平石直昭・宮村治雄・山辺春彦  一九五〇年代の丸山眞男 『丸山眞男講義録 別冊一・二』別冊全二巻刊行を機に|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 特集
2017年10月19日

平石直昭・宮村治雄・山辺春彦 
一九五〇年代の丸山眞男
『丸山眞男講義録 別冊一・二』別冊全二巻刊行を機に

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丸山 眞男
戦後日本を代表する政治思想史家・丸山眞男が亡くなってから二一年が経つ。岩波書店からは『丸山眞男集』全十六巻・別巻一ならびに『丸山眞男座談』全九冊が、また東京大学出版会からは『丸山眞男講義録』全七巻が刊行されている。現代政治・社会を考えるうえで、未だに多くの視点を与えつづける丸山眞男の、一九五〇年代後半の講義録が、東京大学出版会から新たに刊行された(『丸山眞男講義録 別冊一・二』)。刊行を機に、編集委員を務められた平石直昭・宮村治雄・山辺春彦の三氏に鼎談をしてもらった。(編集部)

大きな転換期

山辺 春彦氏
山辺 
 丸山眞男の講義録はこれまで、七冊刊行されております(第一期、一九九八~二〇〇〇年)。一九四〇年代が二冊、六〇年代が五冊です。今回の『別冊』全二巻は、このあいだの時期にあたる五〇年代後半の講義録ですが、まずは前回の編集委員も務められたおふたりに、第一期を振り返りつつ、お話しいただけますか。
平石 
 今回の刊行の辞に詳しく記してありますので、ごく簡単に流れだけを説明します。一九九六年八月一五日に丸山さんが亡くなられるずっと前から、東京大学出版会とのあいだで、日本政治思想史に関わる講義録を刊行する約束がありました。『丸山眞男集』第二巻の月報に、同出版会の元編集者・石井和夫さんがそのことを書かれています。『日本政治思想史研究』につづく、丸山さんの二冊目の本として予定されていたとのことです。しかし、結局実現されず、丸山さんは亡くなられた。ただ、亡くなる前の年に、出版会の門倉弘さん、竹中英俊さんと私の三人で、丸山家を訪ねて、講義録出版についてお話をうかがいました。まず戦争直後の講義として四八年度の日本政治思想史、六〇年度に法学部で一度だけ講じた政治学、「原型」という新たな分析視角を投入して行なった六四年度、そして結果的に東京大学法学部での最終講義になった六七年度の日本政治思想史。これら四冊を歴史的な記録として公刊するというのが、丸山プランでした。その話を受けて、我々丸山のもとで学んだ研究者が編集作業をはじめました。自筆ノートやプリント類の整理、受講した学生への資料提供の呼びかけ等々は、門倉さんが獅子奮迅の働きをしてくれました。丸山家には自筆ノート十一冊、主題別に史料を抜粋したノートが十九冊あって、これも門倉さんがおおよその年代推定をしてくれました。その後、四八年度を宮村さん、六〇年度を渡辺浩さん、六四年度を飯田泰三さん、六七年度を私と、四人の研究者が役割分担し編集にあたったわけです。ところが実際やってみると、六四年度から六七年度にかけては、四年間にわたって、古代から近世までの通史になっていることがわかった。それなら丸山の通史構想をみるためにも、最初のプランにはないけれども、六五・六六年度も復元した方がいいのではないか。そう判断して、二冊増えました。また宮村さんからは、戦後直後の講義は、近世と近代を交互に扱う構成になっている。その点を踏まえると、四八年度に加えて、翌四九年度の近代日本のナショナリズムを中心にした講義録も出した方がいいのではないかという提案がありました。こうして第一期は七冊になったというのが、全体の流れです。

第一期七冊を編集する過程で、ひとつ問題が意識されました。日本政治思想史講義に限っていうと、出発点である四八・四九年度の講義、それと到達点としての六〇年代半ばの講義、これは活字にすることができた。ところが、中間の五〇年代の後半がすっぽり落ちてしまったことです。この時期の講義が持っている意味がとても重要であることは、丸山自身も生前語っています。『別冊二』の解説に書かれていますが、横からの「文化接触」という分析視点を投入することで、今までとは違う、新しい日本思想史の展開を考えるようになったという。これが五〇年代後半の講義から、丸山の中で起こった変化で、その点を裏付ける資料も、第一期の編集作業の最終局面で出てきました。不完全なものですが、当時の自筆ノートが発見されたのです。こうした背景の上で、今回、『別冊』二巻を出せるようになったのには、二つの事情が大きく働いています。一つは一九九九年に丸山の遺した蔵書・草稿類すべてが、遺族から東京女子大学に寄贈され、丸山眞男文庫が設立されたことです(受贈式は九八年)。そして各種資料の調査が始まり、講義原稿の同定作業も進みました。もう一つは二〇一二年度から、東京女子大学の「丸山眞男研究プロジェクト」が文科省の「私立大学戦略的研究基盤形成支援事業」に採択されたことです。これによって、それまで以上に、若い人たちの助力・支援を得る環境が整い、資料の整理が加速され、またデジタル化も進められました。こうして別冊二巻を刊行する基礎が出来て、現在に至ったわけです。
宮村 
 私からは、五六年度から五九年度までの四年分を二冊で出す、その配分をどうするかということについて話しておきたいと思います。平石さんがいわれたように、五〇年代後半に丸山さんの中で、日本政治思想史研究における大きな転換があった。確かに四年間の講義録を辿っていくと、戦後初期の講義とは違った、日本政治思想史についての捉え方が具体的に出てきている。大きく分けていうと、ふたつの側面を持っていたと思います。ひとつは、日本政治思想史の射程を古代にまで遡って、全体を通して考えていく。それまでは近世・近代という流れの中で捉えられていましたから、これは大きな変化だといえます。もうひとつは、近世・近代を、「開国」という問題に焦点を当てて考えていく。ふたつは相互に関連していると思いますけれども、分けて考えてみると、前者の側面を明確に打ち出しているのが五六・五九年度講義、後者の側面を比較的集中的に論じているのが五七・五八年度です。四年間の講義を、丸山自身の関心に沿って構成すれば、そうした分け方になります。暦年講義の復元という点ではおかしいんですが、丸山の日本政治思想史全体についての見通しが、方法的な意味でも、思想史の具体的ビジョンにおいても大きく変わる、その変わり方をクリアに示すために、別冊二冊は、この構成を採用したということですね。これで五〇年代後半期の政治思想史講義は全容が復元できたと思います。
補足しておくと、開国という新しい視点は、突然出てきたのではありません。四三・四四年度の戦中講義の時から既にあった問題に、改めて立ち返って見直していく。そうした側面を同時に持っていた。だから、戦中講義あるいは戦後直後の講義との関連をも明らかにする。そのことによって、戦中からつづく丸山さんの日本政治思想史講義の全貌を辿ることができます。戦中・戦後の講義の復元作業については、平石さんがおっしゃった「丸山眞男研究プロジェクト」のスタッフたちが、本当に頑張ってくれました。非常に大変な作業であり、中心になって担当してくれたのが、山辺さんです。
連続する問題意識

山辺 
 ここで、今回の二冊のテキストがどのように作られたか、編集の仕方についてまとめてお話ししたいと思います。まず、『別冊二』に収録した五七年度と五八年度の講義ですが、両年度とも、講義を受講した学生が、東大出版会教材部の委嘱を受けて講義プリントを作成しています。これは、印刷される前に丸山自身が目を通しています。丸山文庫にも一部ずつ収められているのですが、これには丸山による訂正や追加の書き入れが残されています。『別冊二』は、基本的にこの丸山文庫所蔵の講義プリントを元にし、講義で用いられた丸山の自筆原稿との校合を行いました。さらに今おっしゃったように、戦中と戦後直後の講義原稿を再使用している部分は、「丸山眞男研究プロジェクト」の成果として復元された原稿をそのまま用いました。このようにして、たとえばキリスト教(キリシタン)や儒教について、すでに戦中の講義で実質的に「文化接触」や外来思想の変容という視角から分析されており、五七年度講義の「開国」という視点との間に問題意識の連続性があることを、読者にもよくわかるように示しています。
次に『別冊一』ですが、古代の神国思想、中世までの仏教、武士の意識(武士道)を論じている前半の三つの章は、さきほどのお話にありました通り、新たに発見された自筆ノートから、五六年度の講義のために準備された部分を忠実に再現しています。その上で、自筆ノートでは文章になっていない箇所は受講した学生のノートから補い、また五九年度講義で新たな展開がなされた部分を自筆原稿や講義プリントなどから付け加える、というかたちで編集されています。近世を対象とする四章から六章までは、四八年度の講義原稿を元に講義されている部分が多いのですが、この原稿は第一期の第一冊で忠実に起こされています。そこで『別冊一』では、学生の受講ノートを元にして復元しました。ですから、『別冊一』の前半と後半で、また『別冊一』と『別冊二』のあいだで、編集方針が異なります。この差異は残された資料のあり方に由来しますが、その背後には、講義の構想や、それまでの講義との関係に違いがあるという事情があるわけです。
平石 
 山辺さんの話を受けて、五六年度講義について補足します。丸山の講義を聴いた学生が、東大出版会の教材部とアルバイト契約を結び、自分のノートを元にして、ガリ版でプリントを作るわけですね。それを「試験対策」用に販売する。ただ、このプリントは、丸山自身にとっても有益だったようです。というのは、講義の準備をする十分な時間がない時は、使用する史料の抜粋と、簡単なメモ程度しか書く余裕がない。実際に授業でどういう話をしたかは、自分の手許には文字として残っていないわけです。ところがその内容が、どこまで正確かはともかく、活字化されてプリントとして残っているからです。ただそのプリントが、五九年度のはあるのですが、五六年度のはないんです。丸山は生前、初めて古代まで遡って講義したのは、五九年度からだと回顧しました。岩波の『丸山眞男集』別巻に収録されている年譜も、初刷ではこの発言を元に、一九五九年の項に「東洋政治思想史の構想を改めて、記紀の時代まで遡って講義する」という趣旨の記載があります。しかし、今話したように、第一期の編集の最終段階で自筆ノートが発見されました。そして聴講した横溝さんの受講ノートとそれを照合した結果、古代について初めて講義したのは五六年度だということが判明したわけです。ですから今の年譜ではそこは改訂されています。 
「原型」論の原型

平石 直昭氏
平石 
 ただ当時私は、自筆ノートの主な中身が何年度のものに当るかについて、大きな判断ミスをしました。横溝ノートは講義を忠実に筆記しようとして、独特な崩し字で書かれている。判読しにくいわけです。それもあって五六年度に書かれた部分を、五九年度のものと誤ってしまいました。今回、中国政治思想史家の近藤邦康さんがご自分の受講ノートを提供して下さり、それもあわせて照合したところ、五六年度のものと確定できました。これを『別冊一』として公刊することで、その点を正すことができてよかったです。逆にいうと丸山は、私が考えていたよりも三年も前に、たとえばキリスト教の世界観や中国の道を中心とする世界観と比較して、日本の原始神道はどういう思想像を持っているかという話をしていた。そこが本当に驚きでした。つまり、宮村さんがいわれたように、古代まで遡って日本について考える、その問題関心がクリアに出ていて、ヨーロッパや中国と比較する視角を、五六年度にもう出している。ここに六〇年代の「原型」論の原型があることもはっきりしました。新しい発見だと思います。
宮村 
 編集方針について、詳しく話したのには、大きな理由があるわけですよね。講義録刊行の基本的な目的は、講義を復元することですが、その過程で、丸山眞男を独立の他者として扱い、彼が一体何を語ったのか、できるだけ正確に明らかにする。それをしないと、日本政治思想史の講義あるいはその前提になっている丸山さんの研究が、評価の対象として確立できないのではないか。そう考えた。丸山さんのテキストは、すべてを自分ひとりで書き表したというものではない。実際に書いたものもあるけれど、元からある非常に広く、深い知見のかなりの部分が、講義の中で語られていたことだった。それを正確にテキスト化するのが、最大の目的でありました。だから、とても入り組んだテキスト構造になっているし、編集上も、そこを誤まらないようにする。ここにエネルギーが費やされたんだと思います。そうすることによってはじめて、戦中から最晩年の講義に至るまで、丸山さんの思索の跡を捉えることができる、ある意味で今回、最重要と思えるテキストを、読者に提供することができるようになった。これは編集にあたったものとして自負できることだと考えています。
平石 
 我々がやってきたことは、一種の「知の考古学」だということを加藤敬事さんが指摘してくれました。戦中の地層も、戦後すぐの地層もあり、それが入り組んでいる。さらに五〇年代後半の地層があり、六〇年代の地層もある。単に六〇年代の地層だけを見ていては駄目で、それがどのような前提のもとに出来上がってきたかを理解しないと、その原点がわからないわけです。逆にいうと、丸山の六〇年代の思考を理解する上で、今度の別冊に収録された五〇年代の講義録は、大きな示唆を与えるものだと思います。
山辺 
 次に、具体的な内容に踏み込んで話していきたいと思います。『別冊一』からはじめたいのですが、六〇年代の講義と連続している面、あるいは異なる面はどの辺りにあるのか。また、今のお話とも関わりますが、六〇年代の講義を理解する上で、それに先立つ五〇年代後半の講義の内容がもつ意味について、お話しいただけますでしょうか。
平石 
 その問題に直接お答えする代わりに、少し違った観点から話をさせて下さい。今回『別冊一』の解説を書く時に、なかなかポイントが掴めずに苦労しました。丸山は五六年度講義ではじめて古代まで遡って講義をするわけですが、そのモチーフや問題関心をどう理解するか、ということです。むろん講義である以上、古代からの通史を概論的に話すのは当り前という見方もある。しかし丸山のは、そうした種類の通史ではない。むしろ基本的に問題史です。その問題が何かということですね。もちろんそれは、従来の近世・近代を舞台にして語ってきた彼の関心と繋がっています。しかし他方で、以前の関心をそのまま古代や中世に投影して彼の通史ができているかというと、そうではない。そこには幾つかの新しい要素が複合的に作用している。ですから講義を理解するためには、丸山がどんな新しい関心から「通史」に挑んだのかを明らかにする必要がある。この点で私は、丸山の内部で断絶ないし飛躍があった、五六年度講義は彼にとって学問的冒険で、新たな出発だったと思います。推測が入りますが、戦後、日本人の精神的な信条体系だった天皇制が崩壊して、精神的無秩序状態におちいる。そして、元々あった思想や戦後に流入した観念やが、各人の内面で、整理されないまま雑多に噴出し、渦巻くという精神状況が生じた。丸山は「思想の雑居状態」といいますが、これは戦後の大衆社会状況の出現とも深く関わっている。彼はそれを認識するとともに、その底に古代以来の思考様式が依然として流れ続けているという問題にぶつかった。そして思想史家として、この現に起こっている事態を歴史的に解明するために、古代の記紀神話の世界にまで遡ることが必要と考えた。仏教についても同じです。普遍宗教として出発したはずのそれが、政治権力に対して自律性をもたず、徳川時代には行政組織の末端を担うようになってしまう。起源に遡ってそれを明らかにしようとした。これは事実関係を確定しながら厳密にやろうとすれば、とても大きな努力を要する仕事ですね。今回、山辺さんと一緒に『別冊一』の編集をしてわかったことですが、たとえば仏教関係については、中村元の『東洋人の思惟方法』、三枝博音・鳥井博郎共著の『日本宗教思想史』、辻善之助の『日本仏教史』といった著作を参考書として使い、自分の関心に沿う史料をそれらから抜き出して、再構成しています。その際の主な基準は、マックス・ヴェーバーです。彼の「呪術からの解放」という概念を軸にして、二次文献から知識を摂取して、日本仏教に対する批判的考察をしている。近世儒教に関しては、一次史料から独自の構成をしているわけですが、五六年度講義は最初の挑戦で、全部について一次史料から構成するだけの余裕がなかった。他方で思想史家として丸山は、現下の問題に対して、日本史全体を視野に入れて答えようとした。それは大きな挑戦だったと思います。
丸山内部での発展

山辺 
 武士のエートス論に関しても、五六年度講義は五九年度講義と、あるいは六〇年代の講義と比較して、力点の置き方に違いがあるように思われます。五九年度講義では、「忠誠と反逆」(一九六〇年)の執筆と並行していたこともあって、主君との関係を解消できないという不自由さから、逆説的に能動的な忠義の「逆エン」が出てくることや、疑似的なものではあるけれども個人主義が見られる点が強調されています。こうした見方は、五六年度講義では前面に出てきておりません。そこではむしろ、ルース・ベネディクトのいう「恥の文化」、「集団的なモラル」という観点から、武士の名誉感が捉えられています。そこにはやはり違いがあり、学問的には、五九年度以降の議論にいたる前の段階にあるように思われます。解説にも書かれていますが、五六年度講義では、武士道の歴史的な変遷を丁寧に追うという関心が強いという印象を受けます。
平石 
 おっしゃる通りですね。山辺さんの話に引きつけていうと、五六年度講義の儒教を論じた箇所(『別冊一』第四章)で、儒教は徳川時代に体制イデオロギーになったにも拘わらず、儒教の観念が機能転換して、体制を批判したり、明治の新体制に連なるような事態が生じたと指摘されています。その意味では、体制イデオロギーが体制を壊す逆説的な役割を果たしたというわけですね。たとえば大義名分という観念です。元は徳川体制の正当化のために作用していたそれが、天皇を忠誠対象に設定することで、幕末には、反幕府的な観念として使われるようになった。あるいは朱子学の「究理」という観念が、佐久間象山では、ヨーロッパの自然科学を評価する観念として使われる。さらに横井小楠の場合は、元々は朱子学的観念である「天地公共の実理」が、国際法を評価する方向に読み替えられてゆく。様々な面で体制イデオロギーだった儒教の観念が、近代的なものを評価し、幕藩体制を批判する機能を果たすようになる。その意味で、思想史は独自の展開をする。権力がイデオロギーを利用しても、イデオロギーが自己運動して反逆する。それが思想史の通例だと言っています。

この見方を武士道に適用すると、山辺さんがいわれたような見方が出てくる。たとえば『葉隠』ですね。儒教からすると「君臣は義を以て合する」ものですから、意見のあわない主君だったら臣下は去ってよい。しかし武士の「主従の契り」は、男女の契りよりも深いとされて、従者は去ることができない。ですから、死を賭した諫争によって、主君を変えていくしかない。結果として非常にダイナミックになるし、一種の個人人格性みたいなものが出てくる。「恥の文化」とは反対に、リースマン風にいえば、一種の「内面志向的」な観念が出てくるというわけですね。五六年度講義で示された儒学についての逆説的な見方を、武士道に適用すると、そういう見方が現われる。おっしゃるように、そこには丸山の内部で発展があったと思います。
一九五六年という年

宮村 治雄氏
宮村 
 『別冊二』の新しさ、特色についても話しておきたいと思います。これは幕藩体制の捉え方に、集約的に出ています。幕藩体制における思想史研究は、丸山眞男の出発点でもあります。『日本政治思想史研究』の三論文は、まさに近世の儒学史を中心に論じたものです。では、なぜ出発点として徳川思想史を選択したのか。いろんな理由があります。まず思想史の対象として見た場合、徳川時代が持っている特色とは何か。儒学が、初めて体制全体の視座構造を作り上げたということですよね。そして徳川時代全体を通して、その視座構造が徐々に解体していく。江戸時代は対外的な関係が遮断され、儒学思想、とりわけ朱子学的な概念枠組みが持続的に働くことにより、ひとつのドグマが辿った過程を捉えられる唯一の時代だった。相対的に特異な時代であったが故に、朱子学的思考様式が長い間かかって変容していく過程を辿ることができる。そこから体制を支えていた思考様式とは違った、近代に繋がっていく思想の萌芽が、いろんなかたちで出てくる。社会が閉ざされているからこそ、解体過程が思想史として辿り得るし、独立した研究対象になり得る。これが『日本政治思想史研究』の基本的な理解です。

しかし五七年度講義では、江戸時代を他の時代と区別して、特異な自己完結的な時代としては捉えていません。前の時代、後の時代と通じる文脈の中で見直してみたらどうなるかという視点で考えている。たとえば室町末期から戦国にかけての時代が孕んでいた、社会的にも思想的にもダイナミックな展開過程があります。それを人為的に凍結させて、単にイデオロギーの次元で朱子学に限定して、江戸時代を考えるのではなく、統治のシステムから見ていく。さらに、人間の行動様式がどのように社会全体の局面に貫かれているのか。全体として捉えながら、あの時代の特色を考えていく。それまであった流動的で、しかも対外的にも開かれていた〈open society〉へのチャンスを持っていた時代が、まったく別の社会のタイプに転換していく。しかも人為的に転換されつつ構成された〈closed dsociety〉へと変わる。そのようなプロセスの中で、江戸時代を見る。そうすると、江戸時代全体の思想史が、単にドグメンゲジヒテ(教義史・理論史)のレベルではなく、社会全体を貫いている精神史として捉えることができる。そこから、幕末維新から明治にかけての開国という現象が出てくるわけです。

では、維新というものは、〈closed society〉の精神を内側から克服した、新しい〈open society〉を作り出す思想によって支えられていたのか。単に対外関係の転換や、支配構造の転換として維新を考えるのではなく、〈closed society〉から〈open society〉への転換を、どれだけ果たした出来事であったかを考えていく。そうした批判的検証であり、ここが五七・五八年度講義における、徳川社会論についての丸山眞男の新しい関心であり、それを実現するために、むしろインテレクチュアル・ヒストリーともいうべき思想史の方法にシフトしていった。そのことがひとつあったと思います。日本の近代の問題を見る時に、開国から出発はしたけれど、後にどこまで〈open society〉として結実していったのか。逆に天皇制国家という形で、別の〈closed society〉へと繋がっていく歴史過程があったのではないか。もし本当の意味での〈open society〉への萌芽があったとしたら、誰がどういう形で担い発見していったのか。そうやって近代の問題をも見直していく。

丸山さんの新しい問題関心、思想史の展開の元にあったのは何か。平石さんもおっしゃったけれども、戦後の問題状況に対する批判的なスタンスだったと思います。どうして日本の戦後が、こんなことになってしまったのか。つまり、戦後十年の期間の日本社会の辿った大きな変化を、丸山眞男はしっかりと見ていた。本来であれば、古代以来問われることがなかった、天皇制に対するオルタナティブの可能性が開かれてもいい時代だった。しかし国民の意志に委ねられていた可能性が、戦後十年でどんどん後退し、ほとんど消滅してしまった。そのことと並んで、思想的な雑居状況が猛烈に拡大再生産されていく。一見〈open society〉への可能性が高まったと見えながらも、実は〈closed society〉のままであった。そうした状況に対して、直接批判する言葉を語るだけではなく、日本社会の歴史を通して、どうやってそれを批判する視座を作り上げることができるか。これが戦後十年の中で、丸山さんの中に徐々に作り出されていった視点じゃないか。だからこそ、五〇年代後半が、学問的にも大きな転換になっていたんだと思います。
平石 
 宮村さんが今いわれたことは、山辺さんの先ほど出された問題にも関わりますね。『別冊一』の解説に書かれていますが、一九五六年は、経済白書が「もはや戦後ではない」と謳った年にあたります。ただ実は白書が出る前に、評論家の中野好夫が『文藝春秋』二月号に「もはや「戦後」ではない」と書いています。戦争が終わって十年間は、いわば何もかも戦争のせいにして、いい加減な態度で過ごしてきた。しかし、これからは真面目な態度で過去を反省し、きちんとした将来像を持って進まねばいけないと訴えました。けれども高度成長に入っていく時期でもあり、人々の気持ちがどこまで反省に向かったかは疑問です。注意したいのは、同じ頃、社会学者のきだみのるが、文芸誌『群像』で「日本文化の根底に潜むもの」という評論を連載していて、丸山がこれを高く評価していることです。五六年十二月に、丸山の『現代政治の思想と行動』の上巻が出ますが、その「追記および補註」で、丸山がきだの評論に触れています。引用すると、「部落共同体の精神構造がほとんど超歴史的なまでの強靱さを以て日本文化のあらゆる面に特殊な刻印を押している」様子が興味深く語られている。「日本人の思考と行動様式を最深の層で」捉えようというきだの方向は、「日本政治の本当の動態を知ろうとする者にとっても」看過できない意味をもつという。つまり表層の激しい動きだけでなく、深層における意識の変化を見る必要がある。そう丸山は評している。この「追記」は、上巻が出る二、三ヶ月前に書かれたと思われますが、とすれば、十一月に講義がはじまる直前に書かれたことになる。そこから推測されるのは、講義で丸山が記紀神話を分析して、天皇家と有力豪族との間に血縁関係が擬制され、それが統治のコアをなしていると指摘する背景には、日本人の思考の深層にある共同体的意識の源流を捉えようという関心があっただろうということです。

もうひとつは、宮村さんが指摘されたことに関連しますが、日本における政治権力の正統性根拠に関する問題です。これには、天照大神が下したとされる「天壌無窮の神勅」があるわけです。自らの血筋にあるものが、葦原中国・瑞穂の国を治めるという。日本の歴史を通して、これが原理的には否定されずにきました。大日本帝国憲法によって強化され、かつ教育勅語によって国民の中に叩き込まれた論理です。戦後になってはじめて、南原繁が貴族院における質問の中で公然とその問題を取りあげ、憲法改正に触れながら「肇国以来の大革命」といった。この南原の言葉を、丸山は五六年度講義で引いています。たった十数年前まで、記紀神話の神勅的正統性の原理が、日本国民を強く縛っていた。これと正面から対決することなしには、戦後のデモクラシーは建前としてあるだけだと問題提起した。彼の根本には、記紀神話の批判的な対象化というモチーフがあった。この点は、六〇年代以降の「原型」論の原点を考える上で、非常に重要だと思います。学問的に「原型」論がどこまで正しいかを論ずると同時に、丸山がそれによって何を問題としていたのか、その問いと関連させて「原型」論がもつ意味を考える必要がある。そうでないと、丸山が苦闘した問題が抜け落ちてしまう。かりに「原型」論に学問的に瑕疵があるとしても、それを提起した丸山の問題意識は継承し発展させてゆく必要がある。そう私は考えています。
重層的な思索

宮村 
 復元された五六年度講義のテキストを見て、私が一番大きなショックを受けたのも、そのことです。丸山さんは「ポツダム宣言以降の開かれたチャンス」について論じています。つまり、それまでは、神道はいうまでもなく、仏教の立場に立とうが、儒教の立場に立とうが、天皇の支配的権威に対して、オルタナティブを提供したことが一切なかった。それが開かれた。そのチャンスをどこまで生かしたのか。あるいは、天皇制への批判を通して、どこまで戦後のデモクラシーを基礎づけようとしたのか。この検証がほとんどなされないまま十年経ってしまった。丸山さんにとって、この間の推移は、非常に深い問題関心としてあった。だから五〇年代後半で、思想史の見方が変わる。根本にあったのは、戦後十年間、せっかくの開かれたチャンスを、生かすどころかなし崩しにしてきたことへの怒りだったのではないか。これは開国の問題に対する関心と表裏一体です。〈open society〉への方向づけが、日本社会にあるとしたらどういうかたちであったのか。丸山さんの中で関心がずっと持続している。いわば執拗低音の側面があり、それから開国への可能性を表裏一体な問題として論じていく。その原型が五〇年代後半の講義にあり、ご自身の中でも自覚されていったのではないか。ここが、『別冊一・二』が具体的に提出している新しい問題だろうと思います。

補足しておくと、五六年度の講義案を作る上で、二次的な研究を丸山は生かしていると、平石さんが指摘されましたよね。中村元さんや辻善之助さんといった仏教・神道の専門的な研究だけではなく、先行する日本思想史の大研究者、和辻哲郎、津田左右吉、村岡典嗣の研究に対して、自分はどういうスタンスを取るのか。思想史において自分の新しいビジョンを作り上げていく過程で、同時に先行世代の日本思想史研究と絶えず対話している。六一年に発表される「近代日本における思想史的方法の形成」という論文があります。結局は未完に終わりますが、構想はほとんど最後まで出来上がっていた。あそこで論じられる問題にまで繋がっていくものがあった。五〇年代における丸山眞男の日本政治思想史像の再構築のプロセスは、単に新しいビジョンを取り出していく努力だけではなく、先行する世代とどう向き合うかという側面もあったと思います。
平石 
 前の世代をどういうふうに内在的に批判していくか。批判的継承ということですね。
宮村 
 繰り返しになりますが、戦後十年経ち、同時代史的な問題関心と、先行する思想史研究の継承と批判という学問的課題があり、もうひとつ政治学的な問題関心を背景にしつつ、それらがいろんなかたちで、五〇年代後半の講義に現われてきていた。また〈open society〉と〈closed society〉という枠組みを出してくる場合も、単に閉ざされた社会から開かれた社会への発展段階として捉えるのではなく、常に両方がオーバーラップし合っていると考える。政治学的な問題関心から見れば、一九五〇年代の冷戦状況の中で、〈open society〉への道を主張すること自体に、〈closed society〉の論理が潜んでいるんじゃないかとも考えた。つまり冷戦的思考の問題にも、きちんと目配りしていた。さらに、ほとんど同時期に書かれる『日本の思想』に収録される「思想のあり方について」にも関わってくる問題があります。現代社会のように視野が極端に広がると、ほとんど隈なく世界中が見渡せるようになる。そうすると逆に、自分で直接見て判断し、決断していくことの負担感が大きくなっていく。開かれた社会といいつつも、ある種のステレオタイプへの後退現象が生じる。ここでも二つのソサエティのあいだに、新しい相互関係が生まれてくるわけです。

江戸時代論の話に戻ると、以前まであった〈open society〉への可能性をどうやって封じ込めていくか。いろんな統治のテクニックが試みられたわけです。それが社会に浸透することによって、文化的な洗練の中に潜んでくる〈closed society〉の精神が、新たに現われてくる。そういう議論ですよね。平石さんが指摘されたように、一見〈closed society〉のイデオロギーとして受けとめられてきた儒教的な概念が、あるシチュエーションの中で機能転換していく。こうした可能性も生み出される。この二重性。単に視野が広がるだけではなく、認識枠組みが、どのように作り替えられていくか。そこから新しく開かれた関係を捉え、どう受け入れていくことができるか。その問題関心が、江戸時代の新しい展開を考えていく過程で、丸山さんの中に出てくる。いろんな意味で、五〇年代後半には、次に繋がる展開を支える契機があった。そういう問題に対する感受性を、理論的に作り出していく要因が、若い頃からあったんだと思います。

この間、丸山文庫の資料整理の過程で、二〇代の頃に記した膨大なノート・メモ類に接することができました。専門の日本政治思想史研究に生かされたものもあり、また当時は十分生かされず、戦後の状況の中で、自らの中に蘇ってくるようなテーマもあったことがわかります。ジンメルの『社会的文化論』の中で展開されている「集団の拡大と個性の発達」や「社会圏の交錯」の問題が、五〇年代後半の講義の中でクリアに生かされていく。また〈open society〉〈closed society〉という枠組みは、丸山自身も語っているように、ベルグソンやポパーの示唆を受けて使っているものですが、ベルグソンやポパーの議論にも正面から向き合っていることが、講義の準備過程でのノートを見るとわかります。そして日本が直面している問題を考える時に、彼らの議論を吟味しながら、有効な示唆を与えてくれる考え方を読み取っている。もちろん日本の文脈だけではなく、より大きな一般的な問題に繋がる視点を同時に取り込みながら、議論を展開していく。これも五〇年代の講義の中で生かされている。非常に重層的な丸山の思索があることを、今回改めて感じました。 
平石 
 その関連でいいますと、カール・レーヴィットからの影響について、解説でふれました。戦争中に丸山は、麻生義輝の『近世日本哲学史』の書評を書いていて、そこにレーヴィットが日本の学生に対して持った印象を引いている。一階では日本的な意識や感覚で生活しているが、二階にはプラトンからハイデガーまでヨーロッパの学問が並んでいる。二階と一階を往き来する梯子は何処にあるのか、という疑問です。この文章を引いて丸山は、もしこの通りだとすれば、日本の近代は、真の意味でヨーロッパ精神と対決したことはないことになる。その事実からどんな当為が生れるか、と問題を出しています。ヨーロッパ的学問と伝統的な生活意識が併存している日本とは何なのか。一九四二年の指摘です。ここからは私の推論ですが、これを一般化すると、日本は古代以来、仏教や儒教、さらに朱子学を受容したが、どこまでそれらと対決したのかという問題が出てくる。外から色々な思想や文化を持ちこむが、すべてが併存した雑居状態で、思想的な統合性がない。これが五六年度講義の背後にある丸山の問題関心だったのではないか。それが翌年の論文「日本の思想」における「思想的座標軸の非在」という指摘に繋がると思います。戦争中にレーヴィットから示唆された批判的関心が生きつづけて、戦後に一層深められたということですね。

もうひとつは、丸山の日本政治思想史講義のモチーフを理解する上で、ラッサールの命題が大きな意味をもっているように思います。敗戦の翌年に発表した「超国家主義の論理と心理」で丸山は、「新しい時代の開幕はつねに既存の現実自体が如何なるものであったかについての意識を闘い取ることの裡に存する」というラッサールの言葉を引きます。そして「この努力を怠っては国民精神の真の変革はついに行われぬであろう。そうして凡そ精神の革命を齎らす革命にして始めてその名に値するのである」と書いています。精神革命が必要で、そのためには自分の過去についての正確な理解が必要だということですね。丸山がその論文で想定している「既存の現実」は、近代日本の超国家主義です。しかし考えてみれば、このロジックは、日本の政治思想史全体に当てはまるわけですね。日本人である我々が、古代からの思想史・精神史の総体についてきちんとした認識を持ち、それを対象化することなしに、本当の意味での精神革命はできない。そういう意味内包をもつ。この点を考えると、丸山の講義は、そうした問題に対する回答の試みだったのだろうと思われる。単に一般的な概説を講義し、学生に知識を与えるだけのものではない。むしろ学生が自分自身の思想的な過去と向きあうように促す。そういう形で、根本的な問題提起をしているのではないか。

関連して最後に付け加えますと、「開かれた社会」という言葉と、丸山がある文脈で使う「市民社会」という言葉は、内容的にかなり重なるように思います。「市民社会」という言葉は、ヘーゲル、マルクス的な意味では、ブルジョア社会、利益社会の意味になりますが、他方では、多元的な価値が拮抗し、自由な言論空間が成り立つ社会をも意味する。「ボランタリー・アソシエーションの社会」ですね。丸山は両方の意味で「市民社会」を使っているので分かりにくいところがありますが、文脈から判断して、「開かれた社会」に近い意味で「市民社会」を使っている場合のあることが分かる。こう考えていくと、彼の講義は学生諸君に向かって、「市民として自立するように」というアピールになっていた面があったように思います。

(おわり)

この記事の中でご紹介した本
丸山眞男講義録 別冊一 日本政治思想史 1956/59/ 東京大学出版会
丸山眞男講義録 別冊一 日本政治思想史 1956/59
著 者:丸山 眞男
出版社: 東京大学出版会
以下のオンライン書店でご購入できます
丸山眞男講義録 別冊二日本政治思想史 1957/58/東京大学出版会
丸山眞男講義録 別冊二日本政治思想史 1957/58
著 者:丸山 眞男
出版社:東京大学出版会
以下のオンライン書店でご購入できます
2017年10月13日 新聞掲載(第3210号)
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