連 載 映画/映画作家/映画批評 ジャン・ドゥーシェ氏に聞く(37)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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ジャン・ドゥーシェ氏に聞く「映画/映画作家/映画批評」
2017年12月26日

連 載 映画/映画作家/映画批評 ジャン・ドゥーシェ氏に聞く(37)

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「ジャン・ドゥーシェ」の名を冠した上映室にて
JD 
 フォード、ウォルシュ、ホークスのような作家たちの映画を見ていると、そこにあるのは物理法則であることがわかります。思索ではなく、物理的な動きです。そうは言っても、頭の中で考えることがない、ということではありません。
HK 
 そのような観点からすると、ウォルシュの映画はフォードよりも、アメリカ映画特有の物理法則が強く見えますよね。フォードの映画の中には、世界の美しさそれ自体が非常によく出ていると思います。
JD 
 もちろんその通りです。ウォルシュはアメリカの映画作家たちの中でも、最もアメリカ的な映画作家です。その意味でウォルシュの映画とは完全なものです。しかし、フォードも劣らずにアメリカ映画を作り上げています。確かに、各々の作家が、それぞれの考え方において作品を作り上げています。映画に対する考え方は、いずれの場合にも見られます。しかし、その考え方が映像を支配するということはありません。アメリカの作家の映画において重要なこと、それは映像の中から生まれでる流れです。一方で、例えばラングのような作家においては、映像の流れは強制されています。つまり、登場人物たちが自発的に動き回るということはできないのです。いつどこで何をするかは、すでに決められていることです。映像の流れは、初めから最後まで途切れることなく突き進んでいきます。そして、終わりが訪れると、全てが一瞬にして停止してしまうのです。ムルナウの映画も、ラングと非常によく似た作りになっています。ドイツ映画の黄金期を考えると、多くの作家がそのような映画を作っています。ダグラス・サークでさえ、そのようなところがあります。
HK 
 パープストも、そのようなところが少し見えますね。例えば『懐かしの巴里』の最後に、女の子が笑うショットによってハッピーエンドになるのですが、その映像にたどり着くことが、作品を通じて義務付けられている気がします。
JD 
 確かにパープストもドイツ的な考えを持っています。彼はとても良い映画作家ですし、優れた作品を何本も残しています。しかし、私がその時代のドイツで非常に並外れた作家だと考えているのは、ジョセフ・フォン・スタンバーグです。スタンバーグは日本人にとって興味深い作家だと思います。わかりやすい形では『アナタハン』のような作品がありますし、『モロッコ』は日本で初めての字幕付きトーキー映画でした。作品の中にも男たちと女たちの情念が行き交っています。ヨーロッパよりもアジア的なところがあるように思えます。
HK 
 グリフィスやウォルシュ、フォード以来のアメリカ映画の伝統は、今日のアメリカの映画にも存在していると考えていますか。
JD 
 アメリカの映画は、ハリウッドやアメリカ映画を消滅させている道中にあるのだと思います。これ以上は返答することはできません。正直にいうと、今日のアメリカの映画にはほとんど興味がありません。イーストウッドのような作家を除けば、偉大なアメリカ人映画作家たちは、アメリカで映画を撮れなくなっています。マイケル・マンはまだ少しだけ活動の場がありますが、他の作家たち、アベル・フェラーラやコッポラ、ジョー・ダンテ、デ・パルマはアメリカで映画を作ることが非常に難しい状態になっています。ジェームズ・グレイですら決して容易な状況にはありません。

<次号へつづく>
〔聞き手=久保宏樹/写真提供:シネマテーク・ブルゴーニュ〕
2017年12月22日 新聞掲載(第3120号)
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