新しい小説のために 書評|佐々木 敦(講談社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
2018年1月6日

一人称の不気味さをめぐって 
人類不在における表象の問題についての思索

新しい小説のために
著 者:佐々木 敦
出版社:講談社
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本書は、二〇一三年から二〇一七年にかけて文芸誌(ほとんどが『群像』)において持続的に発表された評論連作をまとめたものである。二部構成がとられていて、いずれも「新しい小説」を求めての思索の旅路といった趣のあるものである。

第一部「新しい『小説』のために」では、タイトルの参照元となっている、「ヌーヴォー・ロマン」の作家であり理論家であるアラン・ロブ=グリエの文学観を検証することを契機に思索の旅がはじまる。その舞台は、ロブ=グリエにおける映画と小説の相互作用、柄谷行人による「風景の発見」、セザンヌの絵画にみられる時間の圧縮、平田オリザがかかげる悪魔的な脚本原理主義、そして岡田利規の小説にみられる「移人称」と、じつに多岐にわたる。

それに続く第二部「新・私小説」は、渡部直己による「移人称小説論」への応答という趣旨のもと、そもそも小説における人称とは何を意味するものなのかという問を発することろから思索が開始される。小林秀雄の私小説論、大江健三郎・大岡昇平・富岡多恵子といった小説家における私小説観、野口武彦による「三人称の発見」、そして金谷武洋がとなえる「主語無用論」と、これもまた多岐にわたる遍歴を経たあとに、柴崎友香、山下澄人といった小説家の作品にみられる「移人称」の可能性を再確認する、といった内容となっている。

このような多岐にわたる長大な思索によって、著者が問題にしていることは何なのか。あらためて考えてみよう。ここではフランスの哲学者、カンタン・メイヤスーの議論を参照する。相関主義、つまり人間と対象との相互性なしに実在そのものを措定することはできないとする、カント以来の哲学潮流を批判するにあたって、メイヤスーは「祖先以前性」という概念を使った思考実験を提示する。この思考実験は、人間、生物が出現する前の世界、あるいは人間、生物が消滅した後の世界において、相関主義が前提としている人と世界の相互性は、はたして意味を持つのか、というものである。

こうした思考実験を文脈におくことによって、ロブ=グリエが企画していたことの「新しさ」も明瞭にみえてくる。たとえばカメラが画期的であるのは、それが表象から人間という存在を切り離すことを可能にしたからである。メイヤスーは祖先以前の世界を示す物証を「原化石」と名づけているが、写真とは言うなれば機械による化石のようなものである。ロブ=グリエが小説に導入しようとしたのは、こうした人間なしの表象という領域である。無論そうした領域を小説に導入するということは、極度の主観化と矛盾することではない。

これと同様のことが、著者の考える移人称小説、もしくは「新・私小説」についても言える。小説における人称の問題を考えるにあたって、著者はヤコブソンの言語理論を参照している。ヤコブソンは「私」のような人称代名詞を「シフター」と呼んでいる。つまり文脈によって指示する対象がシフトする語である。言い方をかえると、私という語は内実を欠いた、空虚な語だということになる。この指示対象の不在という状況は、普段の会話においては、発話主体の現前によって不可視化されている。

この不在が前景化するのは、書き言葉、とりわけ「フィクション」においてである。一般的な書き言葉においては、この「私」という人称と発話主体の一致は、事実上の問題というよりは権利上の問題として成立していた。小説のような作話の場合、件の「私」はこうした権利からも放逐されることになる。フィクションという言説形式において顕になるのは、一人称の「私」が、自己の不在をあらわす指標だという事実である。

著者による思索の旅は、こうして人類不在における表象の問題についての思索へと読者を誘うことになる。一人称小説に記されている「私」という言葉が作品それ自身を指す言葉でない保証はどこにもない。本書の行間から読み取れるのは、こうした根底的な認識なのだ。
この記事の中でご紹介した本
新しい小説のために/講談社
新しい小説のために
著 者:佐々木 敦
出版社:講談社
以下のオンライン書店でご購入できます
2018年1月5日 新聞掲載(第3221号)
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