〈11月〉二人冗語 馬場美佳・福島 勲 限りなく透明に近いエロス 村田沙耶香「満潮」|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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2017年11月4日

〈11月〉二人冗語 馬場美佳・福島 勲
限りなく透明に近いエロス 村田沙耶香「満潮」

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馬場 
 今月は定番四誌に加えて、「文藝」、「三田文学」、「早稲田文学増刊女性号」です。新人賞も「新潮」「すばる」「文藝」の三雑誌で発表されているので、読み切りだけで四〇作近くありました。
福島 
 必読作品として意見が一致したのは、村田沙耶香「満潮」(早稲田文学)ですね。
馬場 
 冒頭で「夢精をして目が覚めた。」と語っているのが主人公の佳代だとわかってまずぎょっとしたんですが、するとこんどは、夫の直行が「潮を噴いてみようと思うんだ」とこれまた仰天することを言い出す。この性をめぐる「自分の身体」の「可能性」のための修行を軸にストーリーが進んでいきます。
福島 
 夢精した妻、潮を吹きたい夫という設定は、父乳のような逆転の発想なのですが、さすがに「出落ち」だろうと思っていたら、どっこい、奥行きは深く、セクシュアリティをめぐる見えざる暴力と支配構造が明るみに出されていきます。たとえば、女性の自慰や潮吹きをネタにする男たちに対して、女性たちが自分の身体を嗤われている、自分の性が他人に強奪されているという感覚を抱くことを、残念ながら、多くの男性は忘れがちです。
馬場 
 そうした男たちの無意識な暴力に強い嫌悪感を示すのが育児中の友人・雪子です。名前の通り真っ白で潔癖な彼女はフェミニスト側の代表ですね。
福島 
 まあ、最近はBLとかもあるので、多少はお互いさまとも言えるようになった(笑)。しかしながら、村田はそれとは別の方向へ行こうとしている。実際、性の強奪は、女性だけでなく、男性の問題でもあります。社会からの出産圧力にコンビニ人間が晒されていたように、密やかな場所で執り行われる、もっとも個人的に見えるセックスすらも、外部から押し付けられたもの、言わば、他人様のものになっている。イク/イカせる、潮を吹く/吹かせる、という規範がどこまでも追いかけてくる。そこで、佳代は、自分たちの身体を取り戻そうとばかりに、夫とともにそこからの脱出をはかる。「私はこの人と逃げようと思った。同じものに追いかけられているこの人となら、私たちに液体を出せと命じる大きな化け物から逃げられる気がした」は見事な宣言です。
馬場 
 その見果てぬ夢として、夜明けの海で三匹の老婆たちがキキキと笑いながらともに潮を吹く鮮烈なシーンがあるのでしょうか。
福島 
 ええ。とはいえ、村田が目指しているのは、完全にフラットな性のゼロ度というよりは、限りなく透明に近いエロスなのかなという感触は抱いています。
馬場 
 そのエロス感につながると思うのですが、佳代の初潮のエピソードには根源的な問いを投げつけられました。はじめての血の色に「いかしてる」と感動している。もちろん、周囲の友達や先生はそうじゃない。佳代のように「生理は私のものだった。経血は自分だけの奇跡だった」と思えるなら、どれだけの少女の性の悩みが解決するだろうと、ちょっと天啓のように感じました。慣習で赤飯を炊かれて強制的に社会化されてしまうことで植え付けられる羞恥心より、自分ための大事な「経験」として大切にできる方が、今の時代、何倍も豊かであるはずですからね。
福島 
 つげ義春でさえ、初潮を「紅い花」に象徴させ、幻想と感傷で彩っていますからね…
馬場 
 外部から押し付けられているものか、そうではないのか、という問題も含め、自己・国家・言語・性という複数の観点から、薄皮をはぐように見極めつつ自身の認識を深化させていたのが李琴峰の二作が描いた主人公たちでしょうか。「流光」(群像)の方は群像新人賞受賞作「独舞」の発展進化形のようでした。「ディアスポラ・オブ・アジア」(三田文学)はまた違った角度からの物語に見えました。
福島 
 前者では、レズビアンや台湾人という設定はあくまで後景に過ぎず、SM嗜好者という視点からマイノリティが語られ、後者では、異性愛に対してのレズビアンという生き方を参照項にしつつ、中国に対しての台湾というマイノリティの立場を語っています。台湾と言えば、ちょうど温も現れて、時ならならぬ台湾ブーム、いやディアスポラブームとなっていますが…。
馬場 
 そうですね。今月の温又柔の連作「空港時光」(文藝)で印象がはっきりしてきたのですが、彼女の場合、対談やシンポで繰り返し発言している通り「国語」への違和感がいつも主題なわけですけれど、実は肝心の物語部分は、どれも定型的で既視感のあるものばかり…もっというと旧弊です。
福島 
 温作品がある種の読者をイライラさせるのは、ナショナルから抜けているようでいて逆にナショナルに囚われているからです。つまりは、ナショナル批判に見せながら、ナショナルがなくなると失業してしまうからナショナルを維持させねばならないという立ち位置にある。「間」とはそういうことです。その結果、陰影のない、類型的な人物たちがゾンビのように動き回る気の抜けた小説になる。そもそも、「ことあるごとに富士山の神々しさを語り、天皇陛下がお住まいの皇居を死ぬまでに一度は拝みたい」日本統治期の台湾人なんてクリシェもいいところです。李は台湾抜きでも書けますが、温の作品から台湾を抜いたら何も残らないような気がする。
馬場 
 おっしゃるとおり。人物造形にも野心的になっていただきたいですね。何作読んでも、こちらの人間認識が更新してもらえないのが残念です。
福島 
 温作品の問題点については、彼女の師匠のリービ英雄が危惧しているように(文學界)、ステレオタイプなイメージの列挙にあります。温は自分は個性ある「私」なのよということは意識していても、反面、他者には個性を認めていない。その結果、いわゆる「エピナル版画」とフランスで言われるような、やさしい、予定調和なエグゾチスム小説が量産されている。もてはやす人々がこんなにいるとは思わなかったけれど。それに比べると、李の作品は書かれる意味があるし、読まれる意味があると思う。
馬場 
 李の「ディアスポラ」と温の「空港時光」ですが、奇しくも末尾が全く同じ趣向です。国際空港の「おかえりなさい」という電光表示を見て、主人公がどう感じているのかが描かれている。これが彼女たちの違いを端的に示していそうです。
福島 
 韓国、北朝鮮、中国との関係が緊張のあるものになってる今、台湾が唯一の癒し系アジアとして見えているのもあるかもしれませんね。甘噛みぐらいの「甘酸っぱい」痛みを与えてくれるぐらいの旧殖民地ものが日本人の自己愛と反省心を慰撫するのにちょうどいい…(笑)。
馬場 
 アジアといえば、インドを舞台にエキゾチシズムをSFに練り上げた新潮新人賞受賞作・石井遊佳「百年泥」(新潮)がありました。
福島 
 洪水でできた泥だまりの中から、あるはずのない日印の過去の遺物が掘り出される。『マルコヴィッチの穴』のようなとぼけた設定ですが、笑わせどころのツボを押さえた見事な話芸で読ませます。石田千「母とユニクロ」(群像)もしみじみ読みました。今月の作品の中では、一番のリアリズム小説だと思ったのですが…。
馬場 
 地方の実態とユニクロのグローバリズムが、同一地平上に展開しています。洋裁をやる老いた母親と娘が一時間に一本のローカルバスにのってユニクロに買い物に行くだけの話ではあるのですが、描写が生きている。それにカギカッコのない会話の表記が、フラットな世界観にあっているのでしょうか?
福島 
 かつてのダイエー、ニチイ、ジャスコがすべてイオンモールに変わったというのが目の前の現実です。その結果、別の町の話なのに、自分の町のように読める。
馬場 
 たしかに。それに主人公が世界を旅して見聞したユニクロのエピソードが挿入されるので、秋田の一都市にすぐ世界の大都市がリンクする。「パリで最初に入った店が、ユニクロだった。お月さまのように、どこにいってもある。」といった、ちょっとした表現が素直に入ってくる気がしました。単なるグローバル化の物語にならないのは、語り手の観察の細やかさのおかげですね。
2017年11月3日 新聞掲載(第3213号)
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