読書人紙面掲載 書評
マルセル・デュシャンとチェス
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2017年10月28日
現在あるいは未来美術への射撃
新しいデュシャン像をあらわにする
マルセル・デュシャンとチェス著 者:中尾 拓哉
出版社:平凡社
評者:永瀬 恭一(画家)
見えない姿を追う足取りは、どこへたどり着こうとするだろう? 文字として打ち出された弾丸が遠くまで読者を連れてゆく。中尾拓哉が答えの定まらない不思議を追跡する、ハンターの才能を持っていることは、文章ごとに疑問を投げては手繰り寄せる緊張感に表れている。博士論文をもとに加筆修正された本書は、索引や参考文献を始め学術書としての体裁を十分備えている。けれど、ひとたびページを繰りはじめれば退屈さはない。美術史上屈指の「謎」に、著者は一歩も退かない。これはその戦闘報告書だ。
人の作り出すいろいろなモノの一部を「美術」というジャンルに自立させたのは近代のヨーロッパだが、その美術に男性用小便器などを持ち込み、以後の在り方を革新したのがマルセル・デュシャンだ。彼がある時期から作品制作を放棄したように見せかけチェスに熱中した事は、一般に美術へ反する態度(反美術)と見られることもある。しかし中尾は綿密にその足跡を追い、通念の密林をかきわけ新しいデュシャン像をあらわにする。
中尾によるデュシャンの理解を簡単にまとめよう。デュシャンは、二人の兄に影響を受けてはじめた絵とチェスを切り分けなかった。チェス盤がプレーヤーの頭脳運動を投影するステージであるように、デュシャンにとっての絵は高次の概念を映し出すスクリーン、もしくはその通過を可能にする透明なゲートとなってゆく。彼がとくに関心を寄せたのは、二〇世紀初頭に話題になった「四次元」だ。二次元=平面世界の住人は、三次元=立体である球を全体として把握できない。ただ、球から二次元へ投射された「影」としての円が平面上に現われ消えていく様子から、概念としての球を考えるほかはない。同じように、三次元の我々は「四次元」を見たり描いたりできない。ただ、我々の世界を通過していく「四次元」の影である“超立体”から、あくまで概念としての「四次元」を追うほかはない。このように高次のものの影や通過をデュシャンは「オブジェ」という立体に見たり、ガラスという平面に写そうとする。可能性の計算の軌跡を映し出すチェスがデュシャンにとって美術に反するものではなく、むしろ美術というゲームボードを再編する「制作」の引き金であったことを、中尾は丁寧な証拠集めと参考証言の聴取、そして大胆な推理を駆使して発見し狩り獲る。
デュシャンの重要性の核心は、彼の有名さと裏腹に一般化できない。ここでの中尾拓哉の試みが、資料を渉猟し巨匠の評価を再強化するだけの悪しきアカデミズムから隔絶しているのは、デュシャンという固有名を超え、問いの闘争、脳神経のきらめきの向こうに看取される「見えないものの通過」にターゲットを絞っているからだ。本書には過去を追うことで撃ち抜かれる新しい次元がある。現在あるいは未来の美術の可能性に関心を持つ人になら、『マルセル・デュシャンとチェス』は、そこへと至る鮮やかな契機になっている。
人の作り出すいろいろなモノの一部を「美術」というジャンルに自立させたのは近代のヨーロッパだが、その美術に男性用小便器などを持ち込み、以後の在り方を革新したのがマルセル・デュシャンだ。彼がある時期から作品制作を放棄したように見せかけチェスに熱中した事は、一般に美術へ反する態度(反美術)と見られることもある。しかし中尾は綿密にその足跡を追い、通念の密林をかきわけ新しいデュシャン像をあらわにする。
中尾によるデュシャンの理解を簡単にまとめよう。デュシャンは、二人の兄に影響を受けてはじめた絵とチェスを切り分けなかった。チェス盤がプレーヤーの頭脳運動を投影するステージであるように、デュシャンにとっての絵は高次の概念を映し出すスクリーン、もしくはその通過を可能にする透明なゲートとなってゆく。彼がとくに関心を寄せたのは、二〇世紀初頭に話題になった「四次元」だ。二次元=平面世界の住人は、三次元=立体である球を全体として把握できない。ただ、球から二次元へ投射された「影」としての円が平面上に現われ消えていく様子から、概念としての球を考えるほかはない。同じように、三次元の我々は「四次元」を見たり描いたりできない。ただ、我々の世界を通過していく「四次元」の影である“超立体”から、あくまで概念としての「四次元」を追うほかはない。このように高次のものの影や通過をデュシャンは「オブジェ」という立体に見たり、ガラスという平面に写そうとする。可能性の計算の軌跡を映し出すチェスがデュシャンにとって美術に反するものではなく、むしろ美術というゲームボードを再編する「制作」の引き金であったことを、中尾は丁寧な証拠集めと参考証言の聴取、そして大胆な推理を駆使して発見し狩り獲る。
デュシャンの重要性の核心は、彼の有名さと裏腹に一般化できない。ここでの中尾拓哉の試みが、資料を渉猟し巨匠の評価を再強化するだけの悪しきアカデミズムから隔絶しているのは、デュシャンという固有名を超え、問いの闘争、脳神経のきらめきの向こうに看取される「見えないものの通過」にターゲットを絞っているからだ。本書には過去を追うことで撃ち抜かれる新しい次元がある。現在あるいは未来の美術の可能性に関心を持つ人になら、『マルセル・デュシャンとチェス』は、そこへと至る鮮やかな契機になっている。
この記事の中でご紹介した本
2017年10月27日 新聞掲載(第3212号)

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