何か途方もない映画に接していると観客は確信する     ジャック・ドワイヨン「ロダン カミーユと永遠のアトリエ」|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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映画時評
2017年10月17日

何か途方もない映画に接していると観客は確信する    
ジャック・ドワイヨン「ロダン カミーユと永遠のアトリエ」

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制作中の『地獄の門』とそれを見つめるロダンの背中。オフで聞こえる作業の音。ロダンの動きにあわせてカメラが左に動く。ロダンがカメラに向かって振り返り、顔が示される。彼が広いアトリエを離れ別室に行くと、カミーユ・クローデルがいる。二人は彫刻の前に戻り、作品について意見を交わす。ここまでがワンショットだ。派手な動きはない。だが、あらゆる瞬間が緊張感に満ちている。ジャック・ドワイヨンの『ロダン カミーユと永遠のアトリエ』は、この冒頭の長回しだけで観客を圧倒する。次のショットは別室で、カミーユと話すロダンの顔が示される。ここから切り返しが続く。三番目と五番目のカミーユのショットが特に素晴らしい。手の石膏像が多数置かれた薄暗い部屋。窓から陽光が繊細に差し込み、逆光で彼女の顔が影に沈むのを観ると、溜息が出る。六番目のショットで、背中を思い切りそらす全裸の女性モデルの手前でロダンが創作に励む時、何か途方もない映画に接していると、観客は確信する。

二人の愛は悲劇的だが、いくつかの幸福な瞬間は映画の至福も示している。夜の屋内で、蝋燭の灯りだけで彫像を見つめる二人の姿が感動的で、しかもこの火が消されてショットが終わるのだから完璧だ。いかにもドワイヨンの映画らしくカミーユはパリを去りたがる人物なのだが、彼女がロダンと一緒にトゥールを訪れる場面がいい。煌めく陽光のもと、二人が小舟に乗って河を進むのを低めのアングルで捉えるショットが見事だ。画面の手前でロダンが背を向けて舟を漕ぎ、奥でカミーユが仰向けに横たわる。その時、彼女の右の素足が水面を軽く叩くのが艶めかしい。室内の場面の多いこの映画で、人物が戸外に出ると、水がしばしば重要な役割を果たしている。

ロダンには内縁の妻がいて、カミーユは三角関係に耐えられず彼と別れるが、その後心を病む。だが、これは悲劇の愛の映画ではない。映画の冒頭は、ロダンがカミーユを才能のある弟子として尊重していることを強調する。映画は二人の出会いを描かず、全体の四分の三に達する前に二人は別れる。その後のカミーユの行動は描かれない。三角関係の通俗的な側面にも一切興味がないようだ。

人間と彫像の二つの身体をめぐる映画として、この作品はあくまでロダンの創作を描く。その中心となるのは、七年の歳月をかけた『バルザック記念像』だ。ロダンは女たちを愛しながら、結局は創作にしか興味がなかった。彫像をつくるロダンの手の動きはまさに愛の仕草だ。女への愛は彫像への愛に変わり、彼にとって愛の結晶は子供ではなく彫像となる。

ロダンの彫像は肉の生々しい感触に満ち溢れている。『バルザック記念像』が男根を想起させるように、彼の創作は単なるモデルの再現ではなく、言わば肉の表現だ。ドワイヨンの全ての映画も肉に貫かれている。とはいえ、ブロンズや映像は生身の身体とは違う。では、それらにまつわる肉の感触とは何だろうか。ベルクソンが持続と言い、ドゥルーズが潜在性と言い直した表象不可能なものか。だが、まさにベルクソンが映画に持続は存在しないとしたように、それは持続や潜在性ではありえない。それは彫像の表面や映画の画面に宿る具体的で現働的な表象の何かだ。繊細な光があたるロダンの手の動きに、それはある。

今月は他に、『西遊記2~妖怪の逆襲~』『散歩する侵略者』『ギミー・デンジャー』などが面白かった。また未公開だが、ビー・ガンの短篇『金剛経』も良かった。

2017年10月13日 新聞掲載(第3210号)
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