対談=橋爪大三郎・山本貴光 思考する人のための読書術 橋爪大三郎著『正しい本の読み方』(講談社)刊行を機に|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 特集
2017年11月2日

対談=橋爪大三郎・山本貴光
思考する人のための読書術
橋爪大三郎著『正しい本の読み方』(講談社)刊行を機に

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なぜ本を読むのだろう。
そもそも本は読まなくてはいけないものなのか。だったら一体どんな本をどう読めばいいのか。
「考える人」であるための本の読み方と、読むべき本を教えてくれる、橋爪大三郎氏の『正しい本の読み方』が講談社現代新書から刊行された。
本を読み、そこから自身の思考を鍛えていく楽しさと厳しさを、分かりやすく説いてくれるこの本をきっかけに、著者の橋爪氏と文筆家の山本貴光氏にお話しいただいた。 
(編集部)

本を読むことは言語を知ることであり他人を知ること

山本 貴光氏
山本 
 読書について自分の場合を思い出してみますと、高校生の頃、本をどうやって読んだらいいのかなと思うことがありました。特に小説以外の各方面の学術に関わる本とどうつきあったらいいか。よく分からなかったので読書指南書の類をあれこれ探し読んでみました。そうした本の多くは、当然のことながら本の選び方や読み方の技術について書いてあります。他方で肝心要のことが抜けている場合も少なくありません。今回、橋爪先生の『正しい本の読み方』を読んで、冒頭から「あ、正しい」と思ったのは、はじめに人間のことが書いてあったからです。当然ながら読書をするのは人間なのですが、その人間というものは、こういうふうに生きているでしょうと、社会や言語の話を交えながら書いておられますね。我々が社会で暮らす中で、他人と言葉を介してやりとりをしている。そのとき言語がとても重要である。本を読むことは言語を知ることであり、他人を知ることである。それは読書によってよく涵養される。この本の読者は、入り口でしっかりと、「どうして本を読むのか」という動機について考えを整えられます。橋爪先生は、ご自身がはやいうちから、読書をこのように捉えておいでだったのですか。
橋爪 
 読書をこのように捉えていた、というよりもね、言葉を考えるのが、私の社会学の入り口なのです。

社会なるものが、私はなかなか理解できなかった。自分はその社会の一員なのだけれど、どういうふうに生きていけばいいのか、手がかりがない。こうしろ、ああするなといったメッセージは社会にありふれているんですけれど、よく考えると根拠が曖昧である。根拠が曖昧な誰かの考えに従っていいのだろうか。とりあえず留保を置いてみよう。…みたいなことを考えていると、どんどんドツボにはまって、出口なしの状態になるんですね。確実なものが欲しいなと思う。確実なものというと当時、マルクス主義があった。人間は物質として生きているのであって、生産活動(労働)をして消費をして、命を繋いでいるのである。さて生産とは…、みたいに議論の出発点から社会の説明まで、実に整合的にできていて、説得力があるんです。下部構造と上部構造があって、物質と観念があって、社会はこうしてできているんですよ。なるほど、と私は思った。

さてじゃあ、言語は、下部構造なのか上部構造なのか、と思ったわけです。どう考えても下部構造ではない。でも上部構造でもない。上部構造ってイデオロギーなんですよね。言語に書かれている意味内容は、観念で、上部構造かもしれない。言語はそれを組み立てているのだから、観念を表現する器ではある。言語は、意味や概念でできているだろう。でも意味や概念の手触り、実在性というのは、これはイデオロギーなのかなと思ったわけ。猫がいるからネコと言う、椅子があるからイスと言う。言葉はそういうふうにできていて、生活に密着しているわけです。階級もない。資本家も労働者も同じ言葉を使っている。
山本 
 言葉は占有されたりしない。
橋爪 
 そう。それで、あれっと思った。マルクス主義って、もしかしたら言語のことをちゃんと考えていないんじゃないか。それで、ソビエト科学アカデミーの、マルクス=レーニン主義研究所の哲学教科書みたいなのをみつけて、ここに書いているはずだと、「言語」のところを読んでみた。そしたら、上部構造だとも下部構造だとも、はっきり書いてないんですよ。そこで薄々わかったことは、マルクス主義は言語を扱えていないのだと。

三浦つとむさんという、独自の考え方で唯物論の立場から言語論をやっている方がいて、マルクス・レーニン主義のふつうの議論の、ずっと先を行っているなあと思った。それからそのお友達で、吉本隆明さんがおられて、彼も言語を中心に置いて、しかもマルクス主義にコミットしながら議論を展開している。これだ、と。これでどこまで行けるかやってみようというふうに考えていったんです。その辺が出発点ですね。言語を社会の中心において考えなきゃいけないというのは、マルクス主義が正しかったにせよ、あるいはそれが使えなくてかなぐり捨てるにせよ、はじめから決まっていたんです。
山本 
 たとえば吉本さんは『言語にとって美とは何か』で、言葉の問題を集中的に検討していましたね。詩的言語に注意を向けながら、言葉のもっている性質や構造を普遍的に捉えようとしていました。『正しい本の読み方』の鍵となる概念に「構造」や「ネットワーク」があります。本は互いに参照したりされたりといった関係を結び合うネットワークのなかにある。そのネットワークの結節点になるのが重要な本である。あるいは、本を読む際、その論述の構造を見てとることを勧めています。いまの言語をどう位置づけるかというお話と、このネットワークや構造という概念はどこかで繋がってくるのでしょうか。
橋爪 
 言語を使ったりそれを理解したりして、日常生活を送っている。誰もがやっていることです。学問をやっている人びとも、そうでない人びとも。これは人間の生き方、社会の原点であって、この中に、倫理もあるし道徳もあるし、思想も、哲学も、宗教も、なんでもある。その根底が言語であるな。言語が社会の環境を作っているのだな、と思ったわけです。言語は自由にならないものなんです。自分の中にあるけれど、外からやってきているんですね。
山本 
 そうですね。
橋爪 
 だけど、言語がなければ自由もないんです。とりあえず言語が使えることが、自由なのだから。これは大変な逆説です。だから、言語を敵にして、私は言語に支配されているとか、誰か他者にこういうふうにものを考えさせられているとかと思ったのでは、ドツボにはまります。かと言って、私はまったく自由に、言語と無関係に生きていけると思っても、それは空想です。言語は、ただ自由に生きようと思ったら、制約になるんです。言語の固有の秩序や法則を理解しないと、自分らしく生きようとしてもうまく行かない。そもそも生きることが困難になる。言語はそれ自体の何かの仕組み、何かの秩序を持っている。それを解明しないと、自分がわからない、他者がわからない、社会がわからない、生き方がわからない、といった直感を、私は持つわけですよ。じゃあ言語自身の秩序や構造は、どこに書いてあって誰が明らかにしているのだろうと思ったのです。三浦つとむがちょっと書いている。吉本さんもちょっと書いている。でもまだまだ奥行きがある気がしたんですね。こうして、社会学をやっているのか言語論をやっているのかよくわからなくなってきた。よくわからなくてもいいや、と思ったんです(笑)。言語のことを置いといて社会学はできない、と思った。でも社会のことを置いといては、言語のこともできないと思うんです。
山本 
 橋爪先生の初期のお仕事、『言語ゲームと社会理論』は、まさに社会と言語を両輪として行われた考察でした。
橋爪 
 そこで見つかったビッグネームが、一人はレヴィ=ストロースです。もう一人はヴィトゲンシュタイン。それを繋ぐものとしてソシュールもあるんだけど、ソシュールからは大事な論点を取り出すのはなかなかむずかしかった。レヴィ=ストロースはもともと社会主義者ですから、マルクス主義を十分意識しながら、それとあえて独立なことを言っているので、私にはわかりやすかった。なるほど、言いたいことはそうなのか、みたいなね。レヴィ=ストロースの本はまあ、無味乾燥なので、中身を搾り取るのは難しいのだけれども、なんであんな本を書いたのかと考えると、理解できるような気がした。ヴィトゲンシュタインのほうは、まったく取りつく島もないような本なんですよ。その本の中に、世界のすべてがあるような気もするが、孤独な青年のただの落書きのような気もする。
山本 
 確かに(笑)。断章の連続から、ある世界像が立ち上がるような感覚もあるけれど、ときどきどこまで本気で言っているのか分からないような言葉もひょいと出てくる。
橋爪 
 だからそれに角度を取るのは、とてもむずかしいというか、コツがいる。どこからそんな議論が絞り出されてきたのかと考えると、まあ命がけで絞り出しているわけですよ。一回こっきりのうめき声、みたいなものですよね。そういうものは、彼の置かれた苦しさや、彼の置かれた切なさ、彼の置かれた義務感、倫理や希望みたいなものを見ないと読めない。それを実感するためには、自分をそれに似た場所に置かないと駄目なのね。彼と自分を重ね合わせるみたいにすると、読めるのかなとあれこれ試みて、いろいろ触発され養分をもらった。でもまだ先があるなと。だからこれは、終わらない旅ですね。
学ぶつもりで読むのでは なく考えるつもりで読む

橋爪 大三郎氏
山本 
 いまのお話は、たぶん若い皆さんにとっても、たいへん興味や関心のあるポイントだと思います。この本でも書いておられるように、著者の言い分をまずはまるごと受け取って、著者の立場に身を置いてみる。これが本を読むポイントのひとつであると指摘されています。その際、著者の動機をいかに受け取れるか。もっと言えば、いかにその動機に共感できるかという点が非常に重要だと思います。かつて私自身もそうだったけれど、学校などで学生たちと話をしていると、皆さんもまず自分の動機をどうやったら持てるのだろうという点で難しさを感じているようです。橋爪先生のお話にあったように、社会が謎であり分かりたい、そのためには言語を分かる必要がありそうだが、その言語も謎として立ち現れてくる、という具合に問題に掴まれたわけですね。そんなふうに、探究や読書に向かいたくなる動機はどうしたら持てるか。平たく言ってしまえば、自分が何をしたいのか分からない。だから、何を読んだらいいのかも分からない、とこういうことになります。そういう若い人たちに橋爪先生はどんなアドバイスをなさいますか。
橋爪 
 何をしたらいいのかわからないというのは、それはつまり、問題の本質をいま掴みかかっているわけですよ。それをテーマにすればいい。
山本 
 なるほど! なぜいま私は問題を掴んでいないかということ自体をテーマにするわけですね。
橋爪 
 「問題」ってなんだろうとか、「掴ま」なきゃいけないのかとか、そういうことを考えればいいんですよ。
山本 
 おっしゃるとおりですね。他方で、なかなかその一歩というか、転換ができずに考えあぐねてしまうこともあります。それでも何かやりたい人は手当たり次第に濫読を始めたりもしますね。
橋爪 
 それでいいんです。それしかないんです。

あのね、教わるのと、考えるのは、別なことなんです。学校は教える場所だから、そこにいると「教わる人」になっちゃうんですよ。はじめのうちは答えがあることを教わって、そのうち答えのないこともあるよと教わるのだけど、それでもまだ教わっているんです。教わっているうちは、考えられないんです。このことさえわかれば、誰でもなんとかなる。考えるということは、まず問題を意識する。そして、結論を出さなきゃいけない。結論が出ないまま放っておいても、もちろんいいかもしれないが、でも結論を出したい。こう思ったときに、考え始めるわけです。考え始めたからと言って、終わりまで、考え切ることができるかどうかは全然わからない。たいていのことは考え切れないし、考え終わらないんですよ。
山本 
 経験とともに当初の問題が変わるとか、関心から消えてゆくこともありますね。
橋爪 
 でも、最大限遠くまで考え進めて、ここまで考えたのだとなれば、それはそれなりに、考えているんです。結論を出すことが目的ではないし、終点ではないかもしれない。でも出発点からこれだけ歩いた。それが大事。それができたら、それを自分で確認できるし、ひとに言えるんですよ。ひとに言えるようになると、相手から、そんなことを考えていたのかという反応が返ってきて、感想を言ってくれたり、その先を考えてくれたり、いろんなことが起こる。そうしてキャッチボールが続いていく。これでいいんじゃない。
山本 
 そうですね。
橋爪 
 それができる人と、できない人がいる。

世の中には頭のよい人と悪い人がいることになっているでしょ。でも、頭のよいと言われている人はたいてい、学ぶ人なんです。考える人じゃない。考えるとは、自分サイズで歩いて行くことなんだから、他人と比較するのは意味がない。比較の尺度もない。考える人は、自分で歩んで自分なりに考えれば、それで十分なんです。満足感もえられる。それしかないんだと思えば、考えることの勇気が湧いてくる。もちろん考えることをしたからといって学ぶことをやめる必要はないし、学ぶことを敵視する必要もない。学び続ければいいのだけど、でも、学びながらでも考えることはできる。考えることを大事にするのが大切ですね。本を読むときにも、学ぶつもりで読むのではなく、考えるつもりで読んだほうがいい。本は、どうせ素材なんだから。本は、自分が書いたんじゃない。
山本 
 書いてあるのは他人の頭が考えたことですからね。
橋爪 
 そう。本を読み終わったら、他人の考えをたどること、つまり学ぶことは、終わるわけなんだけど、読み終わってぱたんと本を閉じた瞬間から、自分の世界が始まる。
山本 
 本から示唆をもらったり、材料を入れて、そのあとは自分の頭の中でそれを発酵させるなり取捨選択させるなり、さらに推し進めてみるわけです。
橋爪 
 何もしなくたって、ふつうは考え始めるのですよ。だってそれは、人と話しているときと同じです。人が話しているのを聞いていると、長い話もあるかもしれないけど、そのうち相手が話し終わるでしょ。そしたら今度は、自分が喋ってもいいし、何も喋らなくて考えてもいいんだけど、そこからなにか始まるじゃないですか。日常生活の中でみんなやっていることなんです。本を読む時になぜそれをしないのだろう。できるはずです。誰にでもできる。
山本 
 いまのお話を伺って思い出すことがあります。たとえば学校で数学を教える時、みんなの頭にある数学のイメージが固定されていることが多いんですね。どういうことかと言うと、数学というのは教科書に出て来るすでに誰かが考え終わった公式や証明の仕方を受け取って覚えたり理解したりするものだと思っているわけです。それも無理はありません。だけど数学者たちが何をやっているかといったら、まだ世界中で、あるいは歴史上で誰も答えを出していない数学の性質について探究を続けているわけです。たとえば、素数の性質のように、まだ解明されていない未知に迫ろうとしている。それが数学という営みなんだよということは、教科書を暗記して問題を解いているだけだと思いも寄らないことです。もちろん覚えて使うことも基礎練習としては必要なんだけど、それが数学だと思ってしまうと、いま橋爪先生がおっしゃったように、学ぶことで終わってしまって考える方向に進んでいかないと思うんです。この本で書いておられた学校のカリキュラムがばらばらという話もそうだし、学校の勉強が「学ぶこと」中心になりすぎている。そのような教育を小中高と12年ぐらい受けると結構呪縛されてしまって、考えるという方向に行けなくなってしまう人も少なくないという印象を持っています。そうした呪縛を解くためにも、講義では、知識や答えそのものを教えるのではなく、問いを共有してその場で一緒に考えてみようというふうにしています。テストでは答えが分からないと怒られますが、先ほどのお話のように分からないからこそ探究が進む、というふうにモードを変えるわけです。
頭の中に複数の著者を入 れて彼らに喧嘩をさせよ

橋爪 
 世の中には数学者がいて、最先端のことをやっている。教室にいる私たちは素人で、もうとっくの昔に証明されたことを習っている。だから考えることなんかできない、学ぶことしかできないのかですけれど、こんな思考実験はどうでしょう。核戦争かなにかで、みんな死んでしまって、クラスの5人だけが生き残ったと考える。教科書も一冊だけ。破れてしまって、最初の30ページしか残っていない。その続きが書けますか。続きを書くのは、これは、学ぶことじゃないね。失われた数学を再建することなんです。いや、再建するという以上のことかもしれない。だって、この教室のクラスメート5人は、まだそこを習っていないのだから。再建じゃなくて、これは発見なんです。そのようなつもりで、教科書を学べばいい。
山本 
 文明が失われてしまった世界(笑)。物理学者のリチャード・ファインマンは、まさにその方式を採用していたようですね。彼は他人がすでに証明済みの問題でも、答えを見ずに自分の手と数多で一から考えて証明してみる。彼が学部生向けに行った物理学の講義で、たいていのことは分かりやすくかみ砕いて話せたのはなぜかと言ったら、一通り自分で考えたことがあるからだと。いまの橋爪先生の思考実験もまさにそのやり方ですね。もしこの知識が地球上から失われてしまっていたら、それでも私は自力で発見できるだろうか。科目を問わずやってみるといいと思います。地動説を自分で証明するとか、英和辞書が失われてしまった世界で、どうやって英語を読めるか、とか。
橋爪 
 そうですね。数学の教科書にも、よい教科書とよくない教科書がある。その構造を、著者が理解しているかどうかということなんです。社会学でも文学でも、どんな本でも、いい本と悪い本があるんだけど、それはいま言ったことなんですね。何を公理にし、何を定義にするかって、実は互換的なんです。現代数学では、公理が選択的なのは当たり前で、それで無条件に承認する場合と証明する場合とがあるわけ。教え方が下手な人は、その構造が書けていないわけだ。これを敷衍して言うならばどんな学問であれ、社会学でも経済学でもなんでも、モデルを組み立てて議論していくのだから、最初の設定が重要。その設定は、とりあえずこれを認めましょうよと公準として置くわけ。あとはロジックをたどって他の事柄を証明していって、いろんな知識の体系が構成される構造になっているはずだから、それをやりなさいよと思ったわけ。学問と名前のつくタイプの本はすべて、そう書かれていなければならない。

ただ、それ以外の書物もある。それはどういうものかというと、文学。美しさとか、内面の表現とか、そういうものはこの論理と別なモードなんです。ストーリーの内部には内部構造がなければならないけれど、学問とはまた別なモードでできている。そうすると、本には何種類もあることになる。それは、人間がものを考えたり感じたりするときのモードが何種類もあるからなんです。
山本 
 そうですね。
橋爪 
 こうして、いろんなモードの本を通して、混乱しつつもいろんな世界がうっすらと開けてくるわけ。でも世の中分業しているから、科学者は科学者、文学者は文学者、批評家は批評家で、めいめいの業界で同じ仲間と付き合ってそういう本を生産している。その仲間に入っていくのはけっこう大変なことなんだけど、そういう業界よりも、人間にいくつも生き方のモードがあることのほうが大事じゃないか。、位相数学の勉強をしたときに、そう思ったわけ。
山本 
 実に面白いですね。今日のお話を伺っていても思うのですが、この本のもうひとつの特徴は、読書術の本って文系の人が書くことが多いせいか、中味はほぼ人文学なんですね。橋爪先生の本は、数学や経済学の話も出てくる。作文のいい指南書として『理科系の作文技術』が出てくる。いまのお話も、数理のモード、人文学のモード、社会科学のモードという複数のモードがあるんだよということを教えてくださっているのが得難いことだと思いました。それは、これもやはりご本で書いていらっしゃる、頭の中に複数の著者を入れようというすすめにも通じています。できたらその著者たちが喧嘩でもするとよい。頭の中に複数の著者を入れたとしても、全員揃って文学者だったら喧嘩もちょっと小さいかもしれない(笑)。数学者がいて哲学者がいて、物理学者、芸術家、経済学者、政治学者、宗教学者がいて、とこうなれば、ある問題にとりくむ時も科学者は現象を一般的に捉えて誰が見ても一義的に理解される形にしたいと考える。でも他方で人文学者はひとつのものごとでも、人や状況によって多義なんだよと考える。そしてこのギャップから会話が生まれる。こういうことが自分の脳裏で生じるようにするためにも本を読もうというのはよい勧め方ですね。こう思えたら本を読みたくなるかもしれない。ただし、著者が頭に入るためには、おそらくある程度まとまった分量の文字や思考の痕跡を受け止めないとそうならないかもしれません。
最終的には日本語の制約を 脱出できることが望ましい

橋爪 
 はい、断片では駄目ですね。やっぱりまとまった本がいい。せめてある長さの文章を読まないと無理です。ところがふつう、複数の著者が頭の中にいる状態を避けるんですよ。ややこしいからと。残念なことです。まず専門家、業界人がそれを避けているわけです。たとえばマルクス経済学と近代経済学があったら、私は近経だからマル経は関係ありません、とかね(笑)。それは、話は単純になるけど、生産性がすごく下がると思う。生産性とはどういうことか。一塁手が頑張っていて、二塁手が頑張って、センターが頑張って、みたいに守備範囲があるときに、そのまん中辺にポテンヒットの空白期がある。それを一体どうするのか。守備範囲が決まっている人たちの手が出ないところで、何かが始まり、新しい知識が生まれていくと思うのです。それを避けないで、むしろ歓迎したほうがいい。
山本 
 それこそよく言われることでもありますが、社会や人生で生じているさまざまな問題のかたちと、学問の専門領域の分割が必ずしも対応していない。たとえば地球温暖化問題にしろ格差問題にしろ、一個のディシプリンで対応しきれないわけです。いまおっしゃったポテンヒットのように守備範囲のあいだにある問題なども、その近くにいる人たちが協力して解決する必要がある。先ほどの頭の中の喧嘩じゃないけれど、互いの知見の違いから問題を照らしてみて、いままでそれぞれの立場だけからでは目に入らなかった物事や状態を見えるようにする必要がありますね。
橋爪 
 ディシプリンは、いままで考えてきた人びとの蓄積の延長上でものを考えるのですが、それは便利なところと邪魔になるところがあるんです。誰かが言った、私の好きなジョークがあるんですが、財布をなくした男の話。酔っ払って千鳥足で家へ帰ってきたら財布がない。駅から家に着くまでに落としたらしい。駅を出るときにはあった。奥さんに怒られた。「何してるの、さっさと探して来なさい。」そう言われて探しに家を出たんだけど、ちっとも戻って来ない。心配した奥さんが探しに行くと、男は道の途中の、街灯の下をうろうろ探し回っている。なんでここで探しているのか聞くと、「だって、ほかのところは真っ暗だろ。ここは明るいから見つけられるんだ」って(笑)。ディシプリンって、明るい街灯なんですね。ものごとが明らかになる場所ではある。でもなくした財布がディシプリンにひっかかるように、ちょうど都合よく落ちているとは限らないわけです。
山本 
 そうそう!(笑)
橋爪 
 その男の馬鹿さ加減は誰でもわかるんだけど、でもよく考えると、みんなおんなじことをしている。
山本 
 近年はそれをサイロ・エフェクトなどとも言いますね。日本語ならたこつぼと言えばいいかもしれません。専門領域や組織というサイロの中にこもっていると、外の人が見たら馬鹿馬鹿しいと思うことでも疑うまでもない当然のことだと思いこんでしまったり、無自覚になってしまったりする。これはジリアン・テットという社会人類学専攻のジャーナリストが指摘しているのですが、サイロ・エフェクトを避けるためには、サイロの中の人、インサイダーであるだけでなく、同時に外の人、アウトサイダーでもあれと。そうすれば先ほどの旦那さんも、たまたま街灯が照らしている場所だけを探すんじゃなくて、暗い場所にも落ちているかもしれないと思える(笑)。それにしても、光景が目に浮かぶようないいたとえ話ですね。
橋爪 
 あとね、この本で必ずしも主題的に書いていないことがあるんです。まあうっすらとは書いてあるけど、日本語の問題なんです。この本は日本語で書いてあるし、読者も日本語が読める人だから、日本語の本を読む読み方の話なわけです。でも付録の、かならず読むべき「大著者一〇〇人」リストには、翻訳がたくさん載っているでしょう。むしろ大部分が翻訳ですね。原典が外国語で、その外国語を日本語に翻訳したときに、翻訳のおかげで、ひどい目にあうことがありますよ、というかたちでしか書いていないのだけど、でも外国語の本にアクセスしにくいことを、翻訳者や翻訳のせいにしていいのか、外国語と日本語の違いのせいにしていいのかという問題がある。理想としては、かりに私が日本語しかできなかったとしても、日本語の制約を脱出できることが望ましい、最終的には。日本語の本をずっと読んでいて、そうした課題に気づき、その制約を乗り越えることができるか、という問題がある。個人の努力として誰でもできる最低限のことは、外国語を少なくともひとつは習得し、外国語が読めるようになって、外国語と日本語の両方の本を読むこと。翻訳があった場合には、原典と並べて読む。それについてはこの本でも、軽くは書いてありますね。でもそういう読み方は実は、決定的な決め手にはならない。これ以上どんな方法があるかというとまったく不明。
文字の世界に出て行くには 子供のときの遊びが大事

山本 
 いまのお話と大きく重なるかもしれませんが、母語である日本語を、あたかも母語ではないかのように考えてみる方法があると思います。日本語なら日本語の文法がありますね。その文法を学校で習う時には、「こういうものだよ」と、いわばレディメイドの知識として受け取る。名詞があって動詞があって形容詞があって形容動詞というどっちつかずに見えるものもあって、主語と述語があって係り結びをするのだとか。素直に鵜呑みにしたり、卒業とともに忘れてしまったりすればそれまでです。でも、先ほどの文明が失われた世界ではありませんけれど、文法が自明ではない状態に身を置いてみるといいと思うんです。「動詞って何なのだろう」という謎にとらわれてみる。そもそも「動詞」という言葉はどこから来たかと思うだけで異化作用が働くと思うんですよ。たとえば戦国時代にイエズス会の宣教師たちがやって来ましたが、彼らは布教のために現地の言葉を学びましたね。日本に来た宣教師たちは日本語の文法を分析します。ロドリゲスが『日本語大文典』や『日本語小文典』を書いて、日本語はこういう文法だよという教科書を作った。その際、彼らは日本語の文法をどう捉えるかというと、彼らがもともと持っていたラテン語の文法をレンズにして見たわけです。ラテン語の「格」によって「てにをは」を捉えようとしたりする。こんなふうに、日本語の文法を知らない立場に身を置いてみると、普段意識しないでいる文法概念やカテゴリーを異物として自覚できるんじゃないかなと思いました。文法用語はなぜこうなったかということを、さまざまな言語の文法と較べてみてもいいですね。そうすると、普段あまり意識しないままでいる日本語の外にちょっと出やすくなるのかなと思いました。
橋爪 
 言語はいくつもある。日本語があると知っている人は、外国語があると知っていて、違いがあることも知っている。そうするとまず、言語の相対主義にはすぐ行くんですよ。日本語ではこういうことになっているけど、しょせん相対的でしょって。しかし相対主義になったあと、それをどう回収していくかという話がある。個々の言語によらない、何か普遍的な言語の秩序や人間性の根拠があるんじゃないかという話になってくる。これを科学的に究めたのがチョムスキーだと思う。チョムスキーは英語を基本にしているけれども、英語の研究をしているわけではなくて、普遍文法という概念を立てて、生得的な文法の構造に根ざした、言語の秩序を明らかにしようとした。表層と深層があって、表層とは個々の言語のいわば観察可能な部分なんだけど、その言語が生み出されるプロセスまで考えると、そこには言語が違えど共通性があって、同じメカニズムを想定しておけば十分だという。その共通のメカニズムの部分を、普遍文法と呼んだ。ユニバーサルズという概念を立てて、それを人間の思考メカニズムの記述と考えるわけです。これは群論や代数学の応用なんだけど、とても素晴らしいアプローチである。とても素晴らしいけれども、眉唾だなみたいな(笑)。
山本 
 検証が難しい。
橋爪 
 そう。いまの「格」の話につなげると、チョムスキーは英語をもとに考えたんだけど、フィルモアという人が1970年ぐらいに出てきて、この人はたまたま日本語を知っていた。それでチョムスキーの変形生成文法に、待ったをかけた。動詞と格を想定するほうが、深層構造としては本質的だろう。だから動詞と格という概念さえあれば、英語も日本語も生成できる。そのように格を置いたほうが、VPとかNPとかを置いていくよりも、人間の認知や世界了解にうまく対応するように思って、私は非常に興奮したんです。なるほど言語と認知と人間の実存的精神活動みたいなものと、もしかしたらいっぺんに捉えられるかもしれないって。でもそのあと格文法はどっかに行ってしまって、あんまりその後発展している形跡がないんですね。残念なんだけど。そういう試みもありつつ、言語学のほうはあまりにたくさんの流派ができて生産性が低くなってしまった。、いまや認知科学のほうに人びとの関心が移っているけど、認知科学は、私はもっと眉唾に思っていて、あんまり信用していないんです。でもまあ、みんながいろんな学問の努力を続けるのは素晴らしいことではある。
文法が自明ではない状態に身を 置くことで日本語の外に出てみる

山本 
 認知言語学はチョムスキーの生成文法に対する異論としても機能していますね。また、認知科学のアプローチは、たとえば認知詩学や認知文学科学、認知考古学といったかたちで、異分野にも取り入れられて、ある対象を人間の認知の観点から捉え直してみようという動きもあります。いまのお話を伺ってあらためて思いましたが、本書の読みどころのひとつは、ものごとを成立させている条件や、一見そうとは見えないけれど存在している構造に目を向ける点だと思います。『正しい本の読み方』は、そうした条件や構造を自分でも見てとれるようになるには、どのように本とつきあえばよいか、ものを考えればよいかを教えてくれる教科書でもありますね。
橋爪 
 人間のやっていることは、人間が理解するには、ちょっと可能性が尽くせないぐらい不確定で広いんですね。さっきのジョークで言うと、駅から自分の家まで暗い道が続いているわけですけど、明るいところより暗い道のほうが多いわけです。理論やアプローチの都合で人間ができているわけではない。人間に合わせて、理論やアプローチを次々工夫していかなければいけない。この先どうなるかまだわからないんですよ。それで当面いいんじゃないかという気がしています。

本を読むときに、最後の手がかりになるのは、身体性だと思うんです。自分が感じたり食べたり歩いたり、遊んだり生きてきたりしたという、そのバラエティと実感があるから、文字を文字以上のものとして、言葉を言葉以上のものとして、受け取ることができると思う。その身体性がどういうところにあるかというと、子供のときの体験なんですよ。自分と、自分の周囲の物的世界と、無償で向き合って、交流交歓する。これを「遊び」というんだけど、遊ぶことが非常に大事で、シナリオもない、目的もない、報酬もない。遊ぶこと自身が享楽だみたいな、そういう始まりもなく終わりもなく限定がないことをずっと続けていくことが子供の特権なんです。でもいまは、それが寸断されている。どうして寸断されているかというと、まず親が見ている。大人が見ていて、何をやれとかこれをやるなとか指示する。遊びにとってこれぐらい困ることはない。一人遊びと集団遊びがあって、集団遊びも社会性を培うのに大事なんだけど、その根底には一人遊びがある。一人遊びを延々できるということも大事なわけ。いまこの条件がない。
山本 
 そうですね。
橋爪 
 なければ作るしかない。ただし一人遊びを延々と行なうためには、安全でなければいけない。でも大人は見ていてはいけない。昔だったら簡単だったのに、それを一人ひとりの子供に用意するのはなかなか大変なことになってしまった。この原的な身体性の経験がしっかりないと、文字の世界に出ていくのに困難を生じる気がする。遊びってかならず直接的で、経験や手触りといったその場の世界じゃないですか。言葉というのも話し言葉だから、やはりその場の世界なんだけど、文字はその外へ出ていけるという解放感があるわけ。それが本を読むことの喜びなんですね。
山本 
 いまここではないどこかへ精神をさまよわせるわけです。
橋爪 
 目の前にバナナがなくても「バナナ」と書いてあればバナナなんだ。そのような世界に行こうという強い動機を支えるのは、遊びの経験だと私は思います。
山本 
 おっしゃるとおりだと思います。少し別の角度から言い換えるとしたら、遊びとは、自分の身体と周囲の環境との組み合わせで何ができるのか、という潜在性を探る作業だと思うんですね。私の身体には何ができるのか。なんでもよいのですが、たとえば見上げる高さの木の枝に葉っぱがついている。ジャンプして取れるだろうか。自分はどの位ジャンプできるだろうか。工夫をしたらもっと高く跳べるのではないか。そんなふうにして周囲のものと自分との関係を確かめながら、その環境のなかで身体にできることを試す。しかも、遊びは利害とは関係なく他のことのためでもなく、遊ぶために遊ぶ。失敗してもまたやり直せばいいから何度でも試行錯誤する。遊んで試行錯誤を繰り返すうちに、静かに座っているときでも、自分の身体はそれとは異なる状態をとることができるという感覚も持てる。同じように、文字を読むことは、いわば精神のうえでの遊びだと思います。さまざまな文字の組み合わせを目から入れて、いまこことは異なる状態を思い描いてみる。さまざまに遊んでみることではじめて、自分の精神についても理解が深まるし、精神を遊ばせられるという感覚も身についてくる。本とは、そうした試行錯誤をさせてくれる装置でもあるわけですね。精神の遊ばせ方は『正しい本の読み方』で教わるとして、さて、身体の遊びをどう取り戻すか。考えてみる必要がありそうです。本日はありがとうございました。

この記事の中でご紹介した本
正しい本の読み方/講談社
正しい本の読み方
著 者:橋爪 大三郎
出版社:講談社
以下のオンライン書店でご購入できます
2017年10月27日 新聞掲載(第3212号)
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