濠中に墜落したる自動車の引揚作業|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読写 一枚の写真から
2017年11月21日

濠中に墜落したる自動車の引揚作業

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昨年九月の大地震の噂も遠のいて来たところ、俄然一月十五日払暁又々激震襲い来った。写真はその朝、宮坂坂下門外のお濠端を試走中、柵を破って濠の中に墜落したる貨物自動車を引揚げつつある有様である。(「歴史写真」大正十三年三月)

トラックを水中に沈めているのではない。引き揚げているところの写真だ。

東京のど真ん中、皇居のお濠に墜ちた車体は、交通事故ではなく「地震のための故障」によって、坂下門外のお濠端を走っている時にバランスを失い、柵を破ってドボンと墜ちた。

大正十三(一九二四)年一月十五日午前五時五十分二十五秒、関東に激震が走った。震源地は神奈川県西部、M七・三。丹沢地震と名付けられたように、丹沢山を中心に被害は横浜市まで及び、死者十九名、全壊千二百戸余にのぼって、四か月前の関東大震災の再来かと恐怖が広がった。

大震災の余震だが、中央気象台地震室によると、十三年八月まで、東京で身体に感じるものだけで千四百九十八回の地震があった。

大震災が起きた十二年、東京市の自動車登録台数は四千八百五十二台だったのが、翌年は四千四百五十九台(『警視庁年表』)に減っている。その差三百九十三台のすべてが大震災で失われたとは限らないが、これに近い数が東京市内で被災したと推定されよう。

大震災の後だが、このトラックもまた地震被災車である。

この地震に「空中より被害を偵察す」とする『大阪朝日新聞』の記事があった。立川から飛び立った朝日新聞社の定期便からの報告に「東京では静岡市が大惨状を呈しているという噂がありましたが、異状を認めませんでした」(一月十六日付け)とある。

空から確認しなければ、噂は流言飛語となって東京市民の不安をかきたてたかもしれない。大震災が起きた時、「朝鮮人が毒を井戸に投げ込んだ」などと根拠のない噂に各所で自警団が作られて、不条理な殺戮や暴力が行われた。その追跡記事を二つ紹介する。
「市民の大多数はこの流言を警察官から聞いたといっている。説をなすものは警視庁が市民に自分の役目を手伝ってもらう為に考え出した名案?といっている(中略)自警団は面白がって『貴様は朝鮮人だろう』といって軍人や警察署長まではだかにした。警視庁はあまり薬がききすぎたのにびっくりしたものか、約半年目に自警団をやめさせた。…あの流言があったばかりに非業の死を遂げた同胞の数は千を以て数うべく、手柄のつもりで人殺しをやった自警団で獄に引かれたものは何千という数に上っている。…お役人で責を負ったものは一人もない」(『報知新聞』十三年八月三十日付け)
「参謀本部の砲兵大尉石橋鬼千與氏は、その当時震災地を駆けまわり任務を尽くしていた関係もあり、その後隊長から休暇をもらって二ヶ月にわたり私費で調査をやった。その統計が出来上がったので参考資料にと陸軍省に提出した」(『讀g新聞』十三年九月七日付け)

記事はその報告を詳細に記しているが、始まりは横浜市から横須賀へ逃げかけた人達が途中で略奪にあったのが、「(朝)鮮人らしい」と言ったのが広がって、「横浜に(朝)鮮人の暴動が起きたと伝えられた」となって虐殺がおきたうえ、高津村の警察署長が暴動が村に及ぶかもしれないと非常呼集で訓示したことが東京市内に伝わったという。

引用が長くなったが、これらの報道は新聞が社会のチェック機能を果たしていたことを物語っていることを再録したかった。まもなく昭和初期のメディア暗黒時代に入ることを考えると、貴重な大正デモクラシーの残影を見た思いがする。

2017年11月18日 新聞掲載(第3215号)
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