私たちのなかの私 承認論研究 / アクセル・ホネット(法政大学出版局)社会的なものの問い   ――アクセル・ホネットの現在――|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
読書人よ、集まれ!

トップページ

特集

書評

連載

コラム

ニュース

読書人とは

  1. 読書人トップ
  2. 書評
  3. 私たちのなかの私 承認論研究 / アクセル・ホネット(法政大学出版局)社会的なものの問い   ――アクセル・ホネットの現在――・・・
読書人紙面掲載 書評
2017年11月18日

社会的なものの問い  
――アクセル・ホネットの現在――

私たちのなかの私 承認論研究
著 者:アクセル・ホネット
出版社:法政大学出版局
このエントリーをはてなブックマークに追加
『社会的とはどういう意味か』――フランス独自編集の二巻本(二〇一三・二〇一五年)に与えられたこの表題は、アクセル・ホネットの全業績を貫く関心の所在を適切に伝えている。じっさい「社会的なもの」の領野の探究こそは、『権力の批判』以来、彼の主要な企図であり続けてきた。

この一九八五年の著作で、哲学者はまず、初期フランクフルト学派とりわけアドルノの社会理論のうちに「社会的なものの排除」を見定める。そこでは全体主義論の文脈が戦後西ドイツ社会の分析にまで拡張され、社会的現実が全面的な支配/被支配関係の秩序へと還元されてしまったというのだ。このアポリアを脱却し、「社会的なものの再発見」を果たした立役者として、ホネットはハーバーマスを、しかしまたその論敵ミシェル・フーコーを、同時に評価する。後者は社会的なものを「闘争」のパラダイムのもとで見出す。しかし社会秩序を「永遠に続く闘争関係」としてのみ把握することはできないことから、フランスの哲学者は歴史分析においてはこの観点を放棄し、アドルノ流の画一的な権力観に回帰してしまう。対照的に前者は、社会的相互作用を「了解」の次元において見出す。しかしそこには、社会秩序をあまりに葛藤のないものとみなしがちだという欠点がある。こうしてホネットは闘争の次元の還元不能性を確認し、独仏の理論家の議論を架橋して、「コミュニケーション理論に依拠した、社会の闘争的モデル」(一九八八年版後記)を提案するのである。

気づかれるように、ここでは、経済的不平等と再分配の問題系が周縁化されている。のちのナンシー・フレイザーとの論争を通して強調されたように、ホネットにとって再分配的次元は、社会の十全な構成員として承認されるという道徳的次元との関係でしか意味をなさない。不十分な報酬の問題は、損なわれた尊厳の問題なのである。

再分配の問いを後景化したうえで、社会的なものをめぐる議論を二つのパラダイムの競合関係を軸に展開するというこの二重の身振りは、『権力の批判』において最初の定式化を見たのち、以後の彼の仕事に基本的な枠組みを提供することとなったといえよう。『社会的とはどういう意味か』第一巻の序論は、この競合関係をドイツ・モデル――ヘーゲルを典型とし、承認をめぐる闘争を統合の媒介、「共同体の漸進的拡大の動力」とみなす――とフランス・モデル――ルソーに遡り、統合の契機を欠いた終わりなき支配/被支配関係を想定する――との対話、「承認の積極的モデルとむしろ懐疑的なモデルのあいだの絶えざる行き交い」として捉え直している。

今回日本語訳の出た『私たちのなかの私』は、収録論考の半数をフランスの論集と共有していることからもわかるように、原著刊行の二〇一〇年頃までの著者の仕事の有益な集成として読みうる著作である。例えば両論集に所収のリュック・ボルタンスキー論(二〇〇八年)は、上記の両モデルの対話という文脈で、彼の理論の特徴をよく理解させてくれる。ここで主として論じられるのは、前年に独訳が出たばかりの『正当化の理論』(原著一九九一年)である。社会秩序を構成する六つの規範的理念型を見定め、批判の営為をこれら複数の「市民体」間の交渉に還元する同書の議論は、既存の諸制度の安定性を自明視するものとしてやがてボルタンスキー自身による乗り越えの対象となっていく。しかしこの旧作をホネットは、六つの原理が形式上序列化されていない限りで、合意による安定化の契機を排して「社会的なものの液状化」をもたらすものとみなし、そのような観点から批判するのである。なおボルタンスキーは、ホネットに招かれフランクフルト社会研究所で行った「アドルノ講演」に基づく『批判について』(二〇〇九年)において、諸制度に枠づけられた社会的構築物としての「現実」を「世界」――「生起するものすべて」(ウィトゲンシュタイン)、すなわち生の流れの総体――にさらし、その「粘性」を溶きほぐしていくべきことを説いている。連続講演の直前に雑誌掲載されたホネットの「液状化」論文はそれゆえ、過去のボルタンスキーの議論を以後の展開に沿ったかたちで再構成して、このフランスの友人のアプローチを彼自身のアプローチと対比させているわけだ。

こうしたところに、漸進的改革の舞台として既存の制度的現実を重視するホネットの基本的傾向が表れているといえよう。この傾向は、トロツキスト系のサークル内で「新しいベルンシュタイン」として非難されたというベルリン時代から変わらないものだ。じっさい彼は、ベルリン自由大学に提出した博士論文に基づく『権力の批判』のおよそ三十年後の仏訳刊行(二〇一七年)に際して、フーコー(そしてアドルノ)のラディカルな制度批判をハーバーマスによって相対化する同書のアクチュアリティを証明すべく、二十一世紀の社会的議論におけるネグリやバディウ、あるいはジジェクの転覆的身振りを引き立て役として喚起している。

とはいえ、『私たちのなかの私』の興味は、彼の仕事を特徴づけてきたまさにこの相対的な穏健さが、次第に挑戦を受けていく過程の証言として読みうる点にある。一九九〇年代半ばのボルタンスキーは、数年前の『正当化の理論』では自明の枠組みとみなしていた現代資本主義の展開をもはや無視しえなくなったと感じて、『資本主義の新たな精神』(一九九九年)を著した。国際的な反響を得たこの研究を繰り返し参照するホネットの論集もまた、経済的不平等の深刻化という十九世紀的な「社会問題」の回帰を確認し(「組織化された自己実現」)、失業対策の名のもとに制度化される「市民労働」が労働条件切り下げを正当化していく現実を前にして、「イデオロギーとしての承認」を語らずにはいない。

それでも彼は――ポランニーによる市場経済の「社会的埋め込み」の要請を退けて――、「生計を維持することを保障する報酬と承認に値する労働」が、資本主義的労働市場に内在する原理そのものに従うことで実現しうることを説くのであり(「労働と承認」)、結局のところこの種の議論が本書の基調をなす。この議論を全面的に展開した著作といいうる二〇一一年の『自由の権利』では、「搾取の問題も、拘束のもとで結ばれる労働契約の問題も、資本主義的市場経済の彼方でしか解決しえない構造的欠陥として理解されるべきではなかろう」ことが主張されて、既存の社会秩序の維持が改めて強調される。こうした論調を見るなら、「承認理論を発展させていくなかで、わたしは「闘争」概念を大幅に見失うことになった」という、同年刊行のホネット論集(D・ペザーブリッジ編)での告白も、もっともなものとして了解されよう。

しかし二〇一四年春、ある合評会で『自由の権利』の論旨の体制補完的性格に関して集中砲火を浴びた彼は、「知的な自己理解が損なわれ、あるいは覆されてしまったという、奇妙で当惑させる感情」に苦しむ。「[ここで]批判されているのをわたしが見出す哲学者は、わたし自身がそうであると信じてきた左派ヘーゲル主義者ではなく、わたしがいかなる戸惑いもなく自分とはっきり区別してきた右派ヘーゲル主義者のひとりだ」(『クリティカル・ホライズンズ』十六巻二号)……。こうして成立した『社会主義の理念』(二〇一五年)は、これまでの理論的探究を引き継ぎつつも一種の市場社会主義の原理を提示し、支配的秩序の乗り越えの展望を開こうとする野心的な著作である。

「他者において自己のもとにあること」――ヘーゲルがこのように定義する自由を、ホネットは「社会的自由」と名付ける。市場はその十全な開花の場となりうるのか、もしそうだとして、現存の社会秩序はそれにふさわしい環境のもとに市場を置いているのか。『私たちのなかの私』の諸論考は、以後の二著作でさらなる展開を見る探究の、意義深い中間報告を提出している。(日暮雅夫・三崎和志・出口剛司・庄司信・宮本真也訳)

この記事の中でご紹介した本
私たちのなかの私  承認論研究/法政大学出版局
私たちのなかの私 承認論研究
著 者:アクセル・ホネット
出版社:法政大学出版局
以下のオンライン書店でご購入できます
2017年11月17日 新聞掲載(第3215号)
このエントリーをはてなブックマークに追加
片岡 大右 氏の関連記事
読書人紙面掲載 書評のその他の記事
読書人紙面掲載 書評をもっと見る >
学問・人文 > 哲学・思想 > 西洋思想関連記事
西洋思想の関連記事をもっと見る >