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2018年1月8日

汪暉氏に聞く<アジアにおける「世紀」の誕生>

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現代中国を代表する思想家として知られる汪暉氏が、先月、明治大学教養デザイン研究科開設10周年記念シンポジウムにおいて講演を行なうため、来日した。

講演後、汪暉氏に、十九世紀から二〇世紀にかけての世紀の変わり目の時期、アジアではどのような「歴史的変動」が生じていたのかを中心に、お話をうかがった。

聞き手は、明治大学教授・丸川哲史氏にお願いした。 

(編集部)
第1回
革命の二〇世紀

丸川 
 昨日の11月25日、明治大学の教養デザイン研究科創立一〇周年記念のシンポジウム「越境する知――現代社会の危機と学問の未来」がありまして、柄谷行人さんとともに汪暉先生の報告がありました。昨日の汪先生のテーマは、ロシア十月革命が中国に与えた影響に関する報告でした。柄谷さんと汪暉さんの二つの報告内容はいずれ、『現代思想』(青土社、二〇一八年一月号「現代思想の総展望2018」)に掲載予定です。本インタビューでは歴史の時期を少し前にずらし、一九世紀から二〇世紀にかけての変わり目の中国(アジア)のモダニティ形成のことを話していただきたいと思います。一つの示唆として、本紙で度々インタビューされている柄谷さんが常々、百二十年周期で考える方が有益だとおっしゃっている――本日のインタビューはこのことも念頭に置きたいと思います。
汪 
 まず、二〇世紀を議論することの重要性、そのものから議論しなければなりません。現在、中国は二〇世紀について、ようやくそれを過去の歴史として相対化できる時代になった。二〇世紀の内部で議論することと、過去の歴史としての二〇世紀を議論することには、大きな違いがあります。私は文革期を青年期として過ごしましたので、その違いをどこで感じるかというと、やはり「革命」というカテゴリーと関わります。冷戦が終わった後、そしてソヴィエトが終わった後、現在まで政治の面から、「革命よさらば(告別革命)」というイデオロギーが出ています。李沢厚という人の『革命を告別する』にも大きな反響がありました。もう一つは歴史認識そのものの変化です。その変化は何かというと、たとえば文革について、歴史の断絶性が強調される時代であった、と。しかし私のような世代から見ると、そうとも言えない。文革といえども、過去から現在までの連続性のなかで成立している。つまり、歴史の内部の視点から、文革も含め「革命の二〇世紀」が再定義されなければならないのです。しかし今の時点では、世界的に主流の考え方は、二〇世紀というよりも、むしろ一九世紀の発想の延長に近いものとなっている。

ここで一つ問いを立てたいと思います。中国の歴史上において一九世紀という世紀は存在しているのかどうか。この問いについて、幾つかの点から考えたい。先ほど仄めかしましたが、現在ヨーロッパを中心とする歴史認識において、一九世紀を中心とする歴史が主流だということです。たとえばホブズボームは、一九世紀を一七八九年から一九一四年まで、と捉えています。その観点から二〇世紀を見て、うんざりするという意味で「長い二〇世紀」と形容しました。またクリストファー・ベイリーやオーストン・ファイマーの捉え方があります。彼らは、たとえば南アジアや日本の「近代」について論じていますが、全体的な枠組みとしては、やはり一九世紀の枠組みにあります。その原因は簡単です。一九世紀という概念はヨーロッパにおいて、未来に向かっていろんな条件と基礎を作ったモダニティ形成の時代だった、ということです。それと比較すると、二〇世紀は第一次、第二次世界大戦、冷戦など(アジアでは帝国主義の経験が入って来るのですが)暗い歴史であり、だからホブズボームは「極端な世紀」とも言った。彼らの叙述の中では、ロシア革命、また中国革命は、彼らの思い描く革命の中には含まれておらず、「極端な世紀」に入ります。

さて言語的に遡ってみます。実は何々世紀という言い方そのものが中国に入ったのは、二〇世紀であった。一方、日本では西暦を採用したのは一八七三年でした。採用はしたけれど、その紀年法は支配的にならず、他の記年法も存在していました。もちろん、後では西暦が段々使われるようになりましたけれど。それは何に関連しているかと言うと、脱亜入欧と一九世紀という概念との並行性です。しかし日本と違い、中国では西暦という概念を採用したのは二〇世紀でした。つまり中国が「近代」に入るのは二〇世紀であり、それは日本とは違う。そこでどうなったかというと、その前の一九世紀、一八世紀、一七世紀といわれている時期も、二〇世紀において再発明された概念として叙述されるようになった、ということです。

ところで、中国ではじめて二〇世紀という用語を使ったのは啓蒙思想家の大人物、梁啓超でした。彼は一九〇〇年にハワイで一つの漢詩を書きました。題名は「二〇世紀 太平洋の歌」。そこではじめて二〇世紀という用語を使いました。その漢詩のなかで、清朝期の儒学思想(公羊学)の「三世説」概念を使いました。それは何を意味するかというと、三つの時代、具体的に言うと、「拠乱世」、「昇平世」、そして「太平世」。それを使って、ヨーロッパの歴史の枠組みと並行させました。最初の「拠乱世」の時代の主要な文明は中国、インド、そしてメソポタミアの三つです。「昇平世」の主要文明は、地中海やバルト海、あるいは中国の黄海と渤海など、いわゆる沿岸部。そして第三の時代は一六世紀からのコロンブスの時代、つまり大航海の時代以降。そして二〇世紀はどうなったか。大西洋から太平洋へと世界の力の軸が移った――それが二〇世紀の意味である、と。その漢詩の中で、たとえば、「昇平世」に関しては、思想の自由とか言論の自由とか技術の革新といったスローガンが入っていましたが、最後の太平洋の時代に至ると、それをどう形容するかは空白となっています。そこから分かるのは、つまり伝統的な歴史目的論では二〇世紀は語れない、ということです。歴史目的論が崩壊しているのです。
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2018年1月5日 新聞掲載(第3221号)
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