映画原作派のためのアダプテーション入門 フィッツジェラルドからピンチョンまで / 波戸岡 景太(彩流社)「今という時代の物語」  「映画化される」側の視点から解明|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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2018年1月13日

「今という時代の物語」 
「映画化される」側の視点から解明

映画原作派のためのアダプテーション入門 フィッツジェラルドからピンチョンまで
著 者:波戸岡 景太
出版社:彩流社
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「映画って原作をそのまま映像化するだけじゃないんだと改めて思いましたね」。新聞によれば、映画『火花』の初日舞台あいさつで、原作者である又吉直樹は、しみじみとそう語ったそうだ。

古くから、映画と小説は切っても切れない関係にある。最近のアメリカ映画でも、スティーブン・キングの『イット』、デイヴ・エガーズの『ザ・サークル』、R・J・パラシオの『ワンダー』などがあるし、日本公開は未定だが、ディケンズやサリンジャーの伝記映画も制作されている。

だが好きな小説が映画化されると聞いて、思わず顔をしかめた経験のある人もきっといるはずだ。そもそも小説を映画にすることにどんな意味があるのだろう? 本書はそんな疑問を持つ「原作派」の人のために書かれた「アダプテーション」論の入門書だ。

「アダプテーション」とは聞き慣れない言葉だが、かつては「翻案」あるいは「脚色」といった言葉で理解されていたことへ、原語(adaptation)に含まれる進化論的な意味合いを付加すべく使われるようになった言葉なのだという。つまり、「アダプテーション」論とは、「小説という『種』が映画という『環境』に適応していくプロセス」を、「映画化される」側の視点から解明することを目的としているのだそうだ。

著者の波戸岡景太は現代アメリカ文学・文化の専門家であり、トマス・ピンチョンの研究で知られている。本書で取り上げられるのもすべてアメリカ映画だ。『ファイト・クラブ』、『オン・ザ・ロード』、『バードマンあるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』、『ティファニーで朝食を』、『アダプテーション』、『華麗なるギャツビー』等々。ピンチョン原作の『インヒアレント・ヴァイス』には、一つの章がまるごと割かれている。
「映画化とはむしろ、小説が『原作化』すること」なのだと波戸岡は主張する。「原作化」した小説に対して、映画は決して二次的な存在ではない。一般的には、小説を「映画化」する際は「逐語的」なトランスレーション(翻訳)、つまり原作に忠実であることが望ましいとされがちだが、ときには原作を裏切るようなアプロプリエーション(盗用)が、「物語(小説)の新たなる環境(映画)への適応」を助けることもある。
『インヒアレント・ヴァイス』を監督したポール・トーマス・アンダーソンは、「原作のセリフを忠実に採用しながらも、そのセリフを異なる人物の口から喋らせ」た。そのズレから生まれる違和感によって、このいかにもピンチョン的な映画は、「このピンチョンは自分の知っているピンチョンではない」という映画になったのだと波戸岡は指摘する。「ジャメブ」や「カプグラ症候群」といった感覚を用いたり、松田青子のエッセイを引用したりして、ピンチョン的な主題に迫ろうとする第6章は非常に読み応えがある。「飛ばされた食べ物のシーンのことをいちいち心に留めながら見ていたので、上映後、とてもお腹がすいていた」という松田は、それから何を食べたのだろうか。

終章で、波戸岡はこう書いている。「アダプテーションというのは、その後に、小説単体でも映画単体でもなし得なかった、新しい文化的な物語を生み出してしまうものなのである」。そしてそれは「今という時代の物語」なのだと。

従来の方法論では言語化できないもどかしさを出発点とした本書は、読者である私たちにも自分の言葉で語ることを唆す。そうして語られる言葉は、きっと、アメリカだけでなく、すべての「今という時代の物語」、たとえば又吉の「火花」について語るときに、私たちが語る言葉になっていくはずだ。
この記事の中でご紹介した本
映画原作派のためのアダプテーション入門 フィッツジェラルドからピンチョンまで/彩流社
映画原作派のためのアダプテーション入門 フィッツジェラルドからピンチョンまで
著 者:波戸岡 景太
出版社:彩流社
以下のオンライン書店でご購入できます
2018年1月12日 新聞掲載(第3222号)
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