティカル・セオリーの系列に属することであって、今回の本が面白いのは、ポリティカル・セオリーをポリティカル・サイエンスの人がどう読むのかという話になっていることだと思います。川崎さんが仰ったように、現在、研究の中で完全に分業ができてしまっていて、ポリティカル・サイエンスの人はノーマティヴ・セオリー(規範理論)については一切口出ししないというように、お互いが肩をすくめあっているような状況なわけですから、その没交流を遮断する、堤防に穴を開けるくらいの、そういう意義はあるのかなというのが私の思うところです。
川崎
 出岡さんの最初の狙いからすると、この本はどうだったのでしょう。
出岡
 先にお話があったこととともに、ひそかに、現象の分析としての特徴に着目することで、逆に政治思想としてのアーレントの議論の特徴が見える面もあるのではないかという期待もあったのですが、最初に狙った通りではないかもしれませんが、何か新しい捉え方が出たのであれば嬉しいです。いずれにせよ、私のものは別として、とにかく個々の論考が素晴らしいと思っていますので、それで大満足です。全体として何が言えるかということは、読み込み方というか、読む人によっていろんな読み方があって、そこが多分この本の面白いところであり、型にはまらないところだと思います。
萩原
 私はこの本の中で空井護さん(第二章「『人間の条件』をいかに読むか」)が、最後に書かれていることに感銘を受けたのですが、どこに自分が惹かれるのかを素直に語っておられると思いました。

《人間存在についての反省と連想を促す人間学(anthropology)的な根本命題を内に秘めた作品として『人間の条件』を理解するとき、筆者にとって同書は最も「腑に落ちる」ものとなるのである。》(本書四七頁より)

人間理解という部分をアーレントの中に読み取っていらっしゃることに強い感銘を受けたのですが、政治学はこの部分を抜きにしたら単なる制度論や制度構築、選挙予測みたいなものに終始する学問になってしまう。そこに根本的にこういう視点を持っていただければ嬉しいと思ったんです。人間を理解するということを政治学的な視点の中に組み合わそうとされている。そういう意味で非常に感銘を受けました。
二〇世紀の知識人の仕事状況性との関係

川崎 修氏
川崎
 編者の我々は大体似たような年齢ですが、私たちが勉強を始めた頃は政治学だけでなく社会科学全般における「実証主義」の問題がよく論じられていました。たとえば、一九六〇年代にフランクフルト学派(ちなみに本書第六章は「フランクフルト学派の権威主義研究とアーレント」(保坂稔)です)とカール・ポパーたちとの間で行われた「実証主義論争」や、政治学の方では行動論(behaviorism)をめぐる論争などがありました。これらは学問における方法論の問題であると同時に、大陸ヨーロッパに起源を持つ、そこから亡命してきた人たちの学問と、アメリカやイギリスの中で育ってきて確立された学問との間の齟齬という側面もあったのですが、そういうものが一九六〇年代~八〇年代初頭くらいまでは割と意識されていた気がします。当時は私たちもある程度考えていましたが、振り返ってみると、ある時期から私自身はあまり考えなくなった気がします。なぜそうなったかというと、要するに棲み分けたという感じがありました。「実証主義」というかある種の経験科学的な方法でなければ成り立たない学問領域と、政治思想のようなそれには馴染みにくいとされる学問領域と、萩原さんが肩をすくめあってと仰ったけれども、そのような感じで棲み分けていった。それがこの本ではもう一度シャッフルされていて、空井さんをはじめ何人かの著者の方々のような「実証主義」的なものを重んじないと成り立たない学問領域の方が、そうではないところにも触れていらっしゃるところが、面白いところだと思います。

先程、萩原さんがウォーリンの話をされて、科学的な知識は知識の中の一部分だと仰いましたが、経験科学的な方法にフィットしないタイプの知識というのは、どういう知識なんだろうというと、否定形ではフィットしないと言えても肯定の形で言い表すのは難しい。これは多分現在のいろんな学問を考えていく中で起きている問題なのではないかと思います。客観的な知識というのは非人格的なもので、大事なのは誰が言ったかではなく、何を言ったかであると。しかし知識というのはたしかにそれだけではない。それは何なのだろうかと。本書序文で引用した、トニー・ジャットのエッセイには次のような文章があります。

《ハンナ・アーレントは一九七五年に死去した際に、奇妙で分裂した遺産を残した。ある人たちにとって彼女は、「大陸」哲学を実践することの最悪の部分を代表していた。すなわち、いかなる制度的もしくは知的規律によっても拘束されず、しばしば傲慢に、経験的な裏づけを考慮せずになされる、近代とその病理についての形而上学的思弁を代表していたのである。》(本書Ⅱ頁より)

英米圏では非経験科学的なモデルの知識に対する批判あるいは拒絶というのが、哲学や政治哲学の分野を含めて、ある部分では非常に強くある。ただ、逆にそこが良いんだという人がたくさんいるということもジャットはきちんと書いていて、そこが面白いし、よく見ているなと思います。

先程申し上げたように、非人格的で誰が言ったかではなく何を言ったかが大事であり、再現できることが大事だというような知識があるとすると、そうではないような知識は、誰がいつどこで言ったのかということが大事になってきます。ジャットはアーレントを、二〇世紀に消滅した知識人の一つの典型だと強調していますが、そうした「知識人」の仕事は、状況性との関係で成り立ってくる知識としての性格が大事なのではないかと思います。
萩原
 「二〇世紀版『文芸の共和国』」ということですね。
川崎
 ジャットが言うには、二〇世紀の知識人には二つのパターンがある。第一は党派的に頑張るというパターンで、ある政治的主張にコミットして、それを擁護して理論化する作業をしていく。これは右側も左側もそういう知識人はたくさんいた。ところがそうでない人たちもいて、そういう人たちは、そもそもコミットするのが嫌だとか、あるいはコミットしても弾き出されてしまう。ジャットはアーレントが周縁的な土地(ケーニヒスブルク)で育ったことが大事だと言っていますが、そうした知の地政学は別にしても、そのような周縁的な立場にいた人たちは、どこかにフルにコミットしたり旗を振ったりするのではなくて、ある意味、否が応でもコスモポリタンな形をとらざるを得ない。そういう存在の在り方をする知識人も、二〇世紀の知識人の一つの典型だと言うのです。そしてその代表としてジャットが挙げているのが、アーレントと、彼女が高く評価していたアルベール・カミュだというのです。
“新しい経験”を社会科学は捉えられるか

萩原 能久氏
萩原
 本書のタイトル「二〇世紀の経験」を提案したのは私なのですが、念頭にあったのは、二〇世紀は戦争と革命の世紀であり、メガデスの世紀であるということで、結局政治が国民を幸福にするどころか不幸にしてしまったという、そういう世紀だと思うんです。アレントの問題意識はまさにそこにあると思っていて、政治が我々を幸福にするのではなくて、なぜ斯くも不幸にさせることになってしまったのか、それを阻止するには一体何が必要かということは、彼女の深い問題意識だと思っているんです。私なりに考えてみると、その一番大きな要因になっているのは、フーコー的な問題関心になるのかも知れませんが、知と権力の結託問題になるのではないかと思っていて、そこがアーレントの根底にある部分ではないかと思っているのですが、川崎さんもジャットに触れられて、アーレントの一番根底にある、中心にある関心を二〇世紀における政治的悪の問題、ユダヤ人のジレンマの問題であるということを引用されています。  

私も今回はユダヤ人については書いていませんが、政治的悪の問題について、例えば本書の中で森川さんなどが、何か新しいことを始めるというアーレントの側面に注目されていますが、新しいことは良いこととは限らないわけです。これまで人類が経験してこなかった新しい経験なんだけれども、それは根本的に人間の明るい未来を創り出すものではなくて、ある種、人間の人間性をも破壊してしまうような、そういう新しいものも登場してくるだろうと。これは出岡さんもよくわかって書いていらっしゃると思うのですが、これまで経験してきていないものを経験科学がどうやって捉えることが出来るのかという問題性があると思います。
出岡
 関連すると思うのですが、川崎さんも先程仰っていたことですが、現実の現象についてのアーレントの解釈を学問的には評価できないと言う人も、非常に洞察力がある人だというのは認めていて、ではその洞察を使えば良いのではないかと私などは思ってしまうのですが、そうした洞察や彼女だから出来た大事な発見のようなことは、社会科学や歴史学をやる人間が参考に出来るのではないかと考えていて、問題はアーレントのような人でなければ為し得ない知や洞察があるのだろうかということで、彼女はその代表なのだろうかというところがお聞きしたいところです。
川崎
 よく発見の文脈と言いますが、社会科学的な研究をされている方でもそういう洞察をされている方はたくさんいらっしゃると思います。けれど、そこで思いついた一種の洞察、ひらめきは裏が取れていないわけで、それを学問の成果として書くことは多分出来ない。こんなことを何の根拠があって言えるのかという人がアーレントを読むと、そのように思う箇所も多々あるのではないかと思います。
出岡
 アーレントのもののような知の在り方の特徴と意義について、もう少し敷衍していただけないでしょうか。
川崎
 例えば、フーコーの知識人論、要するに何でも知っているような顔をする知識人の時代はもう終わったというのはよく言われる話ですが、まさに先ほど引用したジャットの言う「大陸」哲学の人たちのようなある種の思弁とどういう風に付き合ったら良いのかということがひとつあると思います。

もうひとつは先程、解釈的な知識と言いましたが、外在的、内在的という問題があって、要するにゲームの中に入らないとわからない知とどうつきあうかという問題があると思います。その概念体系や思考のシステムの外から見ると一体これは何かと思うけれど、中に入って見ればわかる感じがある。「大陸」哲学というのはそういう要素が強いですね。たぶん宗教なんていうものも典型的で、ある種の知の体系だけれども、それは外在的にはわからない。文学の解釈もそうでしょう。そう考えると人類の知識のかなりの部分はゲームに内在することではじめてわかる。少なくとも実在とそれについて語る言説が対応する真理というモデルでは理解できないような知のシステムというのがたくさんあって、かつ我々の生活はそれに依存して出来ているのだと思います。
九〇年代におけるアーレントの再評価

出岡 直也氏
出岡
 私がもともと知りたかったことのひとつとして、現実を理解するためにアーレントがどう使われているのかということがあります。今アーレントを研究する人や読む人が多いのは、どこが大事でどこが面白いと思ってアーレントの人気が出ているのでしょうか。
萩原
 先程の川崎さんのお話を受けて言うのですが、少し前まではアーレント研究はテキスト解釈がメインだったと思います。このテキストをどのように読み込むのか、法律家が条文を解釈するように、アーレントのテキストをいかに解釈するかが腕の見せどころだったようなところがありましたが、今の若い人たちの研究などを見ていると、どちらかというと文脈なんです。つまり、なぜアーレントはこんなことを言っているのかということを当時の状況との相関関係の中で解釈する。テキストそのものではなく、そのテキストを生み出した当時の情況、文脈の中に位置付け直すみたいなことをやっている人が多いですね。
出岡
 私のような門外漢からは、では何のためにそういうことが大事なのかという質問もしたくなってしまいます。森川さんの章などはかなり明確な目的意識がありますが、世界を良くするとか政治を良くする、あるいは現実的な政治の問題点を発見するといったことなのでしょうか。今のアーレントの読まれ方、使われ方は何なのだろうかと。
川崎
 これは個人的な経験で恐縮なのですが、『全体主義の起原』(みすず書房)という本は、アーレントの研究を始めた頃は本当によく分からない本だと思いました。この本は一九五一年に刊行されていますが、ナチ期のドイツやスターリンのソ連についてちゃんとした資料などないような時期に書かれた本を今更読む意味があるのかと、敬遠をしていたのです。そして改めてこの本の研究に取り組みだしたのが一九九〇年代でした。その当時は旧ユーゴスラヴィアの内戦などがあった頃ですが、今度はこの本に書かれたことが逐一よくわかるということになってしまいました。不幸なことですが。本書第八章「ネーションと国家がズレるとき」(山本信人)は私も興味深く読みましたが、二〇世紀のナショナリズムの古典は、ベネディクト・アンダーソン、アーネスト・ゲルナー、アントニー・スミスといった非常に狭い文脈・サークルの議論で出てきた話で、当然そことアーレントの『全体主義の起原』は関係がない。だが九〇年代になってナショナリズム論が改めて取り沙汰されるようになったときに、アーレントが再発見されたというのは、私の個人的な経験としてもよくわかりました。
萩原
 日本でのアーレント研究の文脈において、この『全体主義の起原』をアーレントの主著として「ネーションによる国家の征服」という視点からアーレント論を最初に書かれたのが川崎さんでした。それ以前のアーレント研究というのは、実存主義的なアーレント解釈が中心的だったと思います。ある意味で九〇年代になって初めてアガンベンだとかの議論が出てくる中で、ネーションと国家の乖離の問題、例えば人権の問題で言えば、国家が国民の権利として普遍的な人権を守るという、普遍的なものを個別的なものによって担保しようという無理が表出してきたというのが九〇年代の内戦や難民の問題となって現れてきたとするならば、まさに先取りされた読み方をされていたと思います。
いまアーレントから何を学ぶべきか

川崎
 アーレントの著作で、ある時期注目されたのは『人間の条件』(ちくま学芸文庫)だったと思いますが、今はまた『全体主義の起原』ですね。そういう状況の変化もあると思います。これも昔書いたことの繰り返しですが、『革命について』の解説の最後のところでこのように書きました。

《アレントという思想家は、本来、解答よりも問題を与える思想家であり、だからこそ、その思想が与える「違和感」は、むしろ思想の本質的条件とさえ言える。そして、『革命について』は、改めて言うまでもなく、実証史学書でも、ユートピア構想でも、社会改良のための処方箋でもない。したがって、それがはらんでいる「真理」は、事実との整合性や提案の実効性・有用性を尺度としては計りえない。そして、もしそのような言説が何らかの意味を有しているとするならば、それは、読み手との対話の中でその都度見いだされていくものでしかない。》

いま、我々がアーレントから何を学ぶべきかという問いは当然聞きたい問いですが、アーレントはそれにストレートに答える人ではない。しかし、それが何らかの形で人々を惹きつける。私もカッコ付きの真理と書きましたが、そういう何かをはらんでいるんだろうと思います。そこであえて言うならば、アーレントの面白さは「違和感」じゃないかと思うのです。ある現象についてちゃんと理屈づけて欲しいと思う場合に頼る人はアーレントではない。でも、この人は変なことを言う人だが、自分が考えつかないようなことを言ってくれる、それも突拍子もなく遠くて理解不能なのではなく、何か共感できるものもある。そんなある種の距離感みたいなものが彼女の面白さにはあるように思います。
出岡
 先程までの話を私が正しく理解していれば、いまアーレントが読まれている、人気がある理由のひとつは、現在の現象の理解にも彼女の議論が役に立つことがあるからであり、とすれば特に、アクチュアルな関心からも、彼女が向き合った現象についての彼女の議論の内容自体からも、また、向き合った現象に対する思考の仕方からも、学べることが多いように思います。
萩原
 人間というのは忘却する生き物で、喉元過ぎれば熱さ忘れるわけです。「二〇世紀の経験」というタイトルにある通り、経験から我々は一体何を学ぶのか、実は一番学ばなければならないことを忘れているのではないかと。私にとって核心部分にあるのは政治の暴力性ということで、その政治の暴力性と我々はいかに向き合っていかなくてはいけないのかということに対する、ある種の警告を我々に思い起こさせてくれる存在になっていると思います。

(おわり)

この記事の中でご紹介した本
アーレントと二〇世紀の経験/慶應義塾大学出版会
アーレントと二〇世紀の経験
著 者:川崎 修
編集者:萩原 能久
出版社:慶應義塾大学出版会
以下のオンライン書店でご購入できます
2017年10月6日 新聞掲載(第3209号)
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