鳥獣戯画 書評|磯崎 憲一郎(講談社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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2017年12月16日

読み終わってから始まる小説/沸騰する問い

鳥獣戯画
著 者:磯崎 憲一郎
出版社:講談社
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鳥獣戯画(磯崎 憲一郎)講談社
鳥獣戯画
磯崎 憲一郎
講談社
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金を持ってしまった人間の凡庸さへの猛烈な怒りを表明する「私」が、いきなり登場する。しかしこの「私」とは何者なのか――。本書の冒頭は次のようである。

《凡庸さは金になる。それがいけない。何とかそれを変えてやりたいと思い悩みながら、何世紀もの時間が無駄に過ぎてしまった。》

「何世紀もの時間」の経過を見守ってきた「私」とは何者なのか。この文章は、本書中で芥川賞を受賞した作家であり「磯﨑君」と呼ばれもする「私」をたんなる私小説的な「私」だと同定してしまうルーチンを、先んじて留保させてしまうはずだ。とはいえ二〇一五年の年末に二八年間の会社員生活を終えたばかりだという「私」が「高校時代の古い女友達」と待ち合わせている喫茶店に駆けつけたものの、来なかった女友達の代わりに背の高い美しい女優に話しかけられ、翌日京都で落ち合う約束までしてしまう、というボタンの掛け違えに端を発した不安定で慌ただしい展開を追いかけるうちに、その留保自体がつい置き忘れられてしまう。

京都の先斗町の店で女優から半生の回想を聴くうちに叙述が彼女の過去になりきったかと思うと、さらに翌朝、鳥獣戯画で有名な高山寺に二人で出かけた場面を挟んで、いきなり寺の開祖である明恵の伝記のような叙述が始まる。明恵は同年生まれの親鸞と並び日本仏教界に大きな影響を与えた高僧であるが、生涯にわたって書き続けた夢の記録「夢記」によって知られている。河合隼雄の浩瀚なる『明恵 夢を生きる』をはじめ、かのルネ・ジラールまで論文を書いている夢探求の世界的先駆者である。ここでも叙述は明恵になりきり随所で当事者視線の描写が駆使される。そして八〇ページ余りを費やして明恵の死まで辿ると突然「私」が復帰し、溺愛する長女「みどり」について語るかと思えば、高校三年から一年十ヵ月付き合った同じ名の「緑」に話題が移り、ついに結ばれることのなかった彼女との恋の始まりから終わりまでを倦むことなく九〇ページ余り語りきるのだが、わずか数行の瞬発力で冒頭へ回帰する離れ業をやってのけるのである。

しかし本書は、読み終わってから始まる小説である。つまり、改めて「私」とは何者だったのかという問いが始まり、なぜ本書の文章では通常なら句点の位置に読点が続くのか、とか、なぜ語られる話題や視線の主体が突然変わるのか、というふうに次々と疑問が湧き起こる。少なくとも二〇一五年の「磯﨑君」は、「私」の一部分である。長女が誕生した三十歳の「私」、そして「緑」と出会った十七歳の「私」は、めいめい独立している。そして女優と明恵を語る三人称は、もはや「私」の知りえた伝聞を離れている。何者にもなりえ、何事でも語りうる文章なのである。百年前から言われていることだが、小説とは何をどのように書いても良いものだ。本書はルーチンの束縛と闘いながら小説の「自由」を実行しているようだ。それにしても私が本書で面白く思ったのは、「私」の語る三人の女性にいわゆる〈アニマ〉の諸相が現れていることで、それは明恵の夢に出現する〈アニマ〉像の拡張とも思える。そうなると冒頭に現れた本書の「私」じたいが、明恵の意識の拡張のようにも受け取れる。というふうに、読み終えてから沸騰する問いを私も楽しんでいる。
この記事の中でご紹介した本
鳥獣戯画/講談社
鳥獣戯画
著 者:磯崎 憲一郎
出版社:講談社
以下のオンライン書店でご購入できます
2017年12月15日 新聞掲載(第3219号)
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