ゲームの規則Ⅰ 抹消 書評|ミシェル・レリス(平凡社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
2018年1月6日

知恵の木の実をかじる前の言葉 
「死文字」となった記号の流通から言葉を引き上げる

ゲームの規則Ⅰ 抹消
著 者:ミシェル・レリス
出版社:平凡社
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シュルレアリスムに参加したり民族学研究に従事したりと様々な活動を展開し、詩や小説や美術評論など多ジャンルにわたる作品を発表していたミシェル・レリスはまた、二〇世紀自伝文学の立役者でもあった。レリスの自伝文学と言えば『成熟の年齢』がよく知られているが、その後に発表された大著『ゲームの規則』全四巻には、これまで第一巻しか邦訳がなかった。それが各巻とも漢字二文字の表題のもとに全訳される運びとなり、このたび最初の二巻が、つとにレリスやルーセルの訳を手がけられてきた岡谷公二氏の翻訳で刊行された。ほれぼれする訳文で、冒頭からレリスの語りに惹き込まれる。

自伝とは自己を語ることだが、レリスの場合、それはまずもって、子どもだった自分がいかにして様々な単語と出会ったかという回想、そしてそこから始まる、物としての言葉(たとえばアルファベットのパスタの味)についての考察として行われる。とはいえ、単語というものが、それを口にする者がその意味を知ったうえで、その意味を指示するための記号として用いるものであるならば、第一巻『抹消』で振り返られる数々の出会いは、まだ単語になっていなかった何ものか、あるいは、文を構成しない単語との出会いだと言うべきかもしれない。というのも、子ども時代の語り手は、「かった」だと思っていた言葉が「よかった」に直され、「ディクトレティアヌス」だと思っていた言葉が「ディオクレティアヌス」に直されたとき、そのつるつるした共通の言葉に唖然とするからである。共通であることは言葉の条件だが、『抹消』で描かれるのは、いわば個人的な思い込みと切り離せない、言葉との単独的な関係、本書に頻出する聖書を踏まえた表現の一つを借りれば、知恵の木の実をかじる前の言葉との関係である。ところが、そうした自伝的な語りの刊行にレリスが必ずしも十全な満足を感じていたわけではないことが、第二巻『軍装』から窺われる。『抹消』には、自分が砲兵隊の軍曹だった時期のことを回想する「昔々ある時……」という章があるのだが、第二巻は、この章以降に強まってゆく自己反省的な語調を引き継ぐようにして、当の自伝の執筆そのものをめぐる悲観的な語りから始まる。そしてそこから、自分がたえず囚われてきた死への恐怖という主題が浮かび上がり、死という不吉な闇を自分がいかに飼い慣らそうとしてきたかを振り返る形で、幼年時代からの光景が次々に呼び起こされてゆく。長々と振り返られるスポーツへの愛好にも、死への恐怖は無縁ではない。そこでも、連想の起点となるのはやはり、「モルス(死)」といった言葉だ。

レリスの回想はあまりにも細部にわたっていて、言葉になる前の言葉との出会いをひとはここまで鮮明に覚えているものだろうかと思わされるが、レリスもおそらく、出会いの有り様を最初から時間順に思い出せるわけではなく、まずは、ある単語に自分が抱いていた感触(音、色、匂い、味)を思い出すところから始めるのだろう。それは、私たちが大人になるにつれて徐々に否定するようになるクラチュロス主義的な、あるいはランボーの詩「母音」(「Aは黒、Eは白、Iは赤、Uは緑、Oは青」)に謳われたような感触である。たとえば、「「アルファベ(alphabet)」とはまず、黄色いものであり、プチ=ブールの匂いのする、こまかい目のつんだ練粉でできていて、歯にくっつくものである」といったような。『ゲームの規則』はこの類の観察の宝庫である。そうした感触はフランス語独特の発音規則や綴りと不可分だが、しかし、何語であっても似たようなことは生じるように思え、読者は気がつけば、日本語での似たような事例を思い浮かべているだろう。語り手は、そうした単語の感触を思い出した上で、その感触が幼年時代の自分を取り囲んでいたどんな物や人、また韻を踏む別の単語と結びついていたのかを、糸を手繰り寄せるように思い出してゆく。そうすると、その糸が様々な光景を呼び寄せてきて、その光景は次第に色鮮やかになり、連想は止まらなくなる。そこで語られるのは、現実にはアルファベットを指す「アルファベ」がそうであるように、あくまで語り手の内で抱かれた感覚であって、いささかも客観的なものではない。例を挙げれば、「ビヤンクールで火事が起きたときかされたとき」から始まるのは、けっして「火事」についての記述ではなく、「ビヤンクール」という文字列の音が子どもに投げかけた一連のイメージであり、それは、「工場の煙や、レールに沿って走ってゆく電車の軋み同様、天窓や、風見鶏や、中庭の彼方にひろがっている場所の名前であり、その三つのシラブルは、乞食が自分の声に耳を貸さない人々の同情をひくため揺すってみせる椀の底で、もらいものの十サンティーム銅貨がぶつかり合うように、陰気にぶつかり合う」というのだから、交換される記号になる前の文字列が与えるイメージは普遍的なものではなく、そこから受け取るイメージにこそ一人の人の特異性があることがわかる。

ある単語を聞いたりある物を見たりするたびに一定の感覚に囚われるという経験は誰しも覚えのあるものだろうが、こうした感覚について小説とは違う形でこれほどとめどなく語ることができるというのは驚異的である。レリスは単純に子どもに回帰するのではなく、民族学者の大人の眼差しも維持したままで、「死文字」となった記号の流通から言葉を引き上げている。(岡谷公二訳)
この記事の中でご紹介した本
ゲームの規則Ⅰ 抹消/平凡社
ゲームの規則Ⅰ 抹消
著 者:ミシェル・レリス
出版社:平凡社
以下のオンライン書店でご購入できます
ゲームの規則 II  軍装/平凡社
ゲームの規則 II 軍装
著 者:ミシェル・レリス
出版社:平凡社
以下のオンライン書店でご購入できます
2018年1月5日 新聞掲載(第3221号)
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