純然たる虚構の戯れ 黒沢清「ダゲレオタイプの女」|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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映画時評
2016年9月9日

純然たる虚構の戯れ 黒沢清「ダゲレオタイプの女」

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フランス人のルイ・ダゲールは一八三九年にダゲレオタイプという写真撮影法を発明した。この写真は長時間の露光を必要とし、被写体となる人物はその間不動の姿勢を強いられた。現代の写真と異なるこの撮影法は写真の本質を強調している。すなわち、写真は被写体から運動を奪うということだ。撮影される人物は不動となることで、いわば死に近づく。運動を奪うことは生命を奪うことでもある。

それ故、この撮影法をめぐる黒沢清の新作『ダゲレオタイプの女』が死の匂いに満ちていても、不思議では全くない。主人公のジャンは写真家ステファンの新たな助手だ。この偏屈な写真家は今なおダゲレオタイプのカメラを用いている。実の娘のマリーがモデルとなり、彼女は奇妙な拘束器具によってスタジオで一時間以上固定される。かつては妻がモデルを務めていたが、首を吊り、今や亡霊となって写真家の夫にとりついている。そして娘の身にも異変が起こる。ジャン・エプスタンの『アッシャー家の末裔』の、絵画を写真にしてモデルを二重化した見事な変奏だ。

写真は映画の隠喩である。確かに映画は被写体の運動を再現し、この点で写真や絵画とは異なるように見える。しかし映画の映像は実際には動いていない。映画には真の運動はなく、目の錯覚しか存在しない。ユセフ・イシャグプールが指摘したように、映画は本質的にメンタルな現象である。ヴィジュアルなイメージと思われているものも、本当はメンタルなイメージでしかないのだ。この点で、映画の撮影もまた被写体から運動を奪っている。この新作に限らず、黒沢清の映画が常に死を主題としているのも、この事実と無関係ではない。

動かない二次元の映像の連なりに、運動や奥行きという錯覚を見出す虚構の戯れ。これが映画である。黒沢清が優れているのは、この点に徹底して意識的なことだ。『リアル~完全なる首長竜の日~』はその題名にも拘らずリアルなものなどほとんど何も存在しない映画だったし、『クリーピー 偽りの隣人』も潔いほど決然とリアリズムから身を引き離した映画だった。『ダゲレオタイプの女』でも、虚構の世界に身を亡ぼすステファンと助手のジャンの物語を、現実らしさを装うことなく、純粋な虚構の戯れとして描いている。

マリーはジャンに、父のステファンは写真と現実を混同していると言う。そんなステファンに、現実をねじ曲げ想像に逃げ込んでいると非難され、ジャンは憤慨する。二人の男は共に現実と虚構を取り違えて身を亡ぼすのだ。しかし、この映画で現実と虚構の対立が維持されていると考えるならば、それは間違っている。ユセフ・イシャグプールさえも『ル・シネマ』で拘り続けた両者の対立が、こうした台詞で活性化される訳では全くない。この映画は徹底して虚構の側にある。人はそもそも現実など知覚できない。もし現実が何より重要で知覚可能ならば、映画は否定されるべきものでしかない筈だ。そうではなく、知覚そのものが虚構だから、映画は虚構の戯れとして積極的な価値を持ち得るのである。植物の生と妻の死が交錯する温室でランプが揺れるのを見よ。屋敷の部屋のドアがひとりでに開くのを見よ。闇夜の自動車の奇妙な走行を見よ。現実との対比に依存しない純然たる虚構の戯れがここにあるではないか。

今月は他に、『君の名は。』『ダーティー・コップ』『彷徨える河』などが面白かった。また、遅ればせながら観た城定秀夫の『悦楽交差点』と『舐める女』も良かった。
2016年9月9日 新聞掲載(第3156号)
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