中原中也 沈黙の音楽 / 佐々木 幹郎(岩波書店)『中原中也―沈黙の音楽』の方法  推敲過程をたどり作者の精神の軌跡描く|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
読書人よ、集まれ!
▶メールマガジン登録

トップページ

特集

書評

連載

コラム

ニュース

読書人とは

著者から読者へ
2018年1月7日

『中原中也―沈黙の音楽』の方法 
推敲過程をたどり作者の精神の軌跡描く

中原中也 沈黙の音楽
著 者:佐々木 幹郎
出版社:岩波書店
このエントリーをはてなブックマークに追加
一人の詩人について論じようとするとき、大きくわけて二つの方法がある。詩人論と作品論である。

前者は伝記的事項を中心として、評伝スタイルをとる。時代や人物像が重視され、作品はその像と結びつけて論じられる。ここでは、評者の恣意的な感想や好みが比較的優位性を持つ。

後者は作品の変遷過程を重視して、テキストのなかから基調となるテーマを浮かび上がらせる。この場合は時代や人物像は背景となり、直接的には作品とは結びつかない。作品と結びつくのは、作者の生きた時代の文化的な特徴だ。

これらのいずれとも違う論は成立するだろうか。というよりも、これらの方法のなかで共通しているのは、残された作品(あるいは既刊本に収められた作品)が完成されたもの、ということが前提になっていることだ。また、詩人論の場合も作品論の場合も、どちらも評者が批評のキイワードを見つけて、そのキイワードに沿って作者と作品の全体像を描こうとすることだ。評者は作者と作品が歩いていた霧のなかではなく、霧が晴れた状態で、傲慢に見下ろしている。批評言語はつねに強者の言葉になる。

しかし、作者はいつでも霧のなかにいる。一人の人間の生涯も作品も、つねに完成とはほど遠いところにある。人間は多面的であり、多くの場合、弱者であり、一つのキイワードで括ることができるような生き方を、誰もしていない。

作品もまた同じで、作者が生きている間、絶えず揺れ動いている。作者が死んでしまったら、その揺れは止まるのだろうか? いや、止まらない。後世の読者の新しい読み方によって、作品は再び揺れ動き出すのである。

対象たる作者が凡人であれ天才であれ、そのことは同じだ。その同じ位相で、人物も作品も未完成のまま揺れ動くさまを描くことができれば、また揺れ動く理由を見つけ出すことができれば、一人の詩人を立体的につかまえることができるだろう。「立体的」とは、過去の時代だけ揺れ動いていたのではなく、現在においても同じように揺れ動いている、ということだ。そこに普遍的な問題が浮かび上がる。

『中原中也―沈黙の音楽』では、中原中也の詩作品や散文作品など、草稿が残されているものは、その推敲過程をたどることによって、テキストの揺れ動きと、それを見つめる作者の精神の軌跡を描こうとした。この方法を作品の生態論とも生成論とも呼んでいいが、一人の天才詩人にだけ通用する方法ではなく、凡人の誰を対象としても、その揺れ動きの生態に近づくことができれば、そこから見えてくる日本語の生成の姿は、圧倒的に面白いのである。しかもそれは五十年や百年という短い単位のことではなく、もっと長い射程の日本語の揺れとして見えてくるものだ。そのとき一人の作者、一人の人物像は、誰であっても輝くのである。いわんや中原中也においてをや。
この記事の中でご紹介した本
中原中也 沈黙の音楽/岩波書店
中原中也 沈黙の音楽
著 者:佐々木 幹郎
出版社:岩波書店
以下のオンライン書店でご購入できます
2018年1月5日 新聞掲載(第3221号)
このエントリーをはてなブックマークに追加
著者から読者へのその他の記事
著者から読者へをもっと見る >
学問・人文 > 評論・文学研究 > 作家研究関連記事
作家研究の関連記事をもっと見る >