若き研究者の悩みに答えるかたちで 山本貴光・服部徹也対談スピンオフ! 来たるべき文学のために 『文学問題(F+f)+』 刊行を機に|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
読書人よ、集まれ!

トップページ

特集

書評

連載

コラム

ニュース

読書人とは

WEB限定
2018年1月9日

若き研究者の悩みに答えるかたちで
山本貴光・服部徹也対談スピンオフ! 来たるべき文学のために 『文学問題(F+f)+』 刊行を機に

このエントリーをはてなブックマークに追加
新春特大号の特集「山本貴光・服部徹也対談 来たるべき文学のために 『文学問題(F+f)+』 刊行を機に」、本対談のスピンオフをウェブ限定で公開中!
★本編を読み逃した方はこちらからどうぞ。
第1回
■『文学論』とデジタル・ヒューマニティーズ

服部 徹也氏
服部
山本さんが『文学論』を読み進めるにあたり、柄谷行人さんの影響が大きかったというお話がありましたが(本紙対談参照)、私も影響を蒙っていることを最近強く自覚するようになりました。そこで、個人的な課題として柄谷さんのアプローチとは違う仕方で『文学論』を考えなくてはいけないと思っています。実は、そんなことを考えながら『文学問題』を拝読していました。
本書では、「まず必要なのは、博文学、文術の博物学である。つまり、広く集め、しかるのちに文芸とはなにかと分類する態度だ」(四九七頁)とありますが、今日、こう言い切れる方はなかなかいないと思うんです。しかし山本さんのいう「博文学」は古風なようでいて、デジタル・ヒューマニティーズ(デジタル人文学)にもつながっている。ここが私の関心とも重なりました。「博文学」は、昔だと「博言学=文献学」(philology)かも知れないと連想して、エーリヒ・アウエルバッハの『ミメーシス』が亡命先のイスタンブールで書かれたということを思い出しました。普通はヨーロッパ小説の全体を振り返るみたいなことはやらないと思うのですが、アウエルバッハが西洋学問の中心から外れた場所、最新の研究に触れられない限定された環境にいたからこそ成立した壮大なプロジェクトだという逆説は、彼自身「世界文学の文献学」で振り返り、のちにサイードも注目していました。
柄谷さんのやったこともそれに近い部分があると思うんです。アメリカで日本近代文学を教えるにあたって、最新の研究論文も読めないし、作家の一次資料にもあたれないという限定を逆手に取ったラディカルな立論が、日本の読者にはインパクトが大きかったのではと想像します。いわば「移動する知識人」が部外者としての直感を言うことに、価値転覆的な解放の輝きがあったのではないか。柄谷さんは自分の体験を漱石の留学に重ねて語っていました。孤絶した環境で思索を研ぎ澄ますイメージです。
しかし、今日同じことをやろうとしても、なぜインターネットを使わないのかという話になってしまう。昔だったら大英図書館に行かなくては読めなかったものが居ながらにして収集でき、際限なく深堀りできてしまうような情報環境の中で溶解することなく、何を集めず、何を読まずに済ますか、いわば研究の有限性をデザインしていかなければならないというのが今日の文学の課題だと思うんです。誰かの文章に対して「調べが甘い、より多く読め、より多く調べろ」という批判はいつでも正しいけれど、愚かさと怠惰さをデザインしなければものを書けない。現代の環境で漱石の研究計画を遂行しようとすると、下調べの途中で死にます。もちろん漱石だって自分の読書の限界を歎いていましたが、今や家や図書館でインターネットに接続すれば世界中のデータベースにアクセスできる、そこで過去の文献を集めて研究できる、逆にいえば完結した書斎を持つことができないという状況になっている。そこが『日本近代文学の起源』の成立した頃との大きな違いで、膨大な資料にアクセス出来てしまう、でも読みきれない、どこにいてもアクセスするのをサボっているだけになってしまう状況の中で、自分に何が出来るか悩んでいます。
山本 貴光氏
山本
それはとても面白く、今日的な、かつ今後ますます深まっていくかもしれない悩みですね。その気になれば、各種言語でそれこそ古代メソポタミアの粘土板から写本はもちろんのこと、各分野の印刷本や学術論文や学会誌のバックナンバー、あるいは最新の数学論文のドラフトまで、インターネット上のアーカイヴでずっと調べ物を続けられてしまいます。それに対して例に挙げてくださったアウエルバッハや柄谷さんの場合は、そのときどこにいるかで目にできる資料にも物理的に制限があったわけです。
今の服部さんの話を聞いて思うことが二つあります。一つは、大きく知の見当識を養うという方向です。全てを読むことはできないとしても、学術なら学術のマップを大まかに把握しておく。そうすると、そのつど探究している問題に応じて、どこを見ればよいか、どこはそれほど見なくてよいかを判断する手がかりになります。ホームズが、情報というのはどこを探せばよいかを押さえておくのがコツだよと言っていました。どこを探せばよいかという知見は、日頃からマップを広く眺めておくことで養われるように思うのですよね。いわば百学の連環を見ておくというわけです。これは『文学論』の序文で漱石が学生に勧めていたことでもありました。
それから、もう一つ、これも釈迦に説法で恐縮ですが、終わりのない調査を有限のものにする手としては、問いの立て方が有効かもしれません。仮に資料の全体が目の前にあるとき、問いがフィルターになって、見るべきものをふるいにかけてくれるわけです。ただし、ここは難しいところでもありますね。漱石は文学とはなにかという問いを念頭に置いて、はじめは文学書を読んだ。でも、それでは文学は捕まえられないと痛感する。そこで、心理学や社会学、自然科学の知見を視野に入れてみて、ようやく文学の姿が見えた。このとき漱石は、文学とはなにかという問いから、文学を営む人間の意識はどんな仕組みかという問いを引き出して、検討する範囲を絞り直したとも言えます。

補助線として別の話をすると、たとえばデジタルゲームの制作でも似たことが生じています。昔はゲームといえば、限られた機材と知識を使って作っていたものです。今はネット上で便利な道具や豊富な材料を無料で利用できるようになって、以前と比べたら制限はずっと少ない。残る問題はなにか。実はどんなゲームを作るかというアイデアこそが問われることになる。その設定によって可能性を制限してこそ、使うべき材料や道具を絞れるわけです。
話を戻せば、インターネットで多くの資料を見られるようになって、調べ物をずっとやっていられれば幸せなんだけどそうもゆかない(笑)。では、どこで止めるかというときに重要なのは結局問いなのではないかと思います。この問いに答えるためにはさしあたりここまででよいと。非常に基本的なことになりますが、結局はそこに戻ってくる。
服部
インターネット時代の博文学には、広く集めることに終わりがない。集めながら自分の文学問題を作り替えていくような作業が何度も必要で、そこで自分の有限性と相談しながら問いを作り替えていくということなのかな、と本書を読みながら考えていました。
山本
それはまさに現在進行中のAIとビッグデータをどう使うかという話とパラレルです。データは膨大にある。機械学習で半ば自動的にデータを処理もできる。では、そのデータやAIをどう扱うか、意味のあるものに出来るか。そのデータの山やAIにどんな問いを投げかけるかで抽出できる答えが変わってくる。技術やデータがいくら発達しても、結局は人間がそのデータの塊やプログラムに何を問いかけるかこそが問題だったりする。問いが不適切なら、AIもデータもただのゴミの山になってしまう。服部さんがご指摘のように、デジタル環境の発展によって厖大な文献を探し読めるようになったとき、その状況で研究をする場合にも同じことが言えようかと思いました。デジタルヒューマニティーズ(人文学)についてつけ加えれば、個人では見切れないほど巨大な資料やデータを、研究に資する、人間の身の丈にあった形に仕立てたり共有するための支援ツールの開発も待たれますね。
2
この記事の中でご紹介した本
文学問題(F+f)+ /幻戯書房
文学問題(F+f)+
著 者:山本 貴光
出版社:幻戯書房
以下のオンライン書店でご購入できます
このエントリーをはてなブックマークに追加
山本 貴光 氏の関連記事
服部 徹也 氏の関連記事
WEB限定のその他の記事
WEB限定をもっと見る >
学問・人文 > 評論・文学研究 > 日本文学研究関連記事
日本文学研究の関連記事をもっと見る >