映画撮影と死の主題に新たな地平  諏訪敦彦「ライオンは今夜死ぬ」|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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2018年1月16日

映画撮影と死の主題に新たな地平 
諏訪敦彦「ライオンは今夜死ぬ」

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高齢の俳優ジャンが映画のリハーサルをするが、相手役の問題で撮影がしばらく中断される。ジャンは控室で監督に死の演技について尋ねる。諏訪敦彦の新作『ライオンは今夜死ぬ』は、この冒頭が示唆するように二つの主題を軸としている。映画撮影と死の主題だ。映画撮影をめぐる映画は枚挙にいとまがない。この作品の新味は、ジャンが撮影の中断中に子供たちに出会い、彼らのアマチュア映画に出演する点にある。一方、死の主題は、ジャンがかつて愛した女の幽霊を見ることで、幽霊の主題としても展開される。子供たちの撮る映画も幽霊もので、映画撮影と死の主題は密接に絡み合う。そもそもカメラで撮られた人物は皆どこか亡霊のようなものだから、この二つの主題が結びつくのも自然なことだ。

写真を映画の暗喩と捉えるなら、黒沢清の『ダゲレオタイプの女』もまた映画撮影と死をめぐる同じ主題体系を示す作品と言える。どちらも、日本人の監督がフランスで撮った作品だ。ただし、黒沢清の映画では幽霊が強い恐怖をもたらすが、諏訪敦彦の新作は恐怖と無縁である。また、前者では非日常への扉が開かれた先に死と幽霊の主題が現れるが、後者では、「死は生とともにあり、生の影である」とジャンが語るように、それらは常に日常とともにある。ベルクソンは死を語るのを徹底して避け、ハイデガーは死に過剰な意味を与えた。諏訪敦彦はこの新作で、この二人のどちらとも異なるごく自然な死生観に到達している。緑色の服を着た女の幽霊がジャンの前に初めて現れる場面での秀逸な鏡の使い方を見れば、生者と死者の間に大した違いはなく、いつでも反転可能なように思えてくる。

諏訪敦彦の新作で幽霊が現れるのは、大抵明るい光のなかだ。幽霊が夜道を歩いても、そこに不気味な闇は一切存在しない。明るい光はジャンや子供たちの軽やかな調子と相俟って、映画に幸福な味わいを与え、過去の作品と異なる新たな地平を切り開いている。

コート・ダジュールの眩い陽射しのもとで人物たちが軽やかに振舞い、かけがえのない何かが画面に刻印される。晴天の戸外でジャンと子供たちが話すある場面を思い出そう。子供たちがジャンに映画の脚本を説明する。ジャンは脚本を褒め、話は子供たちの将来や女の幽霊のことへ移っていく。この場面が素晴らしい。山の高みや湖畔の壮麗な風景はここになく、歌が場面を盛り上げることもない。室内での鏡やドアの巧みな演出もなく、ジャンが子供たちを奇妙な仕草や林檎で脅かすこともない。特別な仕掛けのないさり気ない場面なのに、何故こんなにも充実しているのだろうか。別の箇所で、諏訪敦彦の『ユキとニナ』の少女ユキが現れて、ジャン=ピエール・レオー扮するジャンと話をしていたのを思い出そう。同じ子役の作品を跨いでの再登場は、ドワネルを繰り返し演じたレオーのキャリアへのオマージュだ。レオーは子役から出発した名優だが、老齢に達して、この作品でかつての自分のような子役たちに接した。先述の戸外の場面で、レオーは子供たちに映画の脚本について語りながら、子役の頃の自分を彼らに見出していたのかもしれない。演技の自覚なき名優の卵たちと演技を知り尽くした名優の対話。これこそ、諏訪敦彦がこれまでに撮った最も優れた場面である。

今月は他に、『ダークタワー』『花咲くころ』などが面白かった。また未公開だが、ジェームズ・グレイの『ロスト・シティZ 失われた黄金都市』も素晴らしかった。
2018年1月12日 新聞掲載(第3222号)
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