自閉症の哲学 / 相川 翼(花伝社)定型発達に先行するもの  「構想力」について考える|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
2017年10月21日

定型発達に先行するもの 
「構想力」について考える

自閉症の哲学
著 者:相川 翼
出版社:花伝社
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自閉症の哲学(相川 翼)花伝社
自閉症の哲学
相川 翼
花伝社
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本書『自閉症の哲学』を読むにあたって、まず押さえておくべきことは、現在の精神科医療の現場においては、この本で考察の対象となる「自閉症のある人」と、「普通」に社会生活を送っていることが多いであろう健常者=「定型発達者」との間には、連続性があると考えられているということである。両者は、同じ物差しの別の場所に位置していると、近年では捉えられている。自閉症と一括りにされる存在についても、家族的な類似性を持つ多様な人々であると認識されている。自閉症とは「極端な男性型の脳」を持つことであるという有力な説もあり(「超男性」という芸術作品を思い出す)、誰もが無縁だとは言えず、いま自閉症について考えることは、その人が「自己吟味」を行うことにもなるのである。それは、「普通」について考え直すことともなり、ごく自然に哲学的な思考を齎す。

本書の特徴としては、自閉症をめぐる著作でありながら、「自閉症」という語句をまったく使っていない哲学古典(主にカント)をはじめ、自閉症ではなく神経症に関心を向けていたフロイトや、自閉症ではなく精神病(統合失調症)を注視していたカントについて論じていることが挙げられる。それを可能にしているのは、一見まるで異なって見えるものの間に共通する本質を見出す、本書の著者の持つ「抽象力」である。そして、本書の核を成すものは、抽象力もそこに属すであろう、カントに由来する「構想力」という概念なのだった。

自閉症のある人と定型発達者との、構想力の働き方の類似と相違について考えることこそが、両者の連続性と差異性を浮かび上がらせる。本書は、図表を駆使し、フロイトやラカンの理論を応用して援用することによって、自閉症こそが定型発達に先行するものであることを明らかにする(その執拗な追求は、自閉症の反復性・常同性をも思わせる)。さらには、定型発達こそが特筆すべき「症例」であるという、驚くべき観点にまで辿り着くのであった。

本書では、印象的な「例え」が用いられている。「感性」と「悟性」の関係を、野球のピッチャーとバッターに例え、「私という意識である統覚」をキャッチャーに例える。そして、ゲームを成立させているグラウンド(野球場)に例えられるのが「構想力」なのだとされている。それを私がさらに敷衍すると、自閉症のある人の「直接性に依存する構想力」は、浜風薫る甲子園球場のようなものであり、「定型発達的構想力」は、ドーム球場のようなものだという例えも、成り立つかもしれない。そう、自閉症のある人よりも定型発達者の方が、「閉じられている」かも知れないのだ。

本書の読者は、内省を迫られる。私(可能)も、自己を吟味し直すことを強いられた。その結果、私のやってきた、あるかなきかの演劇活動は、「自閉症の演劇」と呼べることに気づいて、愕然とした。また、そこからごく自然に、では、「自閉症の文学」と名づけ得るものはないかと想いを巡らせてみると、本書と同じ二〇一七年七月に刊行された丸山健二『われは何処に』に思い至った。特異な形式の文章が繰り返し繰り出されるこの作品には、本書の注で「カントにはない考え方」だとされる「<他者>が<私>に関わり、介入することによって初めて、<自己意識>は成立する」という認識も、書き込まれている。さらに想いは、中年までは「普通の人」=定型発達者として生きてきた人々であっても、そこから出て、独特な老人(想起されるのは、水木しげるや加藤一二三である)として生きるという道があり得るのではないかといったことにまで、及ぶのであった。

この記事の中でご紹介した本
自閉症の哲学/花伝社
自閉症の哲学
著 者:相川 翼
出版社:花伝社
以下のオンライン書店でご購入できます
2017年10月20日 新聞掲載(第3211号)
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