世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか? / 山口 周(光文社)エリートこそ哲学を教養の基礎に 「哲学教育」がガバナンスを高める|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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2018年1月7日

エリートこそ哲学を教養の基礎に
「哲学教育」がガバナンスを高める

世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?
著 者:山口 周
出版社:光文社
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日本企業による不祥事が後を絶たない。この状況に対して、いつも出されるのが「更なるガバナンスの強化が必要」という結論だが、本当にガバナンスの強化で不祥事は防げるのだろうか。ガバナンスは人為的システムであり、システムである以上、どこかに抜け道が必ずある。根本的な原因は不祥事を犯すに至る心理的メカニズムであって、ここにメスを入れない限り「不祥事天国=日本」の状況は改善しないと思う。

ではどのようにすればいいのか? 盲目的な海外礼賛には眉をひそめたくなるが、この点については海外の取り組みが参考になると思う。エリートの見識を養成するための教育施策として最も普遍的に行われているのが哲学教育だった。17世紀以来、エリート養成を担ってきた欧州名門校の多くでは、長いこと哲学が必修となっている。

例えば、英国の政治エリートを数多く輩出してきたオックスフォードでは、これまで長らく、文系・理系を問わずに歴史と哲学が必修科目とされてきた。現在でも、エリート政治家を多く輩出している同校の看板学部は「PPE=哲学・政治・経済学科」である。

日本の大学システムに慣れ親しんだ人からすると、なぜに「哲学と政治と経済」が同じ学部で学ばれるのか、と奇異に思われるかも知れないが、彼らの考え方はシンプルで、政治と経済を担うエリートこそ哲学を教養の基礎として身につけなければならない、ということだ。エリートには大きな権力が与えられることになるが、哲学を学ぶ機会を与えずにエリートを育成することはできない、それは「危険である」というのが特に欧州における考え方なのである。

同様の思想はフランスにも見られる。フランスの教育制度の特徴としてしばしば言及されるのが、リセ(高等学校)最終学年における哲学教育と、バカロレア(大学入学資格試験)における哲学試験である。文系、理系を問わず、すべての高校生が哲学を必修として学び、哲学試験はバカロレアの第一日目の最初の科目として実施される。そのような試験において、文系・理系を問わず、最重要の科目として「哲学する力」が必修の教養として位置付けられているのである。

これらの大学教育に加えて、たとえば経営幹部の教育研究機関として著名な米国のアスペン研究所では、哲学に関する講座が主要プログラムの一つとなっており、全世界から集まるグローバル企業の幹部が、風光明媚なアスペンの山麓で、プラトン、アリストテレス、マキャヴェリ、ホッブズ、ロック、ルソー、マルクスといった哲学・社会学の古典をみっちりと学んでいる。

翻って、ではわが国のエリートは、どのようにして見識を高めているのだろうか。本書の執筆にあたり、事前リサーチとして複数の日本企業・海外企業の経営人材育成担当者にインタビューをさせてもらったのだが、最も「思想として違うな」と感じたのは、この「哲学教育」の部分であった。

誤解を恐れずに言えば、海外のエリート養成では、まず「哲学」が土台にあり、その上で功利的なテクニックを身につけさせるという側面が強いのに対して、日本では、土台となる部分の「哲学や美意識に関する教育」がすっぽりと抜け落ちていて、ひたすらにMBAで習うような功利的テクニックを学ばせている、という印象を持った。

明治時代に活躍した哲学者の中江兆民は「我日本古より今に至る迄哲学無し」「総ての病根此に在り」と、日本という国に「哲学」がスッポリ抜け落ちていて、それが様々な問題の根幹にあるという指摘をしているが、百年以上たっても状況はあまり変わっていないということか。
この記事の中でご紹介した本
世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?/光文社
世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?
著 者:山口 周
出版社:光文社
以下のオンライン書店でご購入できます
2018年1月5日 新聞掲載(第3221号)
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