完本 春の城 / 石牟礼 道子(藤原書店)深い情けによる筆  今あらためて読まれるべき稀有な傑作|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
2017年10月28日

深い情けによる筆 
今あらためて読まれるべき稀有な傑作

完本 春の城
著 者:石牟礼 道子
出版社:藤原書店
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完本 春の城(石牟礼 道子)藤原書店
完本 春の城
石牟礼 道子
藤原書店
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切支丹根絶を進める徳川家光の時代。まだ十六歳の益田四郎時貞(天草四郎)を総大将として天草・島原の切支丹が一揆を起こし、籠城のすえに幕府の征討軍によって殲滅された。

鎖国の原因になったという歴史的事件「天草・島原の乱」のことを書きたいと作者が思ったのは、水俣病患者の苦境を訴えるために原因企業のチッソ本社前に座り込みをしたときだという。チッソ幹部に水銀を飲ませるなら、自分も飲もう。そう死を覚悟したときの不思議と静謐な気持ちが、絶対に勝ち目のない一揆を起こさざるをえなかった人々に思いを寄せることとなった。

その宿願が結実した歴史大作「春の城」。十八年前に『アニマの鳥』として刊行されていた本作を、取材紀行「草の道」や著者インタビューなども網羅した今回の「完本」で初めて読んだ。

深い情けによる筆。そんな言葉が浮かぶほどに、死出の旅路となる一揆に追い込まれた人々の面影を、じつに鮮やかに描きだしている。心が釘付けになったまま読み終えると、天草・島原の乱の内実とはこのようなものだったかと、ここに描かれたことがぼくの中にたしかな現実として残った。つまり、歴史の一つになった。

この小説のすごさ、すばらしさは、破局にいたるまでの過程を、百姓の暮らしぶりや切支丹信徒の思いに焦点をあてて、ゆっくり、じっくり描いた点にある。帰農した浪人たちの会話や、過酷すぎる年貢の減免を各地の庄屋が代官に願いでる場面によって不穏な雲行きを印象づけながら、それでも営まれる自然相手の手仕事や収穫の喜びの描写を織り込む。葛の根を叩いて澱粉質の汁をとったり、磯で牡蠣を採ったり、菜種採りに茶摘みと、食べ物こそが人々の安寧の根幹であることを伝えてくる。

だからこそ、日照りによって作物が育たないところへ、嵐や長雨のために一層壊滅的なダメージを受ける悲痛や焦燥が、こちらの体にも足元から立ち上ってくる感覚を受けるのだ。以前は侍だった老人に「国のもといが百姓じゃ」と語らせているが、これほどまでに農の民の営みと心情を大切に描いた現代小説があっただろうか。

のどかで心にしみる嫁入りの光景ではじまった物語は、ついに、このまま従順を保っても餓死か、未納の年貢のかわりに女が質にとられる局面にいたる。決死の一揆と引き換えに、浪人や百姓たちが切支丹であることを隠さないと決意するくだりは、迫害され続けた少数民族がみずからのアイデンティティにめざめる姿と重なる。

不思議と人心を引きつけてやまない四郎はその流れのなかで「神の御使い」として一揆の総大将に押し上げられるのだが、あくまで恋心の兆しも抱くひとりの人間として描かれているのがいい。人々の苦悩を全身で引き受ける、その凛と響く声音まで聞こえるようだ。

死んで天国に生まれ変わることを切望する信仰がなければ、ほとんどが百姓や漁師である三万七千の一揆勢で十二万もの征討軍を相手に戦うことはなかっただろう。籠城にはつれていけないという理由で、病人や老人、幼子を泣く泣く殺したという無惨さも描かれる。理念のために死んだり殺しもできる人間という生き物、また信仰というものの一側面も浮き彫りになるが、そもそも、彼らをここまで追いやる権力とは、民衆にとって一体何なのかと思わざるをえない。

端役にいたるまでだれもが魅力的に描かれた本作で、とくに心に残るのは、一揆に参加した庄屋の家事や農作業をずっと担ってきたおうめである(彼女の言葉にぼくは何度も泣かされた)。五十をこえる彼女は仏教徒だが、宗教のちがいで諍いが起こることに納得できず、マリア様と観音様は仲良くなれると信じている。また、「百姓は虫けらじゃと言われても悲しむな。鳥けもの、虫けらたちは仏さまのお使いぞ」という親の教えを血肉にして生きてきた。

籠城のさなかにおうめからその話を聞いた主人の仁助は、ふいに彼女の顔に(異教の)観音菩薩の面影を見、「この世において、はかり難く巨きなものと、ごくごく小さなものは等格であり、ともに畏れ敬うべきであると彼女は言っているのだ」と、ひとりの百姓女の彼女こそがキリストが教えるへりくだりの心を体現していることに気づく。土とともに暮らし、母性的な慈しみの心を土台にして揺るがないおうめに、信仰者が圧倒されるのである。

これはただ史実にそくした物語では決してない。そもそも、一揆側の文字をもたない者たちが遺した史料は皆無である(併録の取材紀行「草の道」を読むと、それこそ、道端の草や潮の匂いに彼らの面影を探すようなあてどなさが伝わってくる)。その広大な空白に、作者は想いのこもった想像力で歴史から消えた人々をよみがえらせながら、現代に通じる諸問題をも批評的に照らしだした。今あらためて読まれるべき、稀有な傑作である。

この記事の中でご紹介した本
完本 春の城/藤原書店
完本 春の城
著 者:石牟礼 道子
出版社:藤原書店
以下のオンライン書店でご購入できます
2017年10月27日 新聞掲載(第3212号)
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