擬 MODOKI 「世」あるいは別様の可能性 / 松岡 正剛(春秋社)日本人の面影の正体  「擬」の本質を知ることは 日本の「本来」を解義すること|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
2017年11月18日

日本人の面影の正体 
「擬」の本質を知ることは 日本の「本来」を解義すること

擬 MODOKI 「世」あるいは別様の可能性
著 者:松岡 正剛
出版社:春秋社
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「ちぐはぐ」や「あべこべ」、「面影」や「お裾分け」、「模倣」や「借り」といった、合理に還元できないことから、ないがしろにされてきたことに光を当てようとする本。

たとえば「ちぐはぐ」は、「鎮具」(金槌のこと)と「破具」(釘抜き)を意味し、首尾一貫性コンシステンシーを確立するためには、「ちぐ」と「はぐ」を間違えることは許されない。しかし松岡は、首尾一貫の押し付けに疑問を呈する。

ほかにもさまざまな鍵語が登場するけれど、評者も大きな関心を抱く「面影」についてみていきたい。

松岡は、与謝蕪村が牡丹をよんだ、「せきとして客の絶間たえまのぼたん哉」と「ちりて後おもかげにたつぼたん哉」の二句を挙げ、この二つとも「牡丹についての主観や客観ではなく、表現主体や客体描写ですらない」と指摘する。そして、牡丹によって忽然とあらわれた「寂」と「絶間」と「おもかげ」だけを詠んだのだという。

また、藤原隆信の「源頼朝像」や「平重盛像」は「魂」を描いたと言われるが、似絵の名手が描きたかったのは「魂」ではなく、「影」だったとみる。「撮影」「影響」「御影」の影であり、それを写し出し、映し出してきたものが「面影」や「影向ようごう」だったというのだ。

さらに編集者として、「面影」こそが編集されるべきであり、その編集は「寂」や「絶間」を端緒にできると述べる。そして、その端緒は「かわる」と「がわる」、「借りる」と「貸す」、ギリとニンジョー、ゴジラとシン・ゴジラ、世界と世間のあいだの面影として偲び出るのだとする。

ここで日本の面影を編集する方法として導き出されるのが、民俗学者折口信夫いうところの「もどき」である。「擬」の本質を知ること、「日本人の面影」の正体を「擬」として捉えなおすことは、日本の「本来」を解義することだというのが松岡の考えだ。

折口は『翁の発生』で、「もどく」という動詞は「反対する」「逆に出る」「批難する」などの意味だと考えられているが、演芸史の上では、「物まねする」「説明する」「代って再説する」「説き和げる」などという語義が加わっていると述べていた。

静岡、愛知、長野の県境山間に残る田楽や念仏踊り、花祭りなどで、翁に絡んで出る「もどき」にはこれらのすべてが備わる。「もどき」は翁の役を複演し、異訳演出し、また翁の仕事を平俗化し、敷衍して説明する役である。

長野県下伊那郡阿南町新野で毎年小正月に行われる「新野の雪祭り」において、「しょうじっきり(正直切)」は「もどき(茂登喜)」と「さいほう(幸法)」を派生し、「もどき」の上に「さいほう」を重ねていくなど、どこまで「もどき」が重なるのか知れないほどだと折口は驚嘆した。

松岡が本書でみせる方法自体がまた、「擬」の上に「擬」を幾重にも重ね、「腑に落ちる」理屈や論理に抵抗する芸能のようにもみえる。

この記事の中でご紹介した本
擬 MODOKI 「世」あるいは別様の可能性/春秋社
擬 MODOKI 「世」あるいは別様の可能性
著 者:松岡 正剛
出版社:春秋社
以下のオンライン書店でご購入できます
2017年11月17日 新聞掲載(第3215号)
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