代表されない者たちへの想像力 参議院選挙、リオ五輪、イギリス国民投票|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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論潮
2016年9月2日

代表されない者たちへの想像力 参議院選挙、リオ五輪、イギリス国民投票

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投票とは何なのか――そう問わずにはいられない夏が終わった。
七月、日本では参議院選挙が行われた。予想を裏切らず、与党の圧勝、いわゆる「改憲勢力」の三分の二議席確保という最悪の結果となった。市民運動の働きかけにより、すべての一人区で野党共闘と候補者一本化が実現し、一一選挙区で勝った。なかでも、原発事故や基地問題など政府の政策の根本にかかわる福島県と沖縄県では、野党統一候補が現職大臣の与党候補を破った。

安倍政権がなぜ支持されているのか。朝日新聞(七月一四日)によれば、与党支持の最も多い理由は「他よりよさそう」(四六%)であり、政策を評価する人は二五%にとどまっている。支持の理由は「消去法」なのだ(白川真澄「対抗線を引きなおす――16年参院選の結果と対抗勢力に問われるもの」『ピープルズ・プラン』七三号)。

では、人びとが極右政権を「他よりよさそう」と感じてしまう理由は何なのだろうか。吉田徹は焦点の一つとなったアベノミクスをめぐってこう分析する。「アベノミクスは三本の矢を矢継ぎ早に放つものの、それはリボルバー拳銃のように回転し続けるものである限り終わりはみえず、だから検証に晒されることもない。アベノミクスが成功しないのは、アベノミクスが不足しているからだという『リボルビング・アベノミクス』の論法がとられることになる。〔…〕『道半ば』である限り、とりわけ景気上向きの実感が薄いとされる地方に『いつかは』アベノミクスの波及が及ぶはず、という期待の操作ができる」のだと。「期待の操作」は、アベノミクスが成功しているから可能となるのではなく、「永遠に成功しないこと」、失敗しつづけることによって進んでいる(「時間かせぎの政治――『破局』から考える」『世界』九月号)。

失敗し続ける政治による「期待の操作」は、安全保障政策や外交政策においても「成功」している。近年、中国や韓国、朝鮮民主主義人民共和国と首脳会談や外相会談さえ開けないような対立が長期間続いてきた。この「失敗」は、脅威を煽り、人びとの不満のはけ口を適度に用意しながら、集団的自衛権の法制化や沖縄での軍事強化など、政権与党や軍需産業にとって待望の政策を実現させた。日本国民は、政治の「失敗」を日々確認しながら、政権を支えるべく投票しているのだ。

しかし、この「失敗」を文字通りの失敗として正確に感受し、拒否し続ける人びとがいる。参院選翌日の七月一一日、沖縄県東村高江では住民が反対しつづけてきた米軍ヘリパッド建設工事に向けた機材搬入が行われた。東京、大阪、愛知など日本各地から五〇〇名を超える機動隊員が集められ、七月二二日、建設工事が着工強行された。機動隊は県道を完全に封鎖し、工事阻止のために集まった住民と市民約二百人に対し、殴る、蹴る、身体を押さえつけて骨折させる、警察車両で轢く、紐で首を絞めるなどの暴力で排除し、座り込みのテントや車両を撤去した。それらは違法かつ不当な行為ばかりであった(森住卓・伊佐育子・北上田源・丸井春「国、米軍ヘリパッド工事再開の強行」『DAYS JAPAN』九月号)。日本政府の意志は明確だ。「選挙結果など関係ない」。だから、高江の住民やそこに世界各地から集まる市民たちは、投票や選挙によって代表されない者たちだ。代表されない人びとは、国家の失敗=自らに行使される暴力に向き合い、抗い続けている。

リオデジャネイロ五輪の祝祭空間によって、「失敗」は見えないどころか忘れられていた。だが、その表皮をめくれば苛烈なジェントリフィケーションが行われている。首藤久美子によれば、リオのファベーラ(貧民居住区)では二万二千世帯、七万七千人の強制立ち退きが続けられた。次の開催都市・東京も同様で、今年七月四日、東京都は、九〇代の高齢者を含む三世帯が住んでいる都営霞ヶ丘アパート――一九六四年の東京五輪による七千世帯立ち退きへの対応策として建設された住居であり、新国立競技場予定地にある――の解体工事を、代替居住地を用意することなく強行した(工事を受注したのは辺野古新基地建設工事も受注する大成建設)。競技場予定地に住む野宿者に対しては、土地明け渡しの強制執行が暴力的に強行された(「オリンピックと心中する気はさらさらない」『ピープルズ・プラン』七三号)。破壊されていくコミュニティと都市の姿は、まるで軍隊による爆撃のあとのようだ。

首藤は「都民の財産である三〇〇世帯分もの公営住宅が永久に失われることでもある」との重要な指摘もしている。五輪によって、私たちの暮らしを支えてきたはずの公共的なもの、社会的なものが壊されている。それは資本蓄積の論理に基づく新自由主義的な政策の帰結でもある。私たちはその深刻な失敗を「日本、すごい」と浮き足立ちながら祝えてしまう。祝祭空間には排除される住民や野宿者の姿はない。ここにも代表されない者たちの姿がある。

イギリスで行われたEUをめぐる国民投票からも、政治と代表の関係について、多くのことを考えることができる。

今井貴子は、離脱派勝利について、「イギリスに属す主権が委譲されイギリスのプライドが傷つけられていると感じる保守派、あるいは自分のライフ・コースをコントロールできていないとの思いを抱く労働市場における弱者や漠然たる不安を覚えている中間層」などに、離脱派の「コントロールする力を取り返せ」というスローガンが受容されたと分析する。人びとが取り戻そうとしたのは、「仕事、賃金、生活、そして将来に対する自己決定権であり、その回路としてのデモクラシーであった」(「分断された社会は乗り越えられるのか――EU離脱国民投票後のイギリス」『世界』九月号)。人びとの不満は、保守的な政治勢力によって「コントロールする力」=主権の回復というスローガンによって表現されたかにみえる。

だが、シャンタル・ムフはこの投票結果を、むしろ、グローバルな金融資本の象徴・シティに対する、また新自由主義諸勢力に対する、人びとの「打撃」として解釈しようと提起する。そして、政治勢力を「左派ポピュリズムの立場のもとに結集」させることで「ヨーロッパの民主的再建」が可能だと主張した(「ブレグジットは有益なショックになりうる」『世界』九月号)。「主権回復」や「国民国家への撤退」はもはやノスタルジーにすぎない。主権国家自体がEU同様に、すでに「国際金融資本の操り人形と化している」からだ(三島憲一「より深い政治統合か、国民国家への撤退か」『世界』九月号)。

人びとの怒りは国民投票によって代表されない。求められるのは、EUという超国家的な支配と統治を拒否し、主権国家へのノスタルジックな回帰によって怒りを解消するのでもなく、新たな政治・経済・社会を構想することだ。これはイギリスだけの問題ではない。リオのファベーラの住民、東京の野宿者、高江の住民などの、失敗を続ける政治に代表されることのない声を、国境を越えた新たな民主主義への想像力にしていくことだ。

代表されない人びとの声を聞き取るのは、制度化された政治学や経済学ではなく、想像力豊かな文学的文法によるのではないだろうか。その試みを、広島・長崎と台湾や「第三世界」との出会いの歴史を描こうとする川口隆行(「『海の歌』が響き渡る場所」『現代思想』八月号)や、沖縄での米軍元海兵隊による女性殺害事件をめぐり発せられた「私だったかもしれない」という言葉の広がりを丁寧にとらえようとする新城郁夫(「『一緒に帰ろう』という言葉へ」(『けーし風』九一号)の言葉のなかに確認することができた。
2016年9月2日 新聞掲載(第3155号)
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