本当らしさや適切さからの解放 アキ・カウリスマキ「希望のかなた」|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
読書人よ、集まれ!

トップページ

特集

書評

連載

コラム

ニュース

読書人とは

  1. 読書人トップ
  2. コラム
  3. 映画時評
  4. 本当らしさや適切さからの解放 アキ・カウリスマキ「希望のかなた」・・・
映画時評
2017年11月14日

本当らしさや適切さからの解放
アキ・カウリスマキ「希望のかなた」

このエントリーをはてなブックマークに追加
妻と仕事を捨てたフィンランド人のヴィクストロムと、シリアのアレッポを逃れた難民のカーリド。前者はレストランの店主となり、後者は強制送還の処分となる。ある日二人が出会い、ヴィクストロムはカーリドを従業員として匿う。アキ・カウリスマキの新作『希望のかなた』は、前作『ル・アーヴルの靴みがき』と同様、ヨーロッパの白人と不法滞在者の交流を描く。とはいえ、欧州の移民問題という社会的現実の反映を読み取るだけでは、この新作の魅力を取り逃がすだろう。優れた作品は外的状況に依存しない強度を必ず持つ。

前作のル・アーヴルと同様、新作で二人が出会うヘルシンキも港町だ。この新作は海辺で始まって海辺で終わる。カーリドは水とともに現れ水とともに去る。その意味で彼は『素晴しき放浪者』のブーデュであり、ジャン・ルノワールのこの名作も異なる共同体に属する二人の男の出会いと別れを描いていた。だがカウリスマキは、ルノワールのように人物を水中に落下させて画面の官能性を謳歌するようなことはしない。カウリスマキは、卓上に置くには大きすぎるサボテンや背景の壁に飾られた魚の奇妙な絵といった細部で慎ましく戯れる。収容施設でカーリドが奏でるサズという弦楽器の音色は優美で繊細だ。より重要な例は煙草で、全篇を通じて頻繁に吸われる。煙草のやり取りがイラクから来た男とカーリドの友情を育み、非合法のカジノにこもる煙草の煙が白んできた屋外の冷たい大気と対比される。これらの輝きは、喫煙をめぐる現実の社会の状況とは一切無縁だ。また、まるで虚構の存在だと十分自覚しているかのような、登場人物たちの淡々とした仕草や表情が何よりカウリスマキ的である。子犬を店主から隠そうとする二人の従業員はその典型的な例だ。こうした演出や演技における絶えざる抑制と計算に、言わば機械仕掛けの官能を見出すことは、それほど難しくない。

映画はヴィクストロムとカーリドの行動を交互に描き、二人が出会うのは映画が三分の二ほど経過してからだ。レストランのゴミ捨て場で、ヴィクストロムは収容施設を逃げ出したカーリドに会う。ただし、冒頭で二人はすでに顔をあわせている。ある夜、ヴィクストロムが車に乗って地下の駐車場から外に出ると、カーリドを目の前に見て一瞬車を止めたのだ。カーリドは船を降りて町に足を踏み入れたばかりだった。電灯の黄色い光と車のヘッドライトが、石炭で黒く汚れた彼の顔を照らした。その実直そうな瞳のなんと印象的なことか。この時、二人の視線の交換が後の本格的な出会いを宿命づけ、同時にこの空間を、より正確には地下駐車場の内部を物語の重要な舞台として定めたのだ。

これは現実世界における因果関係とは全く異なるものであり、現実世界の尺度を持ち込んで理解しようとしても無駄である。虚構世界の合理性が現実世界の合理性と同じだというのは、根拠のない思い込みにすぎない。虚構世界のそれはまさにこの視線の交換がもたらす運命のような、現実世界の尺度で考えれば出鱈目なものだ。現実を模倣する本当らしさや社会的な適切さに基づく合理性などでは決してない。『希望のかなた』の豊かさを十分に味わうためには、本当らしさや適切さから解放されてこの作品を観なければならない。

今月は他に、『エルネスト』『バリー・シール』『鉱ARAGANE』などが面白かった。また未公開だが、ブリュノ・デュモンの『アウトサイド・サタン』も印象に残った。

2017年11月10日 新聞掲載(第3214号)
このエントリーをはてなブックマークに追加
伊藤 洋司 氏の関連記事
映画時評のその他の記事
映画時評をもっと見る >
芸術・娯楽 > 映画関連記事
映画の関連記事をもっと見る >