カシス川 / 荻野 アンナ(文藝春秋)言葉では語り得ない痛苦を「物語」に託すことによって鮮やかに表現|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
2017年11月11日

言葉では語り得ない痛苦を「物語」に託すことによって鮮やかに表現

カシス川
著 者:荻野 アンナ
出版社:文藝春秋
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カシス川(荻野 アンナ)文藝春秋
カシス川
荻野 アンナ
文藝春秋
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家族の深く強い絆、と言えば聞こえはよいが、絆というのは個の輪郭など溶かしてしまうかのように力を発揮する呪縛でもあったのだ、と思い出す。母と娘の絆となればなおのこと。愛と憎しみ、憧憬と侮蔑、感謝と怨念――、それは時に複雑に絡まり合った様々な感情によって染め上げられ、色を濃くしてゆくために、一層絶ちがたいものとなる。この困難な関係をいかに生き、いかなる言葉で語るのか。本書は、作家自身の闘病介護体験を下敷きにしたものであるが、客観的事実の記録ではない。事実を正確に伝えようとする言葉では語り得ない痛苦を、「物語」に託すことによって鮮やかに表現した作品と言えるだろう。これには、著名な画家であった作家の母親の手による「3・11 希望」と題された鮮やかな作品が、装画として付されている。

癌の恋人を看取り、父を看取り、鬱を病み、大学教員と作家の仕事をこなしつつ要介護4の母親の生活を助ける「私」の腸に、癌が見つかった。「これで休める」と安らぎさえ覚えながら告知を受け入れた「私」は、母とともに入院することにした。一卵性母子が伝統の家で、母と「私」の闘病が始まる。頑固で奔放な母のとめどない要求に、ままならぬ身体で応え続ける生活に再び疲れ果てた「私」は、不思議な幻覚を見るようになるが……。

「お前が女の子でよかった」と母は言う。六歳で世界に絶望し、若くして死を求め、不本意な結婚と屈辱的な妊娠を経て、画家としての創作に打ち込むとともに、絵と同質の完璧を家事でも限界まで追求した。そのような母が滾らせる情念を娘の「私」は否応なく察知して、自らのささやかな喜びのひとつひとつに罪悪感を抱いては母を慮ってしまう。内奥には母の肉が食い込んでいて、「私」は社会的に成功し自立した女性のようでありながら、自らの生を、自らの身体を、生きられてはいなかった。時に反発を覚えながらも、自らの否定をも意味する母の否定はできなかった。「癌」は紛れもなく「私の」体験であったが、母にも癌が発見され病と老いとが深まるとともに、その意味は剥落してゆく。聞きたくもないはずの母の身体の隅々の事情まで常に把握させられ、幻想さえもともに育ててしまう「私」の自己同一性は、混乱を極める。

母の呪縛から抜け出すことはたぶん、現実的には極めて難しい。母は「大変な難産」の末に「私」を生んだ、という決定的事実の所有者で、それを繰り返し語り聞かせては「私」に謝罪を要求し、罪悪感をかき立てることができるのだから。母の死後も変わらず縛られたまま、空虚感に苛まれる「私」に寄り添うのは、ふと手に取った「竹取物語」であり、本書の表題ともなっているランボーの詩「カシス川」だった。それらに導かれるように「私」は言葉を紡ぎ出し、母との物語を生き直す。その中で浮かび上がる、母を生んで乳房を含ませ、慈しみ育てて決して離すまいとする――母との関係を反転させようとする――イメージに、満たされてゆく。

語ることによってひとは自らの外に出て、その記憶に意味を与えて塗り替える。そこに立ち上がる現実と虚構とがないまぜになった世界にこそ、矛盾に満ちて混沌とした、しかしどうしても誰かに伝えたい思いが宿っていて、語るひと自身をさえ、はっとさせる。真実とはこのようなものではないか。作品として結実した「私」の真実はきっと、困難な関係を生きる多くのひとたちに届き、その胸を揺さぶるはずだ。

この記事の中でご紹介した本
カシス川/文藝春秋
カシス川
著 者:荻野 アンナ
出版社:文藝春秋
以下のオンライン書店でご購入できます
2017年11月10日 新聞掲載(第3214号)
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