鼎談=雨宮処凜×片山杜秀×大澤聡 90年代とはどんな時代だったのか 『1990年代論』(河出書房新社)刊行トークイベント採録|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
読書人よ、集まれ!

トップページ

特集

書評

連載

コラム

ニュース

読書人とは

  1. 読書人トップ
  2. 特集
  3. 鼎談=雨宮処凜×片山杜秀×大澤聡 90年代とはどんな時代だったのか 『1990年代論』(河出書房新社)刊行トークイベント採録・・・
読書人紙面掲載 特集
2017年11月10日

鼎談=雨宮処凜×片山杜秀×大澤聡
90年代とはどんな時代だったのか
『1990年代論』(河出書房新社)刊行トークイベント採録

このエントリーをはてなブックマークに追加
第2回
今の諸問題の起源は九〇年代に

雨宮 処凜氏
大澤 
 この本の冒頭には、「九〇年代の亡霊たちが日本社会を徘徊している」と書きました。現在の諸問題の起源をたどると九〇年代に行き着きます。例えば、雨宮さんが取り組んでいるフリーター問題や女性の自立問題なども、あの時代にすでに浮上していた。にもかかわらず、ほとんど手を付けられてこなかった。沖縄問題にしても年金問題にしてもそうですね。一つでも宿題を片付けておいてくれたら……と思うことは多々ある。
雨宮 
 二〇〇〇年代に入って貧困が可視化して、全然ちがう光景に見えてきた。二〇〇八年に土屋トカチさんがドキュメンタリー映画『フツーの仕事がしたい』を撮りました。トラック運転手の長時間労働を告発した映画なんですが、びっくりした。「普通の仕事がしたい」が二〇〇〇年代の願望なんですよ。九〇年代には、普通の仕事なんて絶対にしたくなかったし、普通に生きたいなんて思いもしなかった。
大澤 
 「自分探し」ブームが延々続いていた。
雨宮 
 そう、「スペシャルな生き方」や「特別な私」が欲しかった。私の場合、九〇年代はフリーターで貧乏なくせに、「資本主義大国で豊かなのに生きづらい私たち」という物語の中にいた。二〇〇〇年代になって気づいたら、「生きづらいうえに貧乏」という現実が迫ってきて、さらにみじめになった。二〇〇〇年前後を境に、モードが根本から変わった気がします。
大澤 
 そして、普通でいたくなかったはずの人たちが普通こそを求めはじめた。
雨宮 
 底辺だと気づいたわけです。
大澤 
 つまり、「ここではないどこか」を熱望していた人たちが「いま・ここ」にぐっと引き戻されるのが二〇〇〇年代。「絆」というキーワードも蔓延し、半径数メートルやジモトの共同体に埋没していく。見田宗介や大澤真幸の用語に「虚構の時代」がありますが、虚構の世界に潜り続けた先にふっと現実に浮上する。片山さんの戦前日本の右翼研究もどこかそんな九〇年代の空気との呼応関係があったんじゃないでしょうか。
片山 
 私は一九八二年に大学に入りますが、そのころからテーマは日本の右翼でした。戦前右翼で「超越」というと、西洋近代的な価値観に支配された現実世界の超克ですね。初めはそういう破壊的な人物に惹かれていたのですが、八〇年代後半になると「超越」よりも「刹那」に興味が移りました。特に原理日本社なんですが。現実刹那の日本に充足して法悦しろ、そうでない奴はやっつけるぞ、というタイプの戦前の右翼ですね。今この瞬間も日本には天皇がいる。それだけでいい。意味不明な世界を天皇と共に生きろ。そういう思想です。「それが政治思想研究なのか、現実に資するのか」と当時は散々でしたけど、いや、刹那主義と天皇主義の連関の理解がポスト冷戦期には資するのだと言い張って、周囲からは呆れ果てられていましたね。
大澤 
 今振り返って俯瞰してみると納得できる部分もあるけれど、当時、その文脈は見えないでしょうね。
片山 
 これは元号の話になるけど、私は昭和が終わって平成になったときに時間が止まった感じがしました。八〇年代後半は学生たちはノンポリやニューアカ。ポストモダンと言われて時間的連関が消される思考形態が尊ばれた。そのあとのバブル期は刻一刻しかない瞬間の沸騰でしょう。それが崩壊すると物差しのないバラバラな時代になった。どの時代にも共通するのは脈絡がないということ。それでもまだ右肩上がりの余得で九〇年代は過ぎていった。バブルが崩壊しても日本人はなお豊かでしたし、テレビも映画も演劇も音楽も十二分に面白かった。
大澤 
 これまでの蓄積のリサイクルでやっていけた。
片山 
 そうやって九〇年代も夢のように過ぎていったけれど、じつは資本主義の退却戦はすでにはじまっていたんですね。全体に充分にお金を回せなくなってくる。資本主義末期になると、面倒を見きれないから捨てるという発想になります。実際には「棄民」なのに、「自由な生き方」「多様な人生」と表現する。
大澤 
 初期のフリーター問題がまさにそうでしたね。しかし、自己選択の裏に徹底した自己責任が貼り付いている。
片山 
 テレビドラマでも、多重人格ものがやたら流行った時期がありましたけれど、あれは「多様な人生」の象徴的表現形態だったのでしょうね。
大澤 
 超越の話に無理やりつなげると、九〇年代にはそれでもまだ「どこか」という外部が信じられたんでしょう。資本主義でいう「フロンティア」があると錯覚していられた。ゼロ年代にはそんなものはもう幻想なのだと一気に明るみに出て、はしごを外される。
片山 
 「雇用されなくても生き方が多様になる」に騙された人がたくさんいたはずですね。 

この記事の中でご紹介した本
1990年代論/河出書房新社
1990年代論
著 者:大澤 聡
出版社:河出書房新社
以下のオンライン書店でご購入できます
エキタス 生活苦しいヤツ声あげろ/かもがわ出版
エキタス 生活苦しいヤツ声あげろ
著 者:今野 晴貴、雨宮 処凜
編 集:エキタス
出版社:かもがわ出版
以下のオンライン書店でご購入できます
2017年11月10日 新聞掲載(第3214号)
このエントリーをはてなブックマークに追加
雨宮 処凜 氏の関連記事
大澤 聡 氏の関連記事
読書人紙面掲載 特集のその他の記事
読書人紙面掲載 特集をもっと見る >
社会・政治 > 社会学関連記事
社会学の関連記事をもっと見る >