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2018年1月30日

新フェビアン協会発起人会

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新フェビアン協会は将来大いに社会主義其他の思想を研究すると共に機関雑誌を発刊して各自の意見を発表し我国の思想界に一新紀元を劃さんと志しつつあるので是が将来は一般識者間に極めて注目せられているのである。(『歴史写真』大正15年3月号)

「フェビアン協会」は、英国の社会主義知識人の運動組織として、十九世紀に設立された。バーナード・ショウらが参加していて、暴力革命ではなく、ゆるやかな変革を目指していた。協会そのものは、現在もあるが、労働党の基盤である。

この写真は、「新フェビアン協会発起人会」として、『歴史写真』大正十五(一九二六)年三月号に掲載された。

「一九二四年四月二十七日、『日本フェビアン協会』が創立された。・・創立当初は二十八人しかいなかった会員が、年末には八十七人に達したという。下中弥三郎、小川未明なども加わったが、結局仲間割れの形で一年もたたずに姿を消してしまった」とウィキペディアにあるが、この写真記事と違いがある。

記事では、「以前からあったフェビアン協会はその運動が余りに生温く存在すらも不確かな状態であったので、此のたび安部磯雄、山崎今朝弥氏等を中心とする日本フェビアン協会を創設することになり」とある。

一年ももたずに消滅したのではなく、再起を図って、しばらく存続したようだ。

『読売新聞』が、「新協会」の終えんを伝えるのが、大正十四年十二月十六日の紙面だ。ここで安部ら十八名によって解散が決まったが、「第二フェビアンソサイテイをつくるらしい」と報じている。『歴史写真』の報道は、翌十五年一月に目白の安部邸で開かれた「第二」(新協会)の発起人会を撮影している。

しかし、この新協会も長続きしなかったようで、安部は同年十二月五日に結成された社会民衆党委員長に就任し、昭和三(一九二八)年の普選で衆議院議員になっている。新フェビアン協会が解散したのか、形だけ存続したのか、調べきれなかった。

いずれにしても、この一枚は、日本に根付かず「うたかた」と消えた穏健派社会主義組織の、つかの間のメンバーをとらえた貴重な映像だ。

写真右から川原次吉郎、宮崎龍介、木村毅、秋田雨雀、大宅壮一、安部磯雄、松永義雄、山崎今朝弥、富士辰馬。

秋田は、社会運動家だが新劇に力を注いだ詩人・童話作家・小説家、そしてエスペラント語の普及につとめた新進の文化人だった。

秋田と安部の間から顔をのぞかせているのが大宅壮一。帝大新人会に参加し、結婚していたが離婚して、フェビアン協会で知り合った愛子と再婚する。この時期は、その渦中だったのだろうか。若い大宅の表情が珍しい。

宮崎は、大正期を沸かせた「柳原白蓮事件」の主人公。白蓮は大正天皇の生母の姪という名門の歌人で、九州の炭鉱王と政略結婚していたが、帝大生だった宮崎のもとに走って結婚した。華族の身分から解放されるには時間がかかったが、夫妻は最後まで添い遂げる。この写真のあと、宮崎は安部とともに社会民衆党に参加する。

安倍はキリスト教的人道主義の立場から社会主義運動に入るが、もう一つ安部には早稲田大学野球部創設者であり「日本野球の父」と呼ばれた顔がある。

男たちがたった一つの火鉢で暖を取りながら集まる地味な写真だが、大正から昭和期を彩る人物がキラ星の如く並んでいたのだ。

大正はまもなく終わり、一年足らずで昭和時代が始まる。平成の閉幕とちがって、天皇崩御による突然の改元だった。
2018年1月26日 新聞掲載(第3224号)
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