今を生きる人のための世界文学案内 / 都甲 幸治(リットーミュージック)自由の空間を開いてくれる文学へと誘い呼びかける力強い声|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
2017年11月25日

自由の空間を開いてくれる文学へと誘い呼びかける力強い声

今を生きる人のための世界文学案内
著 者:都甲 幸治
出版社:リットーミュージック
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徹頭徹尾、文学の本である。世界各地の作品と作者を紹介する文章もあれば、特定の作家に焦点をあてた論考もあり、著者自身によるエッセイも収録されている。全体では多種多様な文学の姿を集めた画集のようでもあり、それぞれがダイナミックに動き、叫び、怒り、絶望し、立ち上がり、復讐し、愛する、動画のコラージュのようでもある。著者の声は親しげで、ときに怒りを含み、ときに切なさに揺れ、まれに、伝えようとする大切なことのまわりをもどかしく周回する。その明瞭な声の響きを聴くうちに、紹介され論じられる小説を片端から読みたくなってくる。既読書も読み返したくなる。

「まえがき」で著者はタイトルについて説明する。比較文学者D・ダムロッシュの「世界文学とは、翻訳を通して豊かになる作品である」という言葉を引用し、「力のある作品は何度も翻訳されながら世界に拡がっていく」ものだと肯定しながら、では「翻訳されるほどの力を持つ」作品とはどのようなものかと問う。「それは、ほんの少しでも自由の空間を開いてくれるものだ。触れることで、息がしやすくなる作品だ。現代日本ではちょっとした奇妙さも許されない。周囲から空気が読めないと弾かれ、無能だとも見下される。死ぬまで働けと命じられ、体や心の発する苦痛は無視しろ、と教えられる。こうした状況に最初は違和感を抱いていても、やがては普通に思えて来てしまう。だからこそ世界文学が必要になってくるのだ」。世界文学という見方によって、閉じられた社会で当然だとされていることのおかしさや絶対性を、まったく別の角度からずらしてみることができる。だからお前はダメだという「自己否定の地獄」からも「少しだけ解き放たれる」。

そのような読書体験をもたらしてくれる「力」のある作品を求めて著者は第一章「二〇一五年以降の読書日記」から語り始める。特に、従来までは各国文学として言語や国や時代を元に分類されていた作品を、躊躇なく自由に関連づけてその繋がりを例示してみせるその勢いは爽快である。たとえば、インドから米国に渡り、家でのベンガル語と社会での英語とのあいだで板挟みになりつつ小説家となったジュンパ・ラヒリが、イタリア語を学び始めて「一度、自分を殺」し、板挟みから解放されるプロセスを書いたエッセイ集『別の言葉で』と、ヴァージニア・ウルフの『自分ひとりの部屋』とを「自由」というキーワードで接続させる。女性作家が小説を書いていくには「攻撃も称賛も共に跳ね返す強さがなければ」ならない。評価者たちに屈することは「最低の卑しむべき態度」(ウルフ)であり、書き手は「自分が書きたいことを書く、それがすべて」(ウルフ)であるという。著者はウルフから「強い勇気」をもらう。そして「ひとりぼっちでがんばっている世界中の人に、彼女は力を与えてくれる」と説く。

あるいはまた、オルハン・パムク『僕の違和感』が描く、巨大都市化するイスタンブールで混淆し混乱していく文化を生きる家族(東洋のブルース・リーのファンであると同時にアメリカの『大草原の小さな家』が好き)から、リービ英雄が少年時代を過ごし、親から英語を学んだ台湾への半世紀ぶりの過去を辿る旅を描いた『模範郷』へと繋いでいく。ほんの一文の引用に表れた「違和感」が強く訴える。「すみません、お母さんの五十年の淋しさを、急に、とぼくが言いかけた」(リービ)。

本書のタイトル末尾は「案内」となっている。いわばガイドブックであり地図であるなら、それを手にした読者自身が見つける楽しみもある。一例として、外国語を生きる、というモチーフがある。温又柔『台湾生まれ日本語育ち』について「幼いころ日本に移住した著者は……親の言う中国語につい日本語で答えてしまうようになり、話し方や仕草までどんどん日本人になっていく。母親の拙い日本語に苛立ち、ついキツい言葉を浴びせてしまう」。九ヶ月後の読書日記でも同じ作者の『来福の家』を取り上げ、米国にホームステイに来た日本人女子学生が、中国系の家庭が割り当てられると「ふつうのアメリカ人のいるお家に行かせてください」(温)と訴え、その家の訛りがひどくて「あんなの、英語じゃない」(温)と言い放つ場面や、子どもの日本語と親の中国語という言語の対比が社会関係の対比となって表面化する様子を著者は再び注視する。

この流れは前述のラヒリをはじめ他のいくつもの箇所と響き合っている。第三章では岩城けい『Masato』を論じ、オーストラリアに転校した真人が「異なる環境で生き延びるため」にまったくできなかった英語を必死になって身につけ、やがて自分の言語に変えていくその変化と変身に注目する。自分を受け入れなかった級友たちは真人にとって「もはや外国人ではな」くなっていく。反面、「真人に英語でまくし立てられると恐くなり、日本語でしゃべりなさいと叱りつけてしまう」母親との対立が表面化する。

こうした自分の言語と自分の姿との相関関係は、くぼたのぞみ『鏡のなかのボードレール』においても浮上する。「ボードレールの恋人でありカリブ海出身の黒人と白人の混血である恋人ジャンヌを、日本の文学者がどう表象してきたか」を探求するくぼたが、「ヨーロッパから蔑視される有色人男性」であるはずの日本人文学者らが「ヨーロッパの白人男性の視点からジャンヌを見下している」という「倒錯」を発見していく過程を著者は注視する。そして、それをくぼた自身の言葉の獲得と重ねる。「日本の旧植民地としての北海道出身の」くぼたもまた「文学教育を通じて、(ヨーロッパの男性と一体化した)内地の男性教員たちの視点に一体化することを強いられ」たのではないか。くぼたが「自分自身から二重に遠ざけられて」しまった可能性に言及しつつ、南アフリカのクッツェーらの言葉を「翻訳」して生きてきた「その後の四十年にわたる彼女の軌跡は、自らの言葉を取り戻す旅だった」のではないかと問いかける。

これはさらに、第四章の最初に収録された「英語を生きる」という、外国語が自分の身体に取り込まれていきつつ自分の身体自体が変わっていく過程についての著者のエッセイと繋がり、それは、おそらくもっと深層の部分で、著者が村上春樹論で述べる「相手の無意識と自分の無意識を共振させながら、誰も見たこともないものを引きずり出せたからだ。そのときの主体は自分ではない。むしろ他者を媒介として現れた、もう一人の見知らぬ自分だろう」という部分とも繋がってくるようにも思われてならない。

本書の、勤勉を尊び、優れたものとそうでないもの、力のあるものとそうでないものを峻別する厳しい基調に気圧される向きもあるかもしれない。しかしその表面的な強さと勢いを全体の印象ととらえてはならない。「前山君のこと」のなかで、「都甲さん、恐い」といわれたことを著者は愛おしそうに書いている。舌津智之への書評のなかで述べているように、文学の「中に飛び込み、語る主体であるはずの自己までも組み替えられてしまうという体験」への肯定と実践は、本書そのものが体現している。「恐い」のではなく、さあ、と誘い呼びかける声が力強いだけなのだ。

この記事の中でご紹介した本
今を生きる人のための世界文学案内/リットーミュージック
今を生きる人のための世界文学案内
著 者:都甲 幸治
出版社:リットーミュージック
以下のオンライン書店でご購入できます
2017年11月24日 新聞掲載(第3216号)
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