百閒的な崩壊感覚  多和田葉子「文通」、松浦寿輝「穴と滑り棒の~」|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
読書人よ、集まれ!

トップページ

特集

書評

連載

コラム

ニュース

読書人とは

文芸
2018年1月6日

百閒的な崩壊感覚 
多和田葉子「文通」、松浦寿輝「穴と滑り棒の~」

このエントリーをはてなブックマークに追加
はじめに断っておくと、私は愛が薄い。作家や作品の切実で単独的な魅力を伝えることに注力するよりも、ある程度普遍化の可能なこと(他所でも応用の可能な知識)を抽出しようとせずには済まない性癖である。この時評でも一年でそんなものが二、三得られたらラッキーだと考えている。奉仕・・を面倒がるような批評態度を、文学愛の強さから不快に思う人は必ずいるだろう。先に謝しておきたい(ごめんなさい)。

新年号の『文學界』は「珠玉の小説館」の枠に七人の作家が短編を寄稿している。この手の特集の並びを決める編集の決まった基準(がそもそもあるのか)を知らないが、私はだいたい掲載順に良いと感じた。巻頭は多和田葉子「文通」、二番手が松浦寿輝「穴と滑り棒の謎あるいは老俳人はいかにしてマセラティ・グランカブリオを手に入れたのか」で、一、二度小さく声が出た。いずれも私の好む内田百閒の作風を偲ばせるのが大きかったかもしれない。

「文通」は、アラフォーの陽太が新しく見つけた恋人の舟子のことから始まるが、すぐに話は高校の同窓会に移り、目の前の記憶にない女二人の名前を、言葉遊び(?)の力でなんとか思い出すものの、三人目の男の名前がどうしても出てこない。おそらくは、その「輪田」の名を想起するための無意識の連想作業が、高校時代、従兄弟の浮子との関係を文通による擬似恋愛話に仕立てた学生小説の内容を長々と回顧し、さらに現在の浮子を同窓会の居酒屋にリアルに登場させてしまうという話の構成なのだが、その浮子が舟子は陽太の幻想の産物だと主張したあと、眼前から消え失せ、あげく隣にいた輪田も、その名がついに陽太の口をつくや否や姿を消したとなれば、もはや何が虚で何が実なのか、線引きをするあてはない。後に残るのは、空しく響く名前と、そこにいたるまでの言葉の連想作用プロセスの事実のみである。「文」だけが「通」じているという世界の現れ方は、かえって今時なのかも。

この種の崩壊感覚は、百閒が最も得意としたところ。松浦の「穴~」も、老俳人月岡がイタリアの俳友が所有するジェノヴァ近郊の美しいヴィラで過ごす場面から始まり、謎の美女と再会し、突如、悪夢のような体験に展開して、結局、全てが精神病院で月岡が見ていた幻覚だった(?)という落ちになる。類型的にすぎるのだが、時折、月岡の詠む句が挿入される俳句小説の体裁を考えれば、あえて小説全体を定型性に入れ込んだとも読める。ちなみに「百閒」は俳号で、独特の俳味でもって幻覚的世界を写生したことを評価されるが、その意味で、本作は漱石門下の傍系に連なるといえる。

文の運びのうまさではなく、素材の強さで読ませられたのは、NHKディレクターの国分拓による「ノモレ【第一部】」(新潮)である。舞台はペルーのアマゾンで、二〇一〇年頃から突如姿を現すようになったイゾラド(文明社会と未接触の先住民)とのコミュニケーションを通して、人類規模に一般化可能な〈他者〉問題を描く。二一世紀のイゾラドが驚異なのは言を俟たないが、元はTV放送局制作のドキュメンタリーなのだから、ここでは文芸化の意味を問わないといけない。その一つは、既に文明化された先住民イネ族のロメウの視点を、我々日本語読者にも共有することを許す、想像力の可能性だろう。ロメウの板挟みの視界は小説ならではの、ときに横領的といっていい想像力でしか描けない。イゾラドがイネ族と「同じ言葉」を話すことを根拠に、ロメウは、「彼ら」こそ集落に言い伝えられる約百年前に生き別れになった先祖の末裔だと信じようとするが、その信念を逃れる「彼ら」の振る舞いを前に困惑する。この小説でも、中心には言葉の問題がある。敵とノモレ(仲間)の境界を成すのが、言い伝えや語族を分ける言葉の共有・・・・・なのだ。神話の組成を、小説という近代的な言葉で解きほぐすところに、本作の醍醐味をみることもできる。第二部での収束の仕方が気になるところ。

逆に神話的な要素を巧みに織り込むのは、上田岳弘「愛してるって言ったじゃん?」(すばる)である。といっても、ここでの神話は、起源ではなく終わり・・・を物語るもの。「僕」と夫持ちの「彼女」は、会社帰りの街中でワインを使い捨てコップで飲んだり、晩秋に線香花火をしたりする、リアリズムとしては少々気恥ずかしい不倫デートをしている。彼女が切り出す会話の内容は、神の啓示を受けたジャンヌ・ダルクが迎えた処刑の結末、北朝鮮とアメリカの間で核戦争が起き、人間不在となった世界。そして終末の光景に自分たちの関係も重ねて、彼女は「僕」の元から去る。上田は過去の作品でも、世界終末の観念的なイメージ(神視点でみた瞰下景)を個人の人生的な終了感に重ね合わせて、感傷性を含ませるのがうまい印象だが、その発想を支えるのは、十数年前に流行った「セカイ系」の定義にもやや絡む、サブカル的な感性の気がする。好き嫌いがわかれそうだが、私は世代的な親近もあって好きなほう。

沼田真佑「夭折の女子の顔」(すばる)は、叔母とひも同然の無職の笠井の三〇代同棲カップルの家に居候することになった登校拒否児の下から・・・の視線で、彼らの殺伐とした生態を照らし出すという、見事に対照的な作り。少女が「ぼく」と自称するのは、中学になって女子も男子もプライドを捨て社会的に化し、大人予備軍として世間との距離を気にする存在へと「堕落」したことに対する拒絶の表れなのだろうか。それとも、二、三度「当時のぼくは~」という叙述があることや、大人の「ぼく」の思考が語りに投影されていなければ考えにくい批評眼をもつことから、この話全体が大人になった「ぼく」が振り返ったものらしくもあり、その場合、現在の「ぼく」はまだ「ぼく」を自称しているらしくもあり、クィアな性自認者による回想という可能性もなくはない。「夭折~」という題がヒントになりそうだが、やはり判然としない。いずれにしても、「ぼく」という一つひねった人称を用いることで、「ぼく」の視線(語り)と叔母カップル(物語内容)とのあいだに微妙な隙が生まれ、そこに豊かな多義性あいまいさが孕まれる。あいだ・・・を間接化しすぎても「ひねり」は装飾的になるし、あるいは密着しすぎても、通俗のあざとい世界観に回収されてしまう。沼田は芥川賞受賞作でも震災やLGBTのテーマを、物語のなかの現実の因果関係にも、その現実を外から意味づけるアナロジーの関係にも還元されない微妙な距離感で引き入れていた。私は長いこと、たとえば個の生の営みのかけがえのなさと、時代性や社会的な現象との無意識的な〈共鳴〉といった、論述困難なリアリティ(複雑さ)をすくい取ることのできる点が、小説の良さだと考えている。作者の叙述の技が今後どのように展開するのか、注目したい。ただ、結末の希望のなさは何とかならないものか。

希望といえば、藤野可織「スイスへ」(新潮)では、夫に浮気され、さっさと離婚してやる、はずが結局される・・・格好となった小説家のまな子が、友人たちと老後の憂鬱を語りあうなか、スイスに安楽死のサービスがあるという話になり、その誇り高い最後のイメージに生きる「希望」を見出す。離婚を迫ったときも、離婚を取り止める理由をみつけたときも、安楽死の話題になったときも、まな子はきまって自尊心という名の「空気」で体をふくらませて、いっとき高揚を覚える。だが所詮、空気である。他愛のない思いつきで空しくふくらんでは萎み、またふくらんで、私たちは日々を生き延びていることに気づかされるのだ(これも暗い話だ)。

慣れないので紙幅が足りなくなった。古川日出男「おおきな森」(群像)は、初回三〇〇枚の分量ながらまだ十分に展開してないスケールの大きさなので、他日に評を譲りたいが、同語反復と言い直しで約三倍に膨張した文体の必要性はあるのだろうか、という疑い・・がやや先行している。また、西村賢太の二作、「黄ばんだ手蹟」(文學界)と「陋劣夜曲」(群像)は、いつも通りといえばいつも通りの貫多ものだが、飽きない。集団的な共感へのおもねりが横行する時代に、まず己が己に共感しないでどうする、といった体の放恣と、そのだめっぷりを徹底的にさらけだす自己観察の重なったユーモア(明るさ)は、小説の可能性を別方向から考えさせる。物故のマイナー作家に対する貫多の無条件の帰依には、鼻白みかねない読者の感情を中和する効果があると感じた。〈私淑する〉ことを手法として考える余地があるかもしれない。ユーモアなら、田中慎弥「雨」(新潮)も独特で、軽度の認知症を思わせる記憶と世界の食い違い、理屈が前後するような会話、そして「私」が抱える何か怯えのようなもの(エゴの脆さ)、これも百閒を思わせるところがある。しかし、そう同じ名前ばかり出すのも芸がない。連作なので、次回を楽しみに待ちたい。
2018年1月5日 新聞掲載(第3221号)
このエントリーをはてなブックマークに追加
坂口 周 氏の関連記事
文芸のその他の記事
文芸をもっと見る >
学問・人文 > 評論・文学研究 > 日本文学研究関連記事
日本文学研究の関連記事をもっと見る >